唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (9) 前後しますが (4)

2015-08-13 22:10:23 | 初能変 第二 所縁行相門
  高光大船

  「異熟識の変ずるは但し因縁のみに随うものなれば所変の色等は必ず実用有り。」(論』第二・三十二右)
  阿頼耶識の果相は異熟識。現行の果が生ずるのは因縁に随う。種子・生・現行です。生まれてきたのも、果として生まれたということでしょう。因は何かといいますと、種子。種子が因となって現行してきた所変の識には必ず実際の働きがある。
 「所縁の実種有って生ずるは皆因縁変なり。余は実の用無し。」(『述記』) 
 識体(八識それぞれ、阿頼耶識を本識として、阿頼耶識より転じた七識)のそれぞれにおいて変化したノエマとノエシスの関係はただ識が変化したもの、即ち唯識所変であると説いています。相分(認識される領域・客体的側面・種、根、器)と見分(認識する領域・主体的側面・了別)は本質より変化したものであって、因と縁によって生起したもの、任運に生ずるものであるということなんですね。
 「色等を変ずるは実種より生ず。故に所変の法は必ず体用有りと云うことを顕す。」(『述記』)

 「若し心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ。相分心等は能縁に不るが故に。」(『論』第二・三十二右)
 「相分心の等きは縁ずること不るが故に」ということです。相分は縁ぜられるものであって、縁ずるものではない。縁ずるのは能変・縁ぜられるのは所変ですね。所変の中で、能縁が見分であり、所縁が相分であるということです。
 もし阿頼耶識が心を対象とするならば、という問いかけですが、この場合の心とはどういう心なんでしょうか。心が心を投げ出したのは、心の影ということになります。心は対象化できないもの、対象化できないものを対象化すると、考えられたものということになり、考えたものが心なんですね。考えられたものは外、考えたものは内、内なるものが本当の自分であって、外に投げ出された自分は自分の影ということになります。影には実用はありませんから、「心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ」と云われているのですね。
 心は本来識体ですから、能縁の働きを持つものなんです。その心が対象化されますと能縁の働きはなくなりますから本来性を失うということになります。どこまでも本体があっての影像です。私の影は私そのもではありません。私によって見つめられたものであって、見つめている私が本当の私ですね。
 阿頼耶識が心を対象化しないのは、何度も繰り返しますが、種子より生じたものなんです。種子とは何か。「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。阿頼耶識は因縁変のものである、過去の経験のすべてを種子として蓄積し、その蓄積してきたものを対象として捉えていく。そこには思慮分別の差し挟む余地はないわけです。自然に、任運に、それが因縁変なんですね。
 ここは何を指し示しているのか、私は、私の積み上げてきた有漏の種子によって、私が翻弄されていることをはっきりさせようとしているんだと思います。苦悩している現実は他に因があるのではなくて、自らが自らため込んできた過去のすべてが凝縮した形で現在しているんだと。そうしますと、今何をしなければならないのかがおぼろげながら見えてくるわけでしょう。
 対象化した心を作り上げている自分が問題なんだということですね。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (8) 前後しますが (3)

2015-08-13 00:15:26 | 初能変 第二 所縁行相門
 

 「初めのは必ず用有り。後のは但だ境のみと為る。」(「論」第二・三十二右)
  初は因縁変。因縁変には必ず実の体用がある。前五識及び第八識等の所変の境である。後のは、分別変。ただ境のみとなる。第六識、第七識である。体用は無い。例えば、鏡の中の火のようなものである。
 今は、第八識は心・心所を対象としない意義を明らかにしている。
 因と縁に随って変ずるのは「任運に随う義なり、種子に随う義なり」と『述記』は述べています。任運ですから、ごく自然にという意味になります。「おのずからしからしめる」、人間の計らいを加えず、所変の境(対象の世界)を阿頼耶識は変えていくということです。種子生現行、種子から現行を生むのは自ずからしからしめるんだということですね。
 種子をどこかから持ってくるんではなく、自らの阿頼耶識の中に蓄積されたものがですね。阿頼耶識には能蔵の義・所蔵の義・執蔵の義という三義があることが云われておりました。七転識によって経験されたすべてを阿頼耶識は熏習している現実があって、阿頼耶識が核として所変の境を変ずるわけです。種子から諸法を生ずるには、必ず用がある、と。
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 私たちの意識構造はどのように成り立っているのでしょう。たとえば五識は五根が依り所と成りますが、意識は何を依り所として意識されるのでしょうか。
 意識されるのは意識される根拠があるわけですね。意根ですが、一切法を根拠とするということです。これは何を意味するのか、私には全くわかりませんでした。こういうことなんだなと教えられたのは、友のメールでした。
 それは、私たちが意識することは、突然起こることではないということです。過去の一切の経験、一切の情報伝達のメカニズムが因となって今在る自分を限定していることなんでしょう。
 私が生きている、今ここにということは、過去の生い立ちそのものが、そのものとして現在しているということなんだと思いますね。
 つまり、過去の経験というか。過去の情報が無意識の領域に蓄えられて、様々な条件を伴って今の私を形成しているんですね。
 その過去の無意識の領域は純粋意識だと教えられています。即ち、私たちは常日頃純粋経験をしているんですね。にもかかわらず純粋経験が染汚されるのでしょう。私の心の深いところでは、私が知りえないことが起こっているのですね。
 純粋経験は直接、アーラヤといわれている心の深いところにインプットされます。善は善として、悪は悪として一類相続されます。しかし表面に現れる時には、瞬時ですが、ありのままの、分別を加えない状態で私そのものとして現れてくるのです。
 本当はこの状態が私の本来性として私が願っている世界なのでしょうが、ここに分別心が働くのですね。これが厄介なのですが、この厄介さ、自己執着心が、自己執着心を超えた世界を求める原動力、エネルギーになることを忘れてはならないと思いますね。
 いうなれば、私たちは、自分が自分を投げ出した影をみて生活をしているのでしょう。影はどこまでいっても本体ではありません。影には働きがないからですね。
 私たちは、無意識の領域にインプットされた情報を依り所をして生活をしていますが、その生活が自己執着心を経由し、色付けされているということなのですね。
 でも大事なことは、いかに色付けされていても、元は純粋意識かでた染汚性ということなのです。ここに苦悩の発生する要因があります。
 自分が自分の思いによって、自分が苦悩している現実を生みだしているということですね。
 苦悩している現実は、自分が自分の思いによって作り出した状況に翻弄されているということなのです。
 普通は他に転嫁して溜飲を下げようとするわけですが、それは道理に反したことになりますから、永遠に満足するというか、頷きをえることはありません。
 紙一重といわれることは、深層意識から発信されている、このままでいいんだよ、貴方は、貴方、貴方以外の貴方になる必要が合りません、というメッセージを聞き得るかどうかですね。
 深層意識から発信されてく声を、意識がどのように受け止めるのか、意識の在り方が問われてきます。
 貴方は。今ある状況に安んずることができますか?私はどう答えるのでしょうか。
 外界は衆縁です。内因外縁という言葉が響きます。様々な縁によって私が試されているんですね。幸せを求めながら幸せになれない自分のどこに原因があるのか、と。

 友のメールは
 「小学校からの友人が大学生やフリーターでしたので、社会人だった僕よりは時間が自由でした。この時期は特によく遊びました。20過ぎの頃です。社会人、フリーター、大学生、置かれている環境、選んだ道は違えど今まで共有してきたものがありました。しかし環境が違ってくれば考え方も変化します。当時は気がつかなかったのですが、僕の立場からは、時間があり、羨ましいと思っていました。友人からすれば僕はどのように見えていたのでしょうか?当時は僕は完全に自分自身を見失っていたのでしょう。嫌な職業に就いていたから全てが嫌になっていました。嫌な職業なら辞めておけば良かったと、今でも思っています。まあ年齢的には簡単な事ではないでしょうが。もしかするともう嫌な職業という感情すら無くなってしまったのかもしれません。フリーターの友人にもフリーターをしなければならない理由もあり、大学生の友人にも行きたかった大学に行けなかったのですから。希望通りにいっていなかったのに他人は楽をしている。と思っていました。今でもそうですが。妬み僻みは生きている以上無くならないでしょう。 僕が今話した事は誰にでもあると思います。若い時は仲が良かったが、次第に疎遠になる。何故なのか? 同じ場所、同じ時間を共有することが無くなってきたから。と言うのもあると思われます。しかし一番考えられるのは自分自身という存在を時が経つにつれ意識するからではないかと。自分自身という存在を意識すればするほど他者との分別をする。分別は自分自身を中心において考える。このことにより、他者に対して妬み僻みといった感情が産まれるのではないかと。また自分自身の置かれている環境が影響力を持つと考えられるのではないでしょうか?善悪の判断、今僕の置かれている環境は平和な国です。これが平和でない環境、戦時下であれば敵を殺す事は善となってしまいます。確かに人は自分自身が一番可愛い、守ろうとする。戦時下の話をしましたが、人はいつでも他者を自分自身にとって味方なのか?敵なのか?の分別をしているのではないかと。会社の話になりますが、会社の人間を見ていていつも敵か味方か?の判断ばかりしている人間が多く感じられます。僕の妄想かもしれませんが。全体的な利益を考えず、自分自身の利益ばかりに執着していると感じます。僕はまあ多少の出世は欲しいですが、そこまでして、敵か味方の判断ばかりして働けません。それが出来るのは会社という存在があるからでしょう。会社や組織といったものからいずれは離れなければなりません。離れた時、独りになった時、どうすればよいのか?暗闇で迷子になってしまっては何故生きてきたのだろう?と思ってしまうでしょうね。僕は今が暗闇で死の間際少しでも光を見たいと思います。働かなければ生きていけませんし、全てを捨てて生きる気力なんて到底ありません。これからどのように生きていけばよいのか?自分自身の妬み僻みによって友人を無くした事は反省しなければと。勝手に友人を作り出していたのでしょう。自分自身の都合の良いように。

 河内 「よく話してくださいました。ありがとう。」