唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (16)

2015-08-19 22:23:24 | 初能変 第二 所縁行相門



 昨日朋友からラインをいただきました。そこに綴られていたのは非常に感銘の受けるものでありました。私は常日頃あたかも仏法を知っているふりをして語っておりますが、仏法はこういう風にして生きているんだなと教えられました。私の語りは机上の空論であり、親鸞聖人からは、「善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり」と教えられていることだなあと、頭を打ち付けられたような衝撃を受けました。友は介護の仕事をされているのですが、介護を通して触れられたことなんです。
 「その方は、交通事故に巻き込まれて、下半身不随になり、余儀なく車いす生活をなりました。その方と買い物やランチをご一緒させていただいてます。僕が(今の現場を)退職することを聞いて、その方が「某さん、あのね、もし、僕が、不慮の事故に遭わなかったら、もしかしたら、某さんに出会うことがなかったかもしれませんね。車いす生活になって、しばらくふさぎこんでましたが、某さんだけでなく、たくさんの方の優しさに触れました。某さん、、短い間でしたが、楽しい時間をありがとうございました。」
 とお礼をされました。思わず、涙が出てきました。悲しい現実から育まれた優しさと温かさに触れることができました。・・・その方は、決して聞法をされている方ではありません。しかし、その方のおっしゃる言葉には、法の風が吹いていると思いました。。ほんとに介護を通して、聞法させていただいてます。」
 このお話を聞いて、「この身がありがたいのです。この身が仏法にあわさせていただいた。この身がなかったなら、ほんとに大事なことを知らないで一生過ぎたと思います。」と語られた先達のことを思い出しました。私は、いつも不満足で、どうしたら満足がいくのか、闇の中でダイアモンドの原石を探すような愚かさを、真面目な顔をして日暮しております。
 亡き父は、死の間際に「俺の人生一体何だったのか」と私に問いを投げかけました。それは「今満足しなかったら、いつ満足するんや」と云っているように聞こえました。仏法の課題は、今在る身をいただけるのかどうかなんでしょうね。いつも不足ばっかりなんですが、不足の根拠はどこにあるのでしょうかね。どうも比較の上に成り立っているように思えます。私にとって、が中心ですね。いのちあるものは、つながりのなかでいのちを支えあい、育みあって生かされている存在ですね。そこに縁起が語られるのですが、縁起を無視した在り方が、「私にとって、都合のいいことには、とことんむさぼり、都合の悪いことには、怒りをあらわにする」、出所は「私にとって」という愚痴でしょう。縁起を無視したことによる有無の見ですね。
 先程の車いすの方は、ちゃんと縁起された身をいただかれています。それまでの道のりは大変だったとは思いますが、そんな自分を支え、励ましてくれる周囲の温かい眼差しに触れられて、出会いの素晴らしさを体感されていらっしゃるのでしょうね。
 昨日のブログでの言葉でしたら、「現縁の力の撃発するに随って」ですね。身はいただいているんですが、この身をいただけるかは「今」にかかっているんですね。縁起を無視した業力によって引きずった身をいただいているわけです。それが縁起の身を生かされている視点に変わる時、つながりを生き得る存在に変革されるんでしょうね。
 「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と。

 もう一つ昨日の会話の中から思い出されたことが、『歎異抄』第九条のお言葉です。
 「「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。・・・」

 彼女の問題は、執着する自分が居て苦しんでいる、ということなんですが、執着する自分を作り出している「私」がいるんですね。この私が、執着は悪だと裁いている。裁きている私が見えたなら、それは「煩悩の所為なり」と教えられていることです。執着(煩悩)を縁(手がかり)として念仏に触れていく、そこに広
大無辺な世界が開かれてあったことに頷きを得ることができるのでしょう。
 
 「悩みは覚りの一里塚、握ったら執、放したら覚」

 

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