唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(6) 触の心所 (5)

2015-08-30 16:55:58 | 初能変 第三 心所相応門



  
 『願生偈』ははですね、偈文の方には一番初めに、「世尊よ、我は一心に」と、「我は一心に尽十方無碍光如来に帰命して」、帰命すると。そして、「彼の国に生ぜんと願います」と、こういう具合に述べてありますわね。そこに「我」という字が置いてあるでしょう。「我一心に」と。そこだけが、その「我」が一番大事なんですけどね。次に「我依修多羅 真実功徳相」といって又、「我」という字が出とるでしょう。それから『願生偈』の一番真ん中に「故願生彼 阿弥陀仏国」とあり、かるが故に我。それから一番最後に「我、論を作りて偈を説きたり。」と、こういう。ま、広く言えば四ヶ所に我という字が置いてあるんですわ。そして、それを、結んで「無量寿経修多羅章句、我、偈誦を以て総説し竟りぬ」と、ま、ここに総説という言葉が出ておるから、総説。ここにも「我」という字が付いておる。結ぶ言葉にも「我」という字が付いておる。結ぶ言葉にも「我」という字が付いとるね。
 それから「解義文」も方にもやっぱり結ぶところには同じような言葉が出とるんですけども。「無量寿経修多羅優婆第提舎願偈、略して解義し竟わんぬ」と、こういう具合に。それで「解義文」という。その時に「我」という字は置いてないわね。
 だから、五ヶ所に「我」という字が置いてあるね。偈文の方は。特に一番最初の「我一心」というのは、それは「我」を代表する言葉でしょう。解釈を見てもね、我々とは何々、一心とは何々と、こう、解釈せずに「我一心とは」とこういう具合にね、我と一心を区別せずにね、我とは何々、一心とは何々と、そういう解釈をせずにね、「我一心」とは何々。我が一心を発すんでない、一心に依って我が成り立つ。
 我というものがあって、何か、それが一心を発すと考えるけど、一心を発さん前の我というものは意味が分からんです。目があったり鼻があったりするのが我じゃない。だからして、我があって一心を発すんじゃない。一心に依って我が成り立つ。そういう場合の我を主体と言うんですわね。主体。我という字は主体を表す言葉でしょう。」(『分からなくなったら はじめにかえる』p6~9)


 触の心所について(5)
 阿頼耶識はどのような心所と相応するのかを述べているわけですが、阿頼耶識は五つの遍行と相応する、相応するが五つの遍行は無覆無記である。触・作意が受・想・思の所依となることが云われていました。阿頼耶識は自己自身なんだけれども、自己を超えた自己を表す概念が阿頼耶識なんでしょう。決して私有化できるものではない、ということです。阿頼耶識は迷いを表す概念ですが、性から言えば、円成実性。智慧から言えば、大円鏡智という無分別智を背景として成り立っている識なんでしょう。大円鏡智においてある識が阿頼耶識、単なる迷いの識ではないということでしょう。
 私たちは、自分の都合によって、いろんな見方をするのでしょうが、それらはすべて、自分の都合から出たものである、そのことを知らしめる働きをもった識が阿頼耶識といっていいと思いますね。「触」という心所も、私たちが考える以前に事実として触れている、考えて触れるのではありませんね。触の背景に三和合が成り立っているということでしょう。
 種子と現行の関係ですが、種子としてある時は、あらゆる可能性があるということです。ですから、種子と現行の間には変異が語られるわけです。「バラバラでいっしょ」という法語がありましたが、種子としてある時はバラバラです。それが因縁和合する時に現行が生じます。
 
 「だから、三が和合するのとしない位とでは、非常に大きな変化がある。それを変異という。いまだ無かった用きが起こる。心所を生ずるという用きである。これは一つの変異である。三和は体で、三和の変異というのは三和の用にである。心所を生ずるという用きである。それを分別(ぶんべつ)するという。変異を分別する。分別は触の用きである。変異は三和の用きである。触が心所を生ずる。三和によって触が生ずるから、三和の用きが触の用きになる。分別というのは分かち取ることである。願生心所は三和の用きであるが、それが触の用きとなる。三和の用きの場合は変異、それを分かち取る。領似という。似て起こるのである。かくのごとく、三和の用きを触が分別しているから、心心所を境に触れしめる。それが自性になる。一切の心心所を和合して、一つのグループとして境に触れしめる。つまり、眼識が起こるなら、眼識は色の知覚であるが、そうすれば、そこに色についての感情が起こる。声という境に触れれば、声というものについての感情が起こる。かくのごとく、触が一切の心心所を境に触れしめるのが自性であるから、他に対してはそれをもって受・想・思の近教になるのである。」(『安田理深選集』第二巻p210)

 三和という中でも、特に根の力が強いことから、『大乗阿毘達磨集論』・『大乗阿毘達磨雑集論』には、三和ではなく、根が変異に分別するんだと説かれているそれは何故かといいますと、
 「根が変異の力いい触を引いて起せしむる時に彼の識と境とに勝れたり。故に『集論』等に但だ変異に分別すと説けり」(『論』第三』初左) 根・境・識が和合して、そこに変異が起こるわけですが、根・境・識の中でも、根の変異の力が勝れているんだ、と。根の変異によって識を生み出してくる、こういうように言われているんですね。境は対象ですから力はありません。識は、根と境によって現れるわけです。
  六根
      } 十二処  によって、 六識  } 十八界 、これに身体の構成要素である五蘊を加えて、五蘊・十二処・十八界で阿毘達磨仏教の説く人間観を表しているわけです。
  六境


 「一切の心と及び心所とを和合して同じく境に触れしむるは、是れ触の自性なり。」(『論』第三・初左)
 触の自性とは何かと云いますと、境に触れさせることである、こういうわけですね。 この項もう少し熟考します。

 

初能変 第三 心所相応門(5) 触の心所 (4)

2015-08-30 00:55:17 | 初能変 第三 心所相応門
  
 
  Please enjoy the weekend of the long night . Today , we will deliver from YouTube the Mussorgsky suite " Pictures at an Exhibition " . 

 心所相応門における、遍行心所総説及び各説については、『安田理深選集』第二巻 p187~200 を参考にしてください。
 触の心所につきましては、先回も述べましたが、『成唯識論』では、五遍行の並びが、触・作意となっています。世親の『百法明門論』によりますと、作意・触という順に説かれています。良遍も『二巻鈔』においては、作意・触の順に説いています。
 触の新所は、作意(さい)を抜いて、「受・想・思等の所依たるを業と為す」と云われています。安田先生は、「触は直接に受の基礎になるということを語る。この順序が変わっているということは、作意・触も、触・作意も、受想思の所依というものをあらわすのではないか。・・・心所の所依としての心所なのである。所依も心所である。」と教えられています。
 触が先なのか、作意が先なのかはわかりませんが、これが認識の一番基礎になっているのは間違いのないところです。これが基礎となって、受想思が生まれてくるのです。
 根・境・識の和合体を三和生触と云う。三和によって生じてくるのが触の心所なんです。三和が=触ではないというところに注意していかなかればなりません。
 根 - 識の所依
 境 - 所縁
 識 - 所依と所縁をもったもの。根を(所依)として境(所縁)の区別が成り立つ。
 「触は彼(三和)に依って生じ、彼(三和)をして和合せしむるが故に説いて彼(三和)と為す。」(『論』第三・初左) (触は三和に依って生じ、三和をして三和せしめるから三和を触とする。)
 三和は触の因なんですね。前回も述べましたが「彼と云うは即ち根等なり。是れ触の因、三和に依るが故に亦三和と名く。」(『述記』第三末・三右)
 亦、「彼をして和合せしむ」と云っていますように、三和は触の果でもあるわけです。因即果(三和は触の因であると共に果である)という意味をもっています。
 触がどのようにして生起してくるのかと云いますと、種子生現行なのです。種子として在る場合は、根・境・識はバラバラです。現行する場合は、縁をともなって三つが和合し、触の心所が生まれてくるのですね。これを「変異に分別する」と云われる意味なんです。
 「そのものが出会った時に、根境識の三つが変わる、というのが変異に分別するんです。どういうことかといいますと、黒板を見ますでしょ、黒板を見るその時に常に根境識の出会いで見るわけです。その時の条件といいますか、この三つのものの出会い方によって見えてくる世界が変わってきます。」(太田久紀述『成唯識論抄講』巻第五p128~129)
 ここを見てもですね、境が実存在ではないことがわかります。私の方に境を捉える認識主体があるということです。自分の色眼鏡を通した世界でしか、世界を見ることはできないんですね。自分の変化が、イコール世界も変わるという構図になります。
 穢土とか、娑婆という世界も実体としてあるわけではありません。浄土もそうですね。穢土と浄土は対立概念ではないのです。自分の心が作り出してきた、「無始より来、異熟識が持する所の一切の有漏法」によってこの世界を築いてきたのは、他ならぬ自分であったという頷きです。この頷きが「この世は穢土だ」と言わしめたのですね。この頷きには、慚愧の心が働いていますから、浄土の一分に触れていることなんです。しかし、有漏の住人ですから、浄土の住人というわけにはいきません。
 分別(ぶんべつ)は触につき、変異は三和につく。
 『論』には
 「三が和合する位に皆順じて心所を生ずる功能有るを説きて変異と名づく。」
 三つの法がバラバラの時はなにも生まれてきませんが、三つの法が和合する時に心所が生ずるわけです。それを変異と名づけるんだ、と云う。
 「触いい彼に似て起こるが故に分別と名づく。」
 分別の用は触の功能である。三和の法が功能の上に起こっている。それで分別をブンベツと読むのです。『述記』の釈によりますと、「謂く触が上に前の三が順じて心所を生ぜしむる変異の用に似る功能有るを説いて分別と名づく。分別とは即ち是れ領似(りょうじ)の異名なり。
 領似 - 五遍行の心所の一つである触の働きを説明するなかで用いられる概念。変異とは根境識の三つが和合(結合)する時に様々な心所を生ずる力を持つように変化することであsり、その変異を分別するというなかの分別を言い換えて領似と云う。受け止めて似るという意味である。
 いい喩がだされています。
  「子の父に似るを以て父に分別せりと名づくるが如し」(生まれた子供が、生んだ父母に似るように、また似た行動をするように、触もまたそれを生ぜしめた根境識の三つの変化ににることによって、さまざまな心所を生ぜしめる力を持つという。)
 「此の意は総じて根等の三法が能く順じて心所を起こす功能有るを以て名づけて変異とす。この触も亦順じて心所を生ずる功能作用有って彼の三に領似せり。是の故に名づけて変異に分別すと云うことを顕すなり。」(『述記』)