唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (11) 前後しますが (6)

2015-08-15 11:36:54 | 初能変 第二 所縁行相門


 (昨日FBにも紹介させていただきましたが)八尾市本町・真宗大谷派聞成坊坊守の前田智子さんに昨日お伺いして、『AKANE』(交通事故で亡くなられたお子さんの名前)の表題のある作品が世に出るまでのいきさつを聞かせていただきました。
 不慮の事故は、ある日突然の出来事でした。お父さんが今日は魚釣りに行こうと家族を誘い出かけられたのですが、その現場で酒気帯び運転(当時18歳の少年)のバイクが幼い子供の命を奪ったのです。即死だったそうです。ご両親の真横で、悲惨としてしか言いようがありません。ご両親は失意のどん底で生きるすべを失い、死ぬことだけを考えておられたそうです。周りの人たちが支えとなり、なんとか自殺だけは思いとどまられたようですが、飲酒運転あってはならないことですね。自分だけは大丈夫という過信が事故につながります。そのことは自分も他人も巻き込んで悲惨です。どうか、このような事故は偶発的ではなく、必然する結果です。「飲まない飲ませない」を合言葉に、酒気帯び運転撲滅の一助になればという思いでこの作品ができあがったようです。前田さんの優しい眼差しが旋律の中にほとばしっています。どうぞ、寄付だと思ってお買い上げください。よろしくお願いいたします。
 売り上げは交通遺児財団に寄付され、酒気帯び運転撲滅のキャンペーン及び残された家族の方々の心のケアのために使われるとお伺いいたしました。
 どうか、皆様方のご協力、よろしくお願いいたします。
 CD定価2,500円です。お申し込みは、前田智子オフィッシャルHP
           http://maedasatoko.main.jp/
 若しくは、小生のメルアドまでよろしくお願いいたします。
          anjali.tutomu@tune.ocn.ne.jp
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  「関西発!合奏団「鼎」の演奏による前田智子作品集

 関西を拠点に活動する和楽器合奏団「鼎」による前田智子作品集。不慮の事故で亡くなった女の子に捧げられた表題曲を尺八・箏四重奏に改訂、CD化。楽譜「和楽器で奏でる ステラオブあかね.M.エンジェル」も同時発売(No.5521)。「綺羅」 は合奏団創立30周年記念に作られた大合奏曲。この他、懐かしい日本の歌3曲を箏・十七絃・尺八四重奏で。」
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今日は、「識変の無為・法性の無為について」考えます。
 2015年3月3日の投稿より
 「無為等を変ぜば亦実用無くなんぬ。」(『論』第二・三十二右)  
 無為とは、為作。造作が無いものと定義されます。因縁によって生ずるものでない非現象的存在。非現象的存在とは、真理・空を表す言語です。
 「若し第八無為を縁ぜば、無為は用無し、・・・」(『述記』)
 無為は生滅変化しないもの、不生不滅の真理を表しています。、有為は生滅変化するものです。盛者必衰の理は有為法を表していますし、生は必ず死を待つ、生まれて滅んでいくものです。形あるものは必ず壊れる、作り上げてきた者は崩壊するのが理なんです。ですから有為を依り所にすると人生そのものが空虚に終ってしまう。
 「変ぜば」は「変ずるも」と読んだほうがいいのかも知れません。無為法は対象化とすることはできないと云っているのですね。対象化してしまいますと、有為法になります。仏教を学ぶ、仏法を学ぶ、仏像を学ぶ、写経をするということも無為の世界の事柄ですが、私が学ぶと云った時に、対象化されます。自分の心の影なんです。仏教を学んでいることが、私の心の影を学んでいることになります。外い向いている眼を内に見れば、自ら自分の捉えた仏教を学んでいるkとに気づかされます。しかし、仏教を学ぶことはこの方法しかないんですね。直接触れるわけにはいきません。神秘主義ではないんです。
 自分の心が捉えた無為なんですね。無為を自分の殻に閉じ込めて学ぶんです。よくいうでしょう。「仏教とは」・「南無阿弥陀仏とは」とね。「とは」が付きます。「とは」は自分が立場になっているんです。仏教より、お念仏より、自分の方が偉いんです。これを「識変の無為」と呼んでいます。しかし、仏教に触れるのはこの方法しかないんです。ですから聞くことが大事、聞いて聞いて聞きまくる。聞熏習がやがて転ずる時が来る、その時を以て、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる時、即ち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」。主客が逆転するわけでしょう。南無阿弥陀仏が主になる。法が主になって、初めて仏法が聞こえてるんですね。これを他力というんでしょう。ですからね、自力聖道門といってもですね、他力でないと救済されないんです。主客の逆転に「嗚呼そうだった」と頭が下がる時に廻向が輝くんですね。
 仏教とは修行の是非をいっているのではないと思いますね。紙一重を超えるか超えられないかは「自らの力を頼りとする自力の執心が離れた時」なんでしょう。」

 学問的論文として、龍谷大学の多田 修氏が『印度学佛教学研究第四十七巻第二号』P574~P576に『円成実性の有為・無為をめぐる問題考』として論文を発表されています。インターネットでも検索できますので参考にしてください。

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