とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

遊佐町で県議感謝のつどい

2019年03月28日 | 日記

 昨夜、遊佐町「佐藤とうやを励ます会」の主催で「佐藤藤彌県議感謝のつどい」を開催してくれた。突然の案内に恐縮しながら、恐る恐る会場に着くと、駐車場は満杯で広い自治会館は90人ほどの人が集まってくれていた。  

 佐藤豊昭会長が「藤彌県議には遊佐町が大変お世話になった。残されてる課題もたくさんあるので、引退しないで欲しいと申し入れたが聞き入れてもらえなかった。誰を頼ればいいのか戸惑っている。出来ることは、感謝する会を開いて労をねぎらいたいと思いこの会を開いた」とあいさつされた。  

 私は「長い間お世話になりました。この様なことまでして頂いて恐縮します。当たり前の事をしただけです。始めがあれば、終わりがあるのは道理です。積み残された課題はたくさんありますが、選良された次の県会議員と一緒に取り組みます」と述べ、初当選時の議長が遊佐町の石垣潔さんで、いろいろ面倒見てもらったことや、歴代の知事と向き合ってきたいきさつ等を振り替えりながら御礼を述べた。  

 時田遊佐町長も駆けつけてくれ「まだまだ休んでもらうわけには行かない。櫛引の松浦安雄さんのように大所高所からアドバイスをお願いしたい」とねぎらってくれた。阿部ひとみさんを紹介して会は終わった。

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農作業がスタート

2019年03月26日 | 日記

 稲作りの最初の作業である、種もみの浸漬が始まった。庄内では彼岸の中日がおおむねの目安である。先ずは、バカ苗病予防にテクリードCフルアブルに24時間浸漬し、2~3日陰干しをする。これはバカ苗病ばかりではなく、育苗の大敵である苗立ち枯れ細菌病にも有効であることから大事な作業である。  バカ苗病は、なかなか厄介な細菌で作業場所周辺や苗箱、稲わら、もみ殻、米ぬか、粉塵などが伝染源となることから十分な注意が必要である。特に前年バカ苗病を発生させた場合は特別の注意が必要である。  この作業が終わると種もみの浸種を始める。たっぷりの水に積算温度120度を目安に2週間位、水交換をしながら種もみに水分を吸収させるのである。いよいよ春の農作業本番が始まり、播種、育苗、田植えと農繁期となる。農家にゴールデンウイークはない。働き方改革とも無縁の時期である。

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中高一貫校合意得られず

2019年03月19日 | 日記

 県教育委員会が主催する庄内地区の「中高一貫校に関する庄内懇談会」が庄内総合支庁で開催され、傍聴に行ってきた。
 2月2日に同懇談会が開催され、何の対策も出さないまま、僅か1ケ月で2回目の同じような懇談会を決行した。話し合をしたとのポーズや、廣瀬教育長の任期の内に強引に決めよういう県教委の意図が透けて見える。
 県教委の権力は絶大である。反対するには勇気がいる。説明は丁寧だが「県教育長の前で、文句あるなら言ってごらんなさい」とでも言いたげである。大方の皆さんの発言の枕詞は「こんなに丁寧に前回のまとめを作って下さりありがとうございました」と、ほめる事から始まっている。
 そんな中で酒田市副市長は「反対です」と言葉にした。あとの言葉付けは県教委に対する敬意である。酒田市教育長は「市長に報告し、市教委・市民・保護者とも議論したい」何を今さら自己保身を続けるのか。一部を除けば酒田市民は、みんなで怒っているのだ。遊佐町も反対とは言わないものの、遠い距離にあることや「酒田市にも中高一貫校を造ったら」とその場逃れの発言である。鶴岡市と周辺町は「早くきめろ」の一言である。
 義務教育は基本的に市町教育委員会が担っている。その自治体にはそれなりの教育方針があり、特色がある。県民からのパブリックコメントもとっているのだが公表されていない。頑張っている学校区に県立中を割り込ませエリート校を作る狙いだ。優秀な子供を選抜すれば、偏差値は高くなる。ひと昔ならともかくも、現在のトレンドでは無い。子どもの激減が見えている。

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さらば山形県議会

2019年03月15日 | 日記

 私の任期最後の定例議会が終わった。5期20年間通い続けた県議会議場は何も変わらないのに、新しい議席の様に見えた。議長は最後の挨拶で退任する8名の議員の名前をひとりひとり読み上げ、労をねぎらってくれた。私の名前の時は一礼をした。閉会が宣言され、退場する時、いつも本会議は勿論、委員会でも傍聴してくれていた方が遠くの高い傍聴席から深々と一礼をされたので、私は大きく手を振って答えた。ありがとうの気持ちが込み上げてきた。
 20年は長いようで、あっという間である。当初は、これほどの人口減少や地域格差が進んでいなかったように思う。当然議論の論点も違っていた。財政も今より緩やかだった様に思える。
 5期20年間は「酒田港の発展は山形県の発展」と言い続けた。その酒田港が機能強化され、整備がすすみ、取り扱い貨物量が倍々ゲームに増えた。外航クルーズ船も入航した。私なりに誇りに思っている。さらなる発展は、新庄酒田道路の開通にかかっている。さらに石巻までの高規格道路の貫通がカギとなる。しかも、通行料金は無料の高規格道路であり、産業に与える影響は大きい。日本海と太平洋をつなぐ最短距離の大動脈としての可能性もある。これから選良される議員の活躍に託したいと思ってる。
 20年間支援して下さった皆様、本当にありがとうございました。

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北平田保育園が4者と防災協定

2019年03月12日 | 日記

 3月11日、酒田市の北平田保育園は、地震の際の避難場所として近くの農業ハウスが最適の避難場所との判断から、ファーム北平田・JA庄内みどり・北平田コミュニティ振興会に依頼し4者の協力協定書を締結する事がまとまり締結式が行われた。
 同日の締結式に先立ち、4者の関係者10数名も参加して保育園の避難訓練が行われた。小雨の中、参加者の誘導で実践さながらの訓練は整然と実施された。園児は防災頭巾をかむり、0歳児は乳母車での避難となった。
 佐藤ゆかり園長は「万が一の時、地域の皆さんが協力してもらえる体制が出来たことで、保護者の皆さんにも安心してもらえるのでは」と感想を述べていた。ファーム北平田の樋口準二代表は「ハウスは冬でも暖かい。地域の子どもたちに役立てたらうれしい」と語っていた。災害は、いつ、どんな形で発生するか分からない。その時に近隣の協力は頼もしい限りだ。

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セイコーエプソン名誉相談役中村恒也氏を偲ぶ

2019年03月10日 | 日記

 酒田市名誉市民・セイコーエプソン名誉相談役・故中村恒也氏を偲ぶ会が酒田市内で行われた。氏は酒田市が誇るモノづくりの天才である。 
 昭和57年、酒田市は住軽アルミが撤退し、産業構造の変化で臨海工業地帯はピンチで意気消沈していた。当時の相馬大作酒田市長は酒田大火の傷も癒えぬ中、東奔西走し内陸型工業への誘致に動いた。
 タナシン電機、助の靴下などと、本命だった酒田市出身の中村恒也氏が当時副社長だったセイコーエプソン株式会社への働きかけがあった。中村恒也氏は上野酒田東高等学校校長の娘さんと結婚されている。当人は勿論、相馬さんも酒東との縁もあり、強烈なアタックだったと聞いている。上野校長は、中村恒也さんと一緒にとられる朝食の度に「酒田に頼む」と応援をしてくれたと相馬さんの後日談を聞いている。
 昭和60年、祖父の新盆に来られた相馬市長は帰り際「クジラを釣って来た」とポツリ。セイコーエプソンが酒田に立地が決まった瞬間だった。苦労が実った瞬間でもある。深い松林の中への工場建設、しかし、松の木は切らない。そして目立たないが基本。潮風が吹く臨海部に精密工業はタブーである。そこは中村氏の精神が生きてくる。自動巻き腕時計やクオーツ時計、フロンレスものづくりなど、世界的情報機器メーカーの先端を走り続けている。
 東北エプソンには約2,500人が働いている。産業構造が重厚長大から軽小短薄へと変わり、情報機器メーカーのエプソンが諏訪から酒田への立地に、相当な技術的壁があったと思われる。潮風対策のフィルターはどんなレベルなのか分からないが、臨海部でも成功できる事実を示してくれた事は、酒田発展の大きなお手本である。

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新生酒田南高校第一回卒業式

2019年03月03日 | 日記

 記念すべき新生酒田南高等学校の第一回卒業証書授与式があった。新生酒田南高等学校は、96年の伝統を誇る旧天真学園高等学校と、58年続いた旧酒田南高等学校が統合し、2018年4月に発足した私立高等学校である。IT技術の進化とボーダーレス社会を見据えた高等学校としての運営方法が注目される。
 建学の精神である「天下和順」を引き継ぎ「理想と鍛錬」「自立と共生」「敬愛と篤実」を教育目標に、試練の中にあっても、凛として自分の力で道を邁進する人材を育てたいとしている。
 今日の卒業式には、176人の卒業生を中心にその保護者と在校生、来賓や教職員と広い体育館いっぱいの祝意で華やいだ。卒業証書第一号となった阿蘇君は、人生の大きな思い出になったに違いない。
 校歌斉唱の声が小さく、涙する卒業生がいないのは、今風なのかと思えた。

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