とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

大相撲と行司の世界

2018年03月30日 | 日記

 山形新聞社主催の庄内県勢懇話会で第36代立行司、木村庄之助さんの講演を聞いた。暴行事件などで揺れる大相撲界だが、深い伝統と神事の極みに触れる事が出来た。
 行司にも番付があり、切磋琢磨して階級を上り詰める厳しさは力士と同じで、その最高位が立行司木村庄之助。立行司式守伊之助はその下になる。木村庄之助は結びの一番だけを裁く。
 行司の仕事は、大相撲すべてに関わる。一番の誇りは番付を書く人に選ばれる事で、戦後6人目に私が選ばれた。力士の出身地や決まり手を場内放送したり、地方巡業のバスの手配も行司の仕事である。
 立行司の服装は高価なもの、それに軍配や脇差、印籠、足袋、草鞋等、貴重なものばかりであるが、全てが自前である。印籠は数が少なく手に入れるのが難しい。脇差は法に触れると言う事で竹光だと会場を笑わせた。
 土俵に蒔く塩は、1場所45キロほど使う。無駄という投書もあったりしたが、良質な塩ではない。土俵の中央下には、神への供物が埋められており、四隅の房には神が宿り、春夏秋冬を表し、全てが平穏であるようにとの祈願が込められている。
 木村庄之助は手の甲を上にして軍配を持ち、力士を名乗り、式守伊之助は手の甲を下にする。これで、木村と式守の系列が分かると教えてもらった。行司は勝敗を裁く時の位置が重要だが「見えない」と観客から叱られたりする。うろちょろするのがうまい行司かな。これを機会に行司の動きも楽しんで欲しいと結んだ。

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北平田保育園の卒園式

2018年03月25日 | 日記

 定数60の小さな北平田保育園の卒園式が昨日行われた。卒園児は14名で、在園年数は2年、6年とまちまちである。親元を離れて保育園に預けるには、子どもも親も大きなストレスであり、双方に勇気が必要だ。あんなにぐずった子どもの晴れ姿に、感動の一言が似合う。
 卒園児ひとりひとりが、保育園の思いでを語る場面があった。もう保育園に来れなくなる寂しさなのか、親の様に接してくれた保育士さんとの別れを思うのか、大粒の涙を流す子どもを見て胸が熱くなった。感受性に違いはあれ卒園の寂しさが分かるまで成長した子供たちに拍手を送った。
 場所を変えて保護者会主催の「卒園祝賀会」があった。保育園職員への謝恩会であり、卒園児と保護者、職員、来賓一緒でフランス風昼食会である。セレモニーが終わって余興が始まった。生まれた直後の写真をスクリーンにアップし、この赤ちゃんは誰なのかの当てるクイズが始まった。子供たちが大声で名前を叫んでいた。謝恩会の企画に新しい時代を感じた。子どもたちと一緒に過ごした楽しい時間はあっという間だった。
 「保育園落ちた。日本死ね」で話題をさらった保育園問題。北平田保育園には、まだゆとりがある。ひとり一人に丁寧な保育が出来る事もいいのかも知れない。

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高砂ふ頭の機能強化

2018年03月21日 | 日記

 国際コンテナ貨物取扱量の急増に対応した酒田港高砂ふ頭の改良工事が急ピッチで進み、数年前の姿が分からない程大型化、近代化に変貌した。
 20日にテープカットした管理棟とトラックゲートは、増え続ける国際コンテナの荷さばきを効率化するもので、職員が手書きで書類作成していたものを、新たな管理棟とゲートでは、コンテナの配置や、出し入れが一元管理され、荷さばきが短時間で済む事になる。
 国際コンテナはすべてに番号が付けられており、コンテナの位置情報は国際的に一元管理されている。高砂ふ頭には今、1000個のコンテナが並んでいると教えてもらった。
 国が施行している高砂ふ頭の岸壁延伸工事も佳境に入り、県は来年度でコンテナクレーンの大型化とバックヤード工事を終え、コンテナ船の2隻同時着岸を可能にしたいとしている。
 テープカットの式典に参加した方たちから「酒田港は大きくなったなあ。驚いたよ」との声が漏れた。

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酒田の河村瑞賢像

2018年03月17日 | 日記

 河村瑞賢は元和4年2月15日生まれとある。これは相馬大作さん、そして、私の長男も誕生日が一緒と言う事で、興味が沸いた。もっとも、旧暦年号なので新暦では1618年3月11日となる。
 河村瑞賢は三重県南伊勢町に生まれ、木材業で蓄財し、土木建築で大きな利益を生み出した。更に幕府の公共事業に関わって大きな力を得るようになった。年貢米を奥州から江戸へ輸送する航路開拓で知られている。阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を迂回し、伊豆半島の下田から西南の風を待って江戸に入る東回り航路を開いた。
 その後、奥羽山脈流れる最上川の水運を利用し、河口の酒田で海運に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を回り、伊豆半島の下田から江戸に入る西回り航路が確立された。北前船寄港地として栄えた酒田は、西の堺、東の酒田と呼ばれるような繁盛を極め、河村瑞賢は伝説の人として市民に親しまれている。
 酒田市は、河村瑞賢生誕400年に当たり、生誕地の南伊勢町と連携して全国にアピールするイベントを企画している。酒田市出身の彫刻家高橋剛さんの制作した河村瑞賢像は酒田市と南伊勢町にある。

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酒田のスケートリンク

2018年03月11日 | 日記

 2018平昌冬季オリンピックの興奮冷めやらぬ先日、酒田のスワンスケートリンクに行ってみた。子供たちを中心に思い思いのスケートを楽しんでいた。手すりにつかまりながらやっとの思いでスケート靴で歩く子供や、親と手をつないで滑ってる子供。すいすいと人の間を軽く滑るものや、バックで高度な滑りする子どももいて、リンクを見ているだけでも楽しい時間だった。
 係の方に「カーリングは出来るのでしょうか」と聞いてみた。リンクが40mと37mなので、ななめにコースをとれば、出来ない事はないとの事だった。カーリング女子の銅メダル獲得は、日本中を湧き立たせた。テレビ視聴率も40%を超えたと報道された。
 スワートスケートリンクの歴史は古く、私が市議会議員時代に当時の大沼市長との議論で始まった。「国体記念体育館と市営体育館の二つがある。市営体育館は床がコンクリートで車も入れる。冬季間にスケートリンクにしたら。競技用でなくても市民が楽しめれば」しかし、大沼市長は「野外で広いリンクがいい」との考えだった。風が強く落ち葉の飛ぶ光ヶ丘は向かないとなり、決まった。
 山形県の屋内スケートリンクは山形市と酒田市の二か所。スワンスケートリンクは競技用ではないが、滑って楽しむことは11月から3月まで楽しめる。
 平昌オリンピックには山形関係選手として加藤条治、小田卓朗、一戸誠太郎、ウイリアム師円選手の4名が活躍した。ウインタースポーツに施設は欠かせない。

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西郷どん

2018年03月03日 | 日記

 南洲神社は、西南戦争での西郷軍方の戦死者が埋葬されている鹿児島市の南洲墓地隣接に鎮座する神社である。遠く離れた酒田市に分祀された南洲神社があり、「西郷どん」の遺訓を学ぶ活動が今も続いている。
 大政奉還が終わっても、「西郷どん」率いる新政府軍と佐幕派との内乱は収まらず、佐幕派の双璧とも言われる会津藩と庄内藩は果敢に新政府軍と闘い続けた。奥羽諸藩が次々と降伏し、時の勝勢は明らかだった。江戸市中取締役だった庄内藩は、薩摩藩邸焼き討ちまでしての降伏に、庄内藩主の切腹も覚悟したものの、「西郷どん」の寛大な措置に感激し、藩主や藩士らは生涯「西郷どん」を慕う事となった。藩主自ら鹿児島に「西郷どん」の元へ教えを請いに出向き、庄内藩と「西郷どん」交流は続く事となり、選抜隊70余名が留学し教えを書き残した。
 酒田に鎮座する南洲神社は、昭和51年に創建。伊勢神宮の払い下げ用材を使用した総檜造りで、「西郷どん」に関する資料の他、遺墨や遺品も収蔵しており、菅実秀が明治23年に発行した「南洲翁遺訓」を現在も出版している。
 西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士だったが島津斉彬の目にとまり、やがて薩長同盟や戊辰戦争を主導し、勝海舟との交渉で江戸無血開城を成し遂げる。その生涯を描いた大河ドラマ「西郷どん」で、酒田の南洲神社も注目されています。

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