唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (6) 前後しますが

2015-08-08 12:56:45 | 初能変 第二 所縁行相門
 

 「何が故に此の識は心と心所等とを変似して所縁と為ること能わ不るや。有漏の識の変に略して二種有り。一つには因縁の勢力に随って故に変ず。二つに分別の勢力に随って故に変ず。初めのは必ず用有り。後のは但し境のみと為る。異熟識の変ずるは但し因縁のみに随うものなれば所変の色等は必ず実用有り。若し心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ。相分心等は能縁に不らるが故に。須らく彼は実用あるを以て別に此従り生ずべし。]
どのようなわけで、この第八阿頼耶識は、心・心所等を変似して所縁とすることがないのであろうか、という問いが出されます。
 所縁は、識体が転じて見・相の二分に似るところの相分ですね。能所の二重構造で語られますが、識体そのものは能変です。ですから、「此の能変は唯し三つのみなり」、開けば八識それぞれが別体なのですが、深層の意識を初能変・第二能変とし、表層の意識(前六識)を第三能変とし、三分科をもって迷いの構造を明らかにしているのです。
 識体が転じられたものは、識体の具体相になるわけです。それが見分に似る相と、相分に似る相とに分かれて所変とされます。見るという主体的側面と、見られるという客体的側面で、紙の裏表という関係ですね。そして見るという、認識する側面を能縁、見られると云う、認識される側を所縁として認識構造が明らかにされています。
 ここに問題が生じたのです。それがこの問いになるわけです。見・相二分は識体が転じた、識そのものが変化し現われたにすぎないのですが、見・相二分を実体化する心の働きがあるのではないのかという問いなんです。私たちは、こんな心では駄目だ、心も持ちようで変えることができるんだ、また自分を見つめて、自分を反省するということもあるわけです。阿頼耶識が心を対象として、所縁である種子・五根・器界だけではなく、心及び心に付随した心所をも所縁として、認識対象としてもいいのではないかということなんです。
 結論からいえばですね、対象化された心は、対象化する働きの上に成り立ったものなんです。つまり、対象化された心は、心の影ということになります。こんな心では駄目だと思っている心が存在する、その心を識体であり、外に投げ出された心は影像になりますね。
 略識唯識で次のような言葉がありました。
 「内識が転じて外境に似る。我法と分別する熏習力の故に、諸識が生ずる時、我法に変似す。此の我法の相は内識に在ると雖も、分別に由って外境に似て現ず。諸の有情類は無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我実法と為す。」
 「外境に似て現ず」が能変・所変の関係ですが、それを実体的にとらえ執着するところに我々の解決のつかない迷いがあるわけですね。迷いにも二つの相があってですね、解決のつかない迷いと、解決のつく迷いがあるということなんだと思いますね。
 私たちは無始以来ですね、有漏(迷い)の種子を引き継いでいるわけです。種子生現行・現行熏種子として展転同時因果として変現しているのです。これが因縁変になりますが、迷いは迷いの道理によって迷っていることなんです。これは解決のつく問題なんですね。 しかし、私たちは、分別によって自分に執着をしていますから、執着をした自分を立てますから、立てた自分が迷うわけです。この迷いは自分が問題になっておりませんから、解決のつかない迷いということになると思いますね。 (つづく)