唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門 (4) 触の心所 (2)

2015-08-26 23:57:15 | 初能変 第三 心所相応門


 

 「謂く根と境と識との更相(たがい)に随順なるが故に三和と名く。」(『論』第三・初右)
 三和生触(さんなじょうそく)といいますが、三つが出会ってそこに一つの認識が成り立つのです。認識の根柢に在るのが「触」の心所なんですね。
 「正しき三和の体は謂く根と境と識となり。体異なるを以て三和と名く。相乖返(かいへん)せず。更相(たがい)に交渉するを名づけて随順とす。眼識生ぜざる時、眼根と色境と或は起こるが如きを名づけて乖返とす。又耳根と眼識と香境との三法乖返せるが如きは三和とは名づけず。若し相順ぜるときは三必ず倶に生ず。既に相違せざるが故に随順と名づく。根は依と為る可く、境は取と為る可く識は二に生ざられて根に依として境を取る可く、此くの如く交渉するを三和の体と名づく。」(『述記』)
 乖返は乖違或は乖反のことで、論理的に矛盾していること。互いに相違していること。
 取(しゅ)は認識すること。
 根は認識を起こす依り所なんですね。境は認識されるもので、根と境によって識が生じ、識が生ずることに於いて根が依となり対象を認識する働きが生まれてくるという構図になります。つまり、認識は識別なんです。外界に実体としてのものがあるわけではなく、心が映じたものが、あたかも実体的にあるかのように錯覚を起こしているのであって、心の中に映じたものが外に投影されたもの、心に似た相が現れているだけに過ぎないということなのです。
 しかし、これがなかなか頷くことができないのですね。
 「煩悩具足の凡夫」といわれるのは、外界は実に存在し、変化することのない私が存在していると思っています。いかり、はらだちは外界の責任であって、私は被害者という立場です。このようなエゴイスチックな私に気づけよ、気づいた私が「煩悩具足の凡夫」であった自己なんですね。
 人間はどこまでいってもエゴイストでしょうね。エゴはエゴを満足させるためだけに動いています。確かにエゴを満たせば心地いいのかもしれませんが、一時的です。長続きはしません。なぜなら、次の波が襲ってくるからですね。条件が刻々変化していますから、エゴもそれに応じて変化させているんです。ですからエゴが満たされないときの方が多いのかもしれません。
 どうでしょうか、エゴが傷つけられたら怒り心頭なんではないですか。
 エゴは自己中心性ですから、密かにエゴを知られまいとしてエゴに正当化の論理をもって覆い隠していきます。エゴは自分の意に沿うときは喜び、意に沿わないときは怒り・悲しを覚えます。しかし、このような状態は不安定です。安定を求めながら、不安定で在るというのは何故なんでしょうか。「このような疑問をもって安定を求めたのが仏教徒でしょう。自己中心のエゴスタイルは、本当の安らぎを得ることはできないんだ、と。
 そので、見破られたのが、自分に対するあくなき執着性ですね。自己執着性が、安らぎを求めながら、自己を縛って、苦し悩むむことを余儀なくさせる根本の原因であったと。そこに目覚めて、自己中心のエゴ性からの脱却を目指したのが仏教徒でしょう。
 順境の時は、意に沿うエゴが満足していますから、何等問題は起こりませんが、順境が一転して逆境になった時に「何故・どうして?」という問題が沸騰してきます。しかし、ここが大事なところなんでしょう。逆境、言葉にすれば、自分にとって許されないことを言われた時、或は批判された時、非難された時です。
 ここで立腹するのは、自己に執われがあるからですね。執われからの解放を目指す仏教徒が、一番真摯に向き合わなければならない事柄です。逆境、これがとりもなおさず私にとっての善知識なんです。問題は外にあるのではないということです。自己の中に、自己を埋没させる因が隠されているということなんですね。自我の矢が折れるのは、自我の矢を知らしめたものの存在が大きいのです。逆境を縁として、自己存在の無意識の働きである阿頼耶識との対話が重要な役割をもっていることでしょう。ここに眼を覆うのではなく、しっかりと眼を開いて自己に向き合っていきたいものです。