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第四・非遍悪難(悪に遍ずるに非ざるの難)
無慚・無愧の心所はただ不善(染心)であるにもかかわらず、古説の主張では無慚・無愧が悪心に遍在する心所ではなくなるという点からの論破
「若し此の二は実にして別に起ると許さば、復、論に、倶に悪心に遍ぜりと説けるに違しぬ。」(『論』第六二十七右)
(もし、この二つ(無慚・無愧 )は実法であって、無慚と無愧が別々に生起することを許してしまうならば、聖教(『瑜伽論』巻第五十五)に説かれていることと矛盾する。従って古説の主張は誤りである。)
『述記』を見ますと、「別に」は「若し此の二は体実にして、前後に生ずと許さば」とありますから、時間的隔たりをもって、別々に生起することになり、一方は悪心であり、一方は悪心ではないということに成ってしまうわけですね。『瑜伽論』には「倶に悪心に遍在する」と説かれているわけですから、起不起があればですね、倶に悪心に遍在するといえなくなるわけです。
護法の正義・無慚・無愧の行相(働き)
繰り返しの説明になりますが、無慚・無愧の自覚は、本願文に説かれています「唯除五逆誹謗正法」の自覚なんですね。除外すると云う意味ではありません、此処が大事な所で、文面上では「唯除」、五逆と誹謗正法の人は救われませんよ、と読めるわけです。この文面をうけて「救われない身」の自覚が、救いの証になるわけです。大上段から切り込んでいくのではなく、あくまでも衆生の自覚を待って「地獄一定」に立つことを明らかにしたのです。自覚のない者は、五逆・誹謗を犯していることさえもわからないわけです。罪は、自覚の問題です。罰は与えられたものと云うことができましょうね。そういう意味では、仏教は罪の宗教(罪を明らかにした)と云っていいのではないでしょうか。
「不善心の時には、随って何れの境を縁じても、皆善を軽拒し及び悪を崇重する義有るが故に、此の二の法は倶に悪心に遍ぜり、所縁異るに不ざるを以て、別に起るべしという失無し。」(『論』第六・二十七右) (不善心の時には、どのような対象を認識しても、すべて善を拒否し、悪をたっとび尊重するという働きが有る。その為に、この二は倶に悪心に遍在するのである。この二の法の所縁はおなじであるから、別々に生起するという過失はない。)
護法説の行相
無慚の行相 ― (善を)軽拒すること。
無愧の行相 ― (悪を)崇重すること。
無慚の別相 ― 賢善(を軽んじ、拒否すること)
無愧の別相 ― 暴悪(をたっとび尊重すること)
ただただ悪心の時には、これは自己中が見えない自己中の時には善悪の判断の物差しが「私」にあるのでしょう。それを悪心と押さえているんだと思いますね。悪心は私からは見えない心、聞法を通してですね教えられる心だと思います。ですから悪心は有漏・聞法は無漏の種子を植え付けるのでしょう。