唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (54) 五受相応門 (18)

2014-09-11 22:52:36 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 上来は実義門に依って説明してきましたが、下記は麤相門に依って説明されます。この科段は二門に分けられて説明されます。第一段は煩悩と五受との相応について、第二段はその相応する地について説明されます。

 初は、

 「此は実義に依って云う、麤相に随っていわば、貪と慢と四見とは楽と喜と捨と倶なり、瞋は唯だ苦と憂と捨との受とのみ倶起す。癡は五受と皆相応することを得、邪見と及び疑とは四と倶なり、苦をば除く。」(『論』第六・十九右)

 下は麤相を明かす。よって上来は実義門によって説明したものである。麤相門に随って説明すれば、

 麤相門に随うならば、

  ①貪・慢・薩迦耶見・辺執見・見取見・戒禁取見とは楽受と喜受と捨受の三受と相応する。 - 行相唯欣
  ②瞋は、ただ苦受と憂受と捨受のみの三受と相応する。 - 行相唯慼
  ③癡は五受とみな相応する。 
  ④邪見と及び疑とは、楽受・憂受・喜受・捨受の四受と相応する。苦受は除かれる。 - 行相相順

 麤は粗いとく意味ですから、本科段は大雑把(梗概ーコウガイ)に説明すると、

 先ず『述記』の所論から

 「論。此依實義至四倶除苦 述曰。下明麁相有二。初直明倶。後明倶地。此等初也。前據定得今隨相麁。貪・慢・四見行相唯欣非憂・苦倶。瞋唯慼行唯苦・憂・捨倶。邪見・及疑行通欣・慼。不在惡趣及非在五故非苦倶。五十五説。此據多分相應道理。行相相順故。如文可知。」(『述記』第六末・四十一左。大正43・452b)

 (「述して曰く。下は慼行を明かす。二有り。初に直ちに倶なることを明かす。後に倶地を明かす、此れ等は初なり。前には定めて得するに拠る。今は相の麤に随うなり。
 貪と慢と四見は行相唯だ欣(ゴン-よろこぶ)なり。憂・苦と倶なるに非ず。
 瞋は唯だ慼行(シャクギョウーうれう心で苦受と相応する)なり。唯だ苦、憂、捨と倶なり。
 邪見と及び疑とは、行が欣・慼に通ず、悪趣に在るにあらず、及び五に在るにあらず、故に苦と倶なるに非ず。
 五十五(『瑜伽論』)に、此は多分に相応する道理に拠ると説けり。行相が相順するが故に、文の如く知るべし。」)

 実義門とやや説明が違っています。実義門では、貪・瞋は五受すべてと相応すると説かれていましたが、麤相門では、それぞれ三受と相応すると説かれます。

 但し、四の疑と邪見は、分別起の煩悩であり、尚且つ第六意識相応の煩悩でありますから、倶生起に存在する地獄には存在しない煩悩ですので苦受とは相応しません。そして行相が相順しますから、楽受・憂受・喜受・捨受の四受と相応すると説かれています。

 倶生起の煩悩と分別起の煩悩の所在の在り方ですが、もう一度整理をしながら見つめ直す必要がありそうです。再考よろしくお願いいたします。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿