「触いい彼に依って生じ彼をして和合せしむ。故に説いてkれと為す。三が和合する位に皆順じて心所を生ずる功能有るを説いて変異と名づく。触いい彼に似て起る故に分別(ぶんべつ)と名づく。」(『論』第三・初左)
根・境・識が三和して触の心所が現れると思うのですが、そうではないのですね。触という心所はあるわけです、それは三和に似た相が触だと云われています。
触を三和と云うことについて二義によって説明されています。
一つには、「彼に依って生ず」ということ。彼は「根等」等は等取、境・識をも含める。触が因として、根・境・識が縁とし、因縁和合して三和と云う。三和合といっても、因は触なんですね。根・境・識が縁となって触の心所が働いてくるのです。ここを以て、三和生触と云われているのですね。『対法論』には、三和合するに依る、と云われています。
二には、根・境・識をして和合するんだ、と。今度は根・境・識が因として引き出されてくるのが触だと。触が果になるというのです。つまり、触がよく根・境・識の三法を和合せしむ働きを持って、所依の根と、所取の境と所生の了別(識)を成り立たせるわけです。従って、触があって、根・境・識が和合することができるのです。
この二義によって「触」を三和と名づけるのである、と『述記』は説明しています。私たちは、考える以前に朝目を覚ましたら対象に触れています。そこには根・境・識が出会っている世界があるわけですね。どのように触れているのかは、根・境・識の状態によります。仏法に触れ得るのも、根・境・識が和合しているからなんですね。根・境・識がバラバラのときは触れるということはありませんが、私たち意識されている間は、何らかのことについて触れています。出会いによって、根・境・識が変わって、和合して触れるわけです。それを変異と云っているわけです。仕お稽古事で考えてみますと、よく理解できます。これは熏習と関係しますが、最初は無我夢中で、何がなにやらわからずに先生のいわれるままにお稽古をしますね。この時も、三和合しているわけです。しかし、お稽古を積み重ねることに於いて、いろんなことが解ってきます。所作もスムーズになりますし、周りの状態も見えてみます。この時も三和合しているわけです。このことからも窺えますが、根・境・識といっても実体としてはないということなんですね。触れる状態に於いて根・境・識は変化しているということです。
昨日も述べましたが、台所に立って食事の支度をしておりましても、裸眼のときと眼鏡をかけているときとでは世界が違いますね。眼鏡もですね、より精巧なものでしたら、よいよく見えるのでしょうね。なにが本当の姿なのかわけりません。こちら側の問題としてですが、自分が変わると世界が変わるんですね。これは間違いのないところだと思います。
次科段は、「変異」と「分別」について分けて説明されます。もう少し考えてみたいと思います。
今日明日は、南御堂盆踊り
宮部師の投稿より