とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

「つや姫」魚沼産コシと価格が並んだ

2011年09月24日 | インポート

004   秋晴れで稲の刈取りが本番となった。田園風景は稲刈りが一番似合う、吹く風に活気が伝わってくる。今年は放射能汚染稲わら問題や、豪雨災害、15号台風の迷走など試練の連続だったが、まずはここまでたどり着けた。轟音を響かせる大型の稲刈りコンバインは、近くに寄ると稲を刈る戦車みたいなものだ。すべてコンピューター制御で10aを15分あまりで刈り終えてしまう能力がある。
 先般、23年産米の全農概算金単価が示された。デビュー2年目を迎えた「つや姫」は魚沼産コシヒカリと並ぶ一俵当たり1万4100円で全国トップになった。高値とみるかは別として、低米価が続く中、国産米でトップの価格である意義は大きい。ちなみに「はえぬき」は1万500円で3千600円の差がついた。今後の展開を見守りたいものだ。
 「つや姫」は宮城県と大分県が奨励品種に指定され作付されている。この動向も気になる所だ。大分県宇佐市に作付状況の視察に行った。この地域では「ヒノヒカリ」が主力品種で「つや姫」は登塾時期が14日ほど早く、早生品種の導入として扱われている。100haほど作付されていた。シンボルマークも山形県同様で「大分つや姫」として売り出すと言う。担当者の意気込みは強く「高温条件下での品質低下も少なく、食味も高いので有利販売できる」と、本家が負けそうな勢いだった。海外も含め「つや姫」はこれからが勝負である。

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農家と共にムラおこしの大山農協

2011年09月17日 | インポート

001  大分県日田市に大山町農業協同組合がある。とかくJAは農協自身の経営を考え、農家を置き去りにした経営方針が目立ち農家サイドから「商社みたいだ」と悪評が多い。集約化と合理化による拠点経営は農家離れを加速させ、組合員のJAではなく、JAのためのJAになりつつある。
 正組合員数613戸の大山町農協は違っていた。大分県大山町は山間地で平均耕作面積が数十アールの貧しい村だった。昭和36年「梅栗を植えて ハワイへ行こう」をキャチフレーズにムラおこしが始まった。その時に目指した方針が、堆肥を全耕地に投入するオーガニック農業が基本で、消費者の求める安全・安心・健康な食品の生産を目指す事であった。今でも農協の役員会を午前で切り上げて、午後は役員が中心になって堆肥散布事業を続けている。キノコ廃オガを堆肥化した「オネスト250」を三十数年も散布し続けた有機栽培は、まさに時代の先取りである。その上に、時代に即応した直販所を含めた流通の開拓。他産地と一味違う「こだわりの産品」で高付加価値産品の開発は「感動が残るもの」を合言葉に、着実に実現している。老荘青のバランスのとれた「親子三代農業」をテーマに、週休三日の余暇で文化の創造も実現している。組合員全員がパスポートを持っているという、しゃれた農協である。
 20年前に50人でスタートした農協直営の農産物直売所「木の花ガルデン」は、今では年間顧客数が240万人、売り上げ高約16億円に成長している。ムラおこしは見事に成功した。大山農協の先見性と行動力は手本になる。

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転作大豆の一生シリーズ(4)

2011年09月11日 | インポート

001 大豆が芽を出して丁度3ヶ月。主茎長は先月より10㎝伸びて80㎝になった。今日の最高気温は30℃で残暑が厳しい。しかし、もう豆の莢が見えてきた。葉色はどす黒い緑に変わって、イナゴの食害も目につく。ラジコンヘリによる防除も一週間前に行ったのだが、成長したイナゴには効かないようだ。雑草処理もヒマを見ては小まめにやってきた。なかなか手間暇のかかる作物である。国産大豆とはいうものの価格は国際相場なのでお金にはならないのが悩みの種でもある。
 種をまいて育てる楽しみに自分で納得している心境である。

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酒田の南洲神社を鹿児島県議団が初訪問

2011年09月05日 | インポート

002  庄内南洲会が取り持つ縁で、山形県議会と鹿児島県議会の交流は昨年から始まっていた。佐貝議長が鹿児島県を訪問し、その答礼として9月6日金子鹿児島県議会議長を団長に、6人の県議団が初めて山形県議会を訪れた。席上、さらに相互交流を深め、特産物の相互乗り入れや、民間交流を含めた両県の理解含めあう事などを合意した。山形市のカーペットメーカーを視察の後、山形牛での懇談会はお国自慢で盛り上がった。
 翌日一行は、酒田の南洲神社を鹿児島県議会としては初めて訪問された。西郷隆盛を祀る南洲神社は沖永良部島、鹿児島市、酒田市の全国で3か所で、遠方の酒田市には(財)南洲会があり会館は現在も「西郷南洲遺訓」等の学習活動を続けている。
 幕末、庄内藩は会津藩と並ぶ佐幕派の双璧と言われ「江戸市中取締役」を勤めていた。戊辰戦争が始まって、江戸城無血開城、会津落城後も庄内藩は果敢に新政府軍と闘ったものの、奥羽諸藩は次々と降伏し、過酷な条件を覚悟の上で庄内藩も降伏した。しかし、西郷隆盛は庄内藩には異例の寛大な処置をした。会津藩は23万石から3万石だった例から見ても、庄内藩は17万石から12万石に減じられただけで、藩主・酒井忠篤の切腹も免れた。感激した藩主藩士は生涯西郷を慕うことになり藩主自らも鹿児島の西郷の元に教えを請いに出向き、庄内藩との交流は長く続くことになる。西郷は後の西南の役で賊軍となるも、西郷と一緒に戦った庄内藩士は戦死者も出した。その墓所は西郷の墓所と同じ所に祀られている。庄内に西郷の直筆遺品が多いのは、70人にも及んだ西郷に教えを請うた庄内藩士が帰る時に一筆づつ直筆を持ち帰ったためと言われている。

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