唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感

2015-08-22 23:52:53 | 雑感


 仏教用語 - 退屈 -
 仏教語辞典によりますと、「退」は、しぞくこと。「発心が退く」、その反対が、「出世道によって煩悩を断ずる者は定んで退あることなし」、或は「長時に無間に精勤し策励し心に怯弱無く退屈なし」といわれています。「屈」は屈する。降伏すること。つまり、仏道を求める心が退き屈することなんです。
 仏道を求める階位は、四十一の階位(十住・十行・十回向・十地・仏果)の十住の初めの初発心位、ここからですね、加行位の初地に至るまで、一大阿僧祇劫の時間を費やして仏道を歩みつづけるわけです。初発心の菩薩は勇猛精進にして、自利利他円満の世界を求めて退くことのない行を積み重ねていくわけです。いうなれば善行です。この善行が有漏の種子を揺さぶり、少しづつ有漏種子を断滅して、無漏種子を開発していくのですね。これが不退という意味になりますね。
 退屈はその逆です。
 本来の意味は(仏道からの観察では)、仏道を志そうとする発菩提心が、仏道修行の在り方や実践行を聞き、或は、二の重障(煩悩頌・所知障)の断じ難いことを聞いて、菩薩行の躊躇や断念があると『成唯識論』には説かれていますが、このような、躊躇断念することを「退屈」と云うのですね。
 世間の解釈とはずいぶん違いますが、暇という意味ではないんですね。目標が定まらない、目標を断念すると、そこに虚無感が漂ってくる、このことを指して「退屈」といっているようです。
  Wikipediaの解釈ですと、「退屈は、なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情である。ある程度の時間にわたって、興味(好奇心)を持てる感覚的な刺激が得られない状態で、その状態を維持することを求められると、当初はどのようなものかに興味が持てるかもしれないが、その内容に見通しがつき、それが興味を維持できないものであった場合、飽きが来る。それでも止めることを選択できない場合、それを続けるのが苦痛になる。この状態が退屈である。教科書をただ棒読みするだけの先生の授業や、会社での単調な作業はひどく苦痛である。これが退屈という感情である。」とでていました。世間と出世間の違いを見るようで面白いですね。

 退屈は不退に対する言葉なんでしょうね。親鸞聖人は『一念多念文意』において、次のように語っておいでになります。
 「『無量寿経』の中に、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と、ときたまえり。「諸有衆生」というは、十方のよろずの衆生と、もうすこころなり。「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり。「信心歓喜 乃至一念」というは、信心は如来の御ちかいをききて、うたがうこころのなきなり。「歓喜」というは、「歓」は、みをよろこばしむるなり。「喜」は、こころによろこばしむるなり。 うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、みな、かねおさむることばなり。「一念」というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。「願生彼国」というは、「願生」は、よろずの衆生、本願の報土へうまれんとねがえとなり。「彼国」は、かのくにという。安楽国をおしえたまえるなり。「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。・・・
 、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆえはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚は、なければなり」とのたまえり。この二尊の御のりをみたてまつるに、すなわち往生すとのたまえるは、正定聚のくらいにさだまるを、不退転に住すとはのたまえるなり。このくらいにさだまりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆえに、等正覚をなるともとき、阿毘抜致にいたるとも、阿惟越致にいたるとも、ときたまう。即時入必定とももうすなり。・・・」
 傍線の部分は吟味を要すると思いますが、私たち、人生の目的は「無上大涅槃にいたる身」の確立なんでしょう。ここにですね、「不退」という言葉が大きな意味を以て、私に仏道を歩めと背中を押し続けてくださるのでしょう。ですから、不退に退転する在り方が、「退屈」ということになってくんだと思います。