唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (50) 中随煩悩 無慚・無愧 (16)

2015-08-06 22:53:50 | 第三能変 随煩悩の心所
  沢木興道

戦後70年、私の生きざまそのものである。はからずも人としていのちを頂いたのであるが、いのちは矛盾に満ちた、そんな、いのちと共存しているのが私という存在である。
いのちある者は、いのちあるすべての存在をを殺めてはならないというのが仏陀釈尊の遺言である。
 不殺生戒、重い戒めである。いのちは、いのちを奪うことにおいて、いのちを養っているという矛盾の中においてのみ生き得る存在だからである。生き得るのは、他のいのちを奪うと云う行為の上に成り立っている。いかなる理由をつけても、生を享受したその時から矛盾を孕んでいる。正しく生きようとすればするほど、立ちはだかる壁の高さに跳ね返されてしまうであろう。私には、「正しく」は禁句である。未だかって襟を正して生きてきたことはなく、自分の思う通りに生きてきて、そんな自分に縛られて、縛られている中から、自分の思いを通うとしている愚かな人間である。愚かさも、言語上の表現で、愚かとは思っていないのが実情である。
 しかし、無自覚の中でも、人は他のいのちを頂いている。不殺生戒といのちの事実、この矛盾が有漏を性として生きながら、有漏である存在に気づくことのない自己自身に出遇うのである。恥ずべし、傷むべしである。
 他を傷つけてはならないというのは、他を傷つけてしか生き得ることができない懺悔心からほとばしり出た言葉であろうと思う。
 戦後七十年、先人たちの叫びを、また涙された終焉の一滴を、私は聞き得るのであろうか。はなはだ疑問である。無慚・無愧の教説によって、恥じる心のない自分に出遇う、地獄一定、地獄は自分が作りだした、自分の居場所、存在の根拠としての地獄、地獄がなかったら自分という存在に出遇うことはなかったであろうと思う。有り難きかな、南無阿弥陀仏。

 他の諸文献と『成唯識論』との相違を(無慚・無愧の存在論について)会通する。
 「而も論に説いて貪等が分(ぶん)と為せるは、是れ彼が等流なるを以て、即ち彼が性には非ず。」(『論』第六・二十七右)
 (しかも、諸論書に無慚・無愧が貪等の分位であると説いているのは、是(無慚・無愧)が、彼(貪等)の等流であることから貪等の分位であると説かれているのであって、実際に彼(貪等)が無慚・無愧の性ではない。)
 諸論諸は、『述記』により『瑜伽論』巻第五十八、『対法論』巻第一等であることがわかります。分位は分位仮立法ですから、仮法であることを以て諸論書は説いているということに成ります。
 『対法論』(『大乗阿毘達磨雑集論』大正31・699a)に「無慚とは、貪と瞋と癡との一分にして、諸の過悪に於て自ら恥ざるを体と無し、一切の煩悩と及び随煩悩との助作たるを業と為す。無愧とは、貪と瞋と癡との一分にして、諸の過悪に於て他に羞じざるを体と為す。業は無慚に説けるが如し。」
 『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623a)に「癡の等流と為るは、遍依なるを以ての故に」(無慚・無愧が悪心に遍満することと、癡が染汚心に遍満することと相似していることから癡の等流であると述べているにすぎず)と。つまり「余の随煩悩は是れ癡の品類にして、是れ癡の等流なり。」という文言から伺えます。文言からは、無慚・無愧は仮法として説かれているということになりますので、当然『成唯識論』では無慚・無愧の二法は実法であると説かれていることから矛盾があるわけです。本科段はこの矛盾を会通するのです。
 護法さんの答えは「是(無慚・無愧)が、彼(貪等)の等流であることから貪等の分位であると説かれているのであって、実際に彼(貪等)が無慚・無愧の性ではない」ということです。ここで言われている等流は、等同流類のことで、因と等しく同じ種類のものとして生じたものをいいます。
       等同流類 ― 実法
  等流 〈
       分位等流 ― 仮法
 先ず、等流に二種あることが示され。本科段で言う所の等流は、分位等流ではないということになります。 もう少し考究が必要です。(つづく)