唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

煩悩ー(癡-愚痴)

2010-01-14 23:36:12 | 心の構造について

二河白道の譬えから教えられますのは、貪・瞋の煩悩は非常に荒々しいと云うことです。身を焼き尽くすばかりの炎、波打ち際に打ちつけられそうな波浪に譬えられる水火の煩悩は一歩も前に踏み出せない荒々しさを持っています。静かに自分を観察していますと一日中水火の波が襲っていることがよくわかります。これは二元的にしか生きることが出来ない宿業なのでしょうか。少なくとも私は何時も責任を他に転嫁しつつ悩み苦しんでいますから、宿業と言われれば心を突き刺す衝撃を受けるのです。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく」といわれますように煩悩渦まく世界に執着し、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもする」私なのです。そして善を成すのも悪事を働くのも業縁だよ、といわれているのですね。相対的に生きていることは善か悪か無記のいずれかなのです。それも自己中心的にですね、そこから抜け出せないのです。闇に閉ざされているのですね。これが無明煩悩といわれる愚痴なのです。貪欲・瞋恚の所依になります。 

 「云何なるをか癡と為す。諸の理と事とに於いて迷闇なるを以って性と為し。無癡を障えて一切雑染の所依たるを以って業と為す」               (『成唯識論』)

 道理と事実です。道理によって事実が成り立っているのですが、それがわからないということです。諸行無常・諸法無我は道理ですが、それが頷けないので道理でない我を立てて生きているわけです。それは闇であり迷いであると教えています。生きているのも道理ですが死もまた道理なのです。「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」と清沢先生はお教えくださいました。「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきなばかの土へはまいるべきない」とは親鸞聖人のお言葉でした。前にも言いましたが命は与えられたものであって私有化できるものではないのです。「生かされてある命」なのですね。縁によって生かされているのです。そこにですね、命の大切さが教えられているのではないでしょうか。しかしながら私たちは道理と事実に背いているわけですね。それを迷闇となり雑染の所依となるのです。すべてが自己中心に考えていくということです。「私が・私が」と我執から出発するのですね。迷・闇によって経験のすべてが執着的経験となるのですね。その根拠になるのが癡という煩悩なのです。それが闇の中の出来事であると教えているのです。理と事に於いて無痴であるところから自己の内に貪りをおこし、外に対して自分が無視されたと、怒りをぶつけるのです。これが貪・瞋・癡の三毒の煩悩といわれているのです。


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