唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (49) 中随煩悩 無慚・無愧 (15)

2015-08-03 21:10:31 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 違文を釈す(『成唯識論』の記述と諸文献との記述との相違を会通する)。
 「然も諸の聖教に、自他を顧みずと説けるは、自と法とを自と名け世間を他と名く、或は即ち此が中に善を拒し悪を崇せりという、己に於て益(やく)し損するを自他と名くるが故に。」(『論』第六・二十七右)
 (しかも諸々の聖教に、自他を顧みずと説かれているのは、自と法とを自と名づけ、世間を他と名づけているのである。あるいは、此れが中に(『成唯識論』)には「善を軽拒し悪を崇重せり」と説かれている。諸文献では、賢善が自分に対して利益し、(暴悪)が自分に損うことを、それぞれ自と他と名づけているのであって『論』の所論と相違はない。)
 会通に二解示されます。
 「述して曰く。下は違文を釈す。中に於て二解を以て諸経を会す。世間の中に亦世の典と王の法令の等きを以て摂せり。己を益せざるが故に。」(『述記』第六末・七十七左)
 『述記』における、世間の解釈に「世の典と王の法令」という、四書五経(四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」をいい、五経を以て四書よりも高しとする。)等の世典と法律なども含むとしています。当時の世間の規範は儒教でいう仁義礼智信でありますので、世間はこれらを所依として秩序が保たれていると云えましょう。ここに鋭くメスを入れて解釈されたのが、仏教でいう世間の在り方ですね。つまり出世間に対する世間の在り方です。
 第一の会通
 「自と法とを自と名け世間を他と名く」の一文
 『論』の解釈 ・ 無慚を「自と法とを顧みず」、無愧 を「世間を顧みず」。諸文献では、無慚を「自を顧みず」、無愧を「他を顧みず」と釈している相違について会通してきます。この所の会通は以前にも述べていますので省略します。
 第二の会通
 「善を拒し悪を崇せり」という一文です。
 『論』の解釈は、一つは無慚について「賢善を軽拒する」、二つめは「暴悪を崇重する」ということですね。緒論は、「己に於て益し損するを自他と名く」という一文です。賢善が自分に対し利益することであり、暴悪が自分を損なうことを、それぞれ自と他と名づけていおるのである。
 無慚・無愧の解釈にあてはめますと、賢善を軽拒することを「自」といい、暴悪を崇重することを「他」と名づけているのです。ですから、「自を顧みず」・「他を顧みず」という諸経論の解釈と、『論』の解釈は相違しないと云うことになると会通しているわけです。