唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (7) 前後しますが (2)

2015-08-09 16:56:12 | 初能変 第二 所縁行相門
   

  阿頼耶識は有漏(迷い)の識ですが、この有漏の識が変化して現れてくる。その現われ方に二種類あって、一つは因縁変であり、一つは分別変である。初めのは、因と縁との勢力に随って変現するもので、阿頼耶識の具体相は任運の義だと教えられているわけです。種子生現行、種子より現行を生じてくることは、因が熟して果となる、異熟ですね。これには力用があって、任運である。意識的な分別ではなく、自然に因縁の力に由って識が変化することなんです。このような識の対象となったものには実際的は働き(実用)があるのです。
 「有漏の識の変に略して二種有り。一つには因と縁の勢力に随って変ず。」(『論』第二・三十二右)
  『述記』は、「因縁生というは、謂く先業と及び名言の実種とに由る。即ち要ず力有るなり。唯任運なる心なり。作意するに由って其の心乃ち生ずるには非ず。」と釈され、作意(思考・分別)をまじえなることなく、阿頼耶識が自然に対象の世界を変えていく、種子が現行を生む、過去の一切の経験が種子として熏習されているわけですが、私が生れてから現在に至るまでと言う時間経過をいうのではなく、不可知ですからわかりませんが、始めなき永遠の過去からの遺伝子情報が今、現行しているわけです。このような現行の在り方はごく自然であり、自ずから力と働きが有るわけです。これが一人一人の人格を形成しているわけですから、お一人お一人の唯識なんです。お一人お一人の阿頼耶識なんですね。三類境でいうところの性境ですね、これが因縁変になります。
 「ニに分別の勢力に随って故に変ず。」(『論』第二・三十二右)
  分別には私が入りますね。意識的な分別の力に由って変化することです。分別によって変化されたものには力用(実際の働き)がありません。考えられたものはすべて影像なんですね。影には実際の働きはありませんが、それと同じですね。詳しくは、独頭の意識の心心所の相分、第七末那識の心心所の相分、第八阿頼耶識の心所の相分をいいます。
 「作意して生ずる心なり」と『述記』は注釈しています。作意して生ずる心は、籌度(ちゅうたく)する心である。籌ははかいごと、策略という意味ですから、自分の思慮分別によって作り上げられていく自己になります。此の場合は、自分の都合のいいように策略を巡らして対象を自分で変えていくのが分別変になりますが、「籌度することのない心」が因縁変で、本当の心なんですね。
 籌度する心は、「思量し籌度して己が有と為さんと欲す」、自分の思い通りにしたいとする欲求が間違いを起こすことになるわけですね。
 『述記』はさらに「即ち六・七識が自の分別に随って作意して生ずるが故に。此れに由って六・七が無等を縁ずる時の影像の相分は実体有ること無し。」と釈しています。三類境では帯質境・独影境にあたります。
 「初めのは必ず用有り。後のは但し境のみと為る。」(『論』第二・三十二右)
  初めのは、因縁変。後のは分別変。分別変は対象となる、対象となるが力をもたない。つまり、考えられたもの、考えられた対象は任運ではなく、妄想ということです。
 随って、阿頼耶識の所縁、対象は外器・種子・五根が因縁となって現行が生ずる、心心所を対象とすることは考えられたものであって、考えられた心には、考えている心が変化したもので、考えている心には力用はありますが、考えられた心には力用は無いということになりますね。

     本則
達磨面壁す、二祖雪に立ち、臂を断つて云く、弟子、心未だ安んぜず、乞う師安心せしめたまえ。
磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安ぜん。
祖云く。心をもとむるに了(つ)いに不可得なり。
磨云く、汝が為に安心せしめ。竟(おわ)んぬ。