第七識には尋と伺は相応しないことについて説明する。尚、不定の心所、尋と伺については2010年3月30日の項を参照してください。
「尋と伺とは倶に外門に依って転ず、浅深に推度(すいたく)し、麤細に言を発す、此の識はただ内門に依ってのみ転ず、一類に我と執ず。故に彼と倶なるに非ず。」(『論』第四・三十一左)
語句説明
- 推度(すいたく) - おしはかること。思考すること。
- 外門(げもん) - 外に向かう門。外のものや対象に向かうこと。
- 内門(ないもん) - 内に向かう門。「阿頼耶識は唯だ内門に依って転ず。」
(尋と伺とは倶に外門に依って転じる。また浅深を推度し麤細に言を発する。しかし此の第七識は唯だ内門に依ってのみ転じる。そして一類に第八阿頼耶識の見分を我と執着する。故に彼(尋と伺)は第七識と倶ではない。)
尋と伺の二法は外門に依る。それは外境を縁じて生起するからである。尋と伺は多く身語門に依って働く。尋とは境を浅く思考し、粗く言葉を発する心所であり、伺とは境を深く思考し、細やかに言葉を発する心所である。
「尋ト伺ト、物ヲイハントテ万ヅノ事ヲ押シ計ラフ心也。其レニ取テアサク推度スル時ヲバ尋トナヅク、深ク推度スル時ヲバ伺トナヅク。」((『二巻鈔』)上・鎌倉旧仏教p133)
尋は尋求心で「なんだろう」と追求する心であり、伺は伺察で「なんだろうと深く仔細に追求する心」で、ともに「心を意言の境のうえに転ぜしめる」心であるといわれます。
しかし、此の識は唯だ内門に依り、内我を縁じて生起する。唯だ一類に我と執ちて浅深に推度し、麤細に言葉を発することはない。故に尋と伺と第七識は倶に働くことはない、相応しないのである、と。
此の識と倶に働くのは九の法があると第一師は主張する。四煩悩と五遍行の九つである。
護法正義は第一師の九つの心所に別境の慧と随煩悩の中の大随煩悩の八つの合計十八の心所が第七識と相応するという。それ以外は第一師の説と同じ立場を採るため、欲・勝解・念・定の四つの別境と善・随煩悩・不定についての説明は省略される。
次に第二師の説を述べる。
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