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「異熟識の変ずるは但し因縁のみに随うものなれば所変の色等は必ず実用有り。」(論』第二・三十二右)
阿頼耶識の果相は異熟識。現行の果が生ずるのは因縁に随う。種子・生・現行です。生まれてきたのも、果として生まれたということでしょう。因は何かといいますと、種子。種子が因となって現行してきた所変の識には必ず実際の働きがある。
「所縁の実種有って生ずるは皆因縁変なり。余は実の用無し。」(『述記』)
識体(八識それぞれ、阿頼耶識を本識として、阿頼耶識より転じた七識)のそれぞれにおいて変化したノエマとノエシスの関係はただ識が変化したもの、即ち唯識所変であると説いています。相分(認識される領域・客体的側面・種、根、器)と見分(認識する領域・主体的側面・了別)は本質より変化したものであって、因と縁によって生起したもの、任運に生ずるものであるということなんですね。
「色等を変ずるは実種より生ず。故に所変の法は必ず体用有りと云うことを顕す。」(『述記』)
「若し心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ。相分心等は能縁に不るが故に。」(『論』第二・三十二右)
「相分心の等きは縁ずること不るが故に」ということです。相分は縁ぜられるものであって、縁ずるものではない。縁ずるのは能変・縁ぜられるのは所変ですね。所変の中で、能縁が見分であり、所縁が相分であるということです。
もし阿頼耶識が心を対象とするならば、という問いかけですが、この場合の心とはどういう心なんでしょうか。心が心を投げ出したのは、心の影ということになります。心は対象化できないもの、対象化できないものを対象化すると、考えられたものということになり、考えたものが心なんですね。考えられたものは外、考えたものは内、内なるものが本当の自分であって、外に投げ出された自分は自分の影ということになります。影には実用はありませんから、「心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ」と云われているのですね。
心は本来識体ですから、能縁の働きを持つものなんです。その心が対象化されますと能縁の働きはなくなりますから本来性を失うということになります。どこまでも本体があっての影像です。私の影は私そのもではありません。私によって見つめられたものであって、見つめている私が本当の私ですね。
阿頼耶識が心を対象化しないのは、何度も繰り返しますが、種子より生じたものなんです。種子とは何か。「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。阿頼耶識は因縁変のものである、過去の経験のすべてを種子として蓄積し、その蓄積してきたものを対象として捉えていく。そこには思慮分別の差し挟む余地はないわけです。自然に、任運に、それが因縁変なんですね。
ここは何を指し示しているのか、私は、私の積み上げてきた有漏の種子によって、私が翻弄されていることをはっきりさせようとしているんだと思います。苦悩している現実は他に因があるのではなくて、自らが自らため込んできた過去のすべてが凝縮した形で現在しているんだと。そうしますと、今何をしなければならないのかがおぼろげながら見えてくるわけでしょう。
対象化した心を作り上げている自分が問題なんだということですね。