五遍行について その(1) 触の心所
「触と云うは、謂く三和して変異(へんい)に分別(ぶんべつ)し心・心所をして境に触れ令むるを以て性と為し、受と想と思等の所依たるを以て業と為す。」(『論』第三・初右)
(「触ノ心所ト云ハ、心ヲ心ガ知ルベキ所ニヨク触シムル心ナリ」(『二巻鈔』)
触の性(本質は)、「三和して変異(へんい)に分別(ぶんべつ)し心・心所をして境に触れ令むる」ことなんですね。
三和は、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)との三者が一つの場の中で相互に関係し結合しなければならない。三者が結合することを三和合とよぶが、この三つが和合したところに生じ、しかも、逆に三つを和合せしめるような心作用を触とよぶ。(『唯識とは何か』P138より)
触とは、接触の触ですね。触覚・触感・触診の触ですが、接触が一番意にそう意味ではないかと思います。つまり、くっついて触れあう。関わり合いを持つということなのです。根・境・識がバラバラではないということですね。対象を知るということは、根・境・識の三つが出会ってはじめて境に触れることができるんです。三和合しなかったら、対象を認識することはできないのです。認識が起こっているのは、根・境・識の三つが和合している状態の時のみ認識が成り立っているということなんです。
第八阿頼耶識の所縁は、内執受と外器でした。つまり、所縁は能縁の識である心・心所が似て現れたものだと教えられていました。内執受は、種子と有根身ですね。有根身は身体、まあいえば肉体です。感覚器官は肉体に宿しているわけですから、内的物資です。境は外器、器世間ですから、外的物資ですが、内的物資と外的物質が結合するところに識の働きがあるわけです。
例えば、私たちは本当に物を正しく認識しているのでしょうか。はなはだ疑問です。年を重ねますと、だんだん見えなくなります。見えなくなりますから部屋も綺麗なんです。眼鏡をかけますと汚さが見えてきます。このこと一つをとりましても、対象は無いということになりますね。対象の本質を見ていないというのが正しいでしょうか。どのような状態であっても、認識が成り立っているのは、三和合しているということなんです。その時、その時の状況によって認識が違う、こちら側の問題ですが、こちら側の都合によって外界は変化するわけです。それが「変異に分別する」と云っているのですね。
先日も書き込みましたが、私たちは物を見ている、見えていると思っていますが、漆黒の闇の中では眼は何の作用もしません。こういうことからも、私たちは本当に、正しく世間を見ているのでしょうか。変異に分別しているのではないですか。面白いですね。自分の認識は、自分が作り上げた世界の認識から出ることはないのです。
私たちが世間に対してメーセージを送るとすれば、仏法に触れた縁起の世界、依他起の世界を発信すること以外にはないのでしょう。諸法は無常であり、諸行は無我である。「いろはにおえとちりぬるをわかよたれそつねならん」ということに於て迷っている存在が私なんです。正論だ、大義だという前に、いろんな状況次第で変わっていく自分自身の迷妄の相を鏡に映し出す必要がありそうです。
五遍行の内、受と想と思は触がなければ出てこないのです。受・想・思の所依が触なのですね。触と作意は連動しているのですね触が先か、作意が先なのかは分かりません。『二巻鈔』では作意が先にだされています。