唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

煩悩ー煩悩を縁として(3)

2010-01-25 06:40:46 | 心の構造について

すべての法則は阿頼耶識に於いてあるもの、「彼は識が所変に依る」ということですね。世親菩薩造・玄奘訳の『摂大乗論釈論』に於いて「無始時来界 一切法等依 由此有諸趣 及涅槃證得」(この心の領域は無始よりこのかた一切法等の依止となり、此れに由って諸趣(六道)及び涅槃の証果が有る。等は諸趣と涅槃の平等の依となること、迷いも涅槃の証も阿頼耶識に於いてあるものであるということ)ここは非常に大事な所です。宿業因縁といいますが宿業も縁起しているのです。宿業の因は煩悩でしょう、その果が諸趣ですね。仏智疑惑といいますね、罪が深いということは縁起の否定です。縁起を疑うということが独断・偏見になるわけです。迷いも悟りも法ですね。それが阿頼耶識に於いてあるものであるということになります。ですから十煩悩は「蔵には全に無し」、阿頼耶識には煩悩は働かないということなのです。何度も繰り返しますが私たちの心の深層である命そのものは煩悩ではないということが教えられているのです。有るのは何かといいましたら煩悩の種子も善の種子も平等に貯蔵されているのですね。浄土真宗で本願といいますね。四十八願です。その最初の願は無三悪趣の願といわれますね。国土の荘厳です、我が国には地獄・餓鬼・畜生の住まない世界にしたい。これが私たちの本当に願っている世界ですね。三悪道は苦と戦いの充ち満ちた世界ですが、これは縁起を疑うところから必然してくる世界ですね。縁起を疑うということは「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのこと、みなもって、そらごとたわごとまことあることなき」世界なのでしょう。しかし「に」といわれます。「に」に於いてまことの世界が開かれてくるのです。煩悩具足の凡夫の目覚めが「ただ念仏のみぞまことにておわします」という公明正大な世界を開くのです。そのはじめの願が我が国土には三悪趣がいないという誓願なのですね。「地獄・餓鬼・畜生あらば正覚を取らじ」と誓われるのです。これは架空の話ではなく、また神話でもなく「命の願い」なのでしょう。私の根源の願いであるわけです。その世界に目覚めるか、目覚めないかの違いだけでしょう。「一切法等」一切法はですね、すべては法則であるということです。煩悩にも転迷開悟にも平等に与えられているのが一切法で、煩悩も縁起・悟るのも縁起ということなのですね。

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