今年の雨の降り方は、異常の連続である。局所的で記録的な豪雨いわゆるゲリラ豪雨が全国を襲った。そんな中で「山形県は恵まれたな」と思っていたが、9月14日の夜半に酒田市北俣方面に発生したゲリラ豪雨は、消防団が警戒出動するほどであった。十二の滝の遊歩道も崩落し通行止めが続いている。
「まず現場をみてくれ」の電話があり、地元市議会議員と山谷公会堂に向かった。自治会のみなさんが10人程集まってくれていた。四輪駆動の軽自動車で山間地の奥深くまで、くまなく回った。水路がいたるところで土砂に埋まり、小型重機で復旧作業をしていた。「もう嫌にになった。田んぼを止めようかと思うが、この水路を直さないと、下の6町歩が作れなくなるんだ」と打ち明けてくれた。手作業で水路の復旧を終えた個所もたくさんある。沢の鉄砲水が山の一軒家を襲っていた。そこの主婦は「怖くて一睡もできなかった。消防団が来て避難しろと言われたが、出口が滝の様になっていて出れなかった」家の前が崩落し、青いシートで覆われて痛々しさが残っている。今回の豪雨災害の特徴は、小規模な災害の多発である。大災害はマスコミも取り上げて、関心が集中し復旧に弾みがつく。小規模な災害は見過ごされ易く、それに個所数が多く対策が取りにくい現実がある。しかし、小さな水路一本でも山間地では、不可欠のインフラなのだ。天気の良い時の山間地は住み着きたくなる魅力がある。しかし、天候のリスクが拡大して現れる厳しさを併せ持つ。自力で出来ることは黙々とやっている。しかし、行政の助けも待っている。
長く続いた猛暑が終わり刈取りの秋が来た。今年の出来秋に農家の表情は暗い。先般農協の座談会があった。その日に、今年の米の概算払いが60キロ当たり9000円と発表されたのだ。昨年は1万2300円だったのが、一気に3300円の値下がりである。100人近い農家にどよめきが走った。
昨年産米が40万トン近く売れ残っていると聞いていたので、農林水産省との意見交換会の時に、過剰米の政府買い入れを質したが「それはしない」との答えだったので、予感はしていたが、ここまで値下がりするとは思いもよらなかった。結果、戸別所得補償方式は何だったのか分からなくなってきた。農家の苦しさは痛いほどわかる。
来賓であった私に質問が飛んできた。「この値段をあなたはどう思うか」「今の政権に期待が持てない。政権交代して欲しい」と矢継ぎ早である。私は「過剰米の政府買い取りはしないと言っているが、所得を補償する政策だと言う以上、再生産できる手段を期待している。農家は黙っていないで、立ち上がるべきだと思う。そして自分の意見を国民に伝えて欲しい」と答えるのが精一杯だった。それにしても、激変には後遺症が伴う。
商工観光常任委員会の県外視察は北海道に学ぶ事になった。山形空港の新千歳便の欠航が発表されて、まず自ら搭乗しなければ始まらないが原点である。50人乗りの小型ジェット機はほぼ満席だった。新千歳空港まで一時間足らず、速いものである。
北海道は明治以来の開拓で現在の姿になった。山形県との縁も深く先人の苦労がいろんな形で残されている。人口は560万人で札幌に200万人が集中している。大地を生かした農産物、水産物、北の観光地として他を圧巻している。苫小牧を中心に工業の振興も盛んである。登別市の大和電機北海道は、産業用電子機器の設計と製造の会社であるが、昨年、パソコン画面をタッチするだけで、脳の健康状態を測定できる「タッチエム」を開発し、医療機器として認定できないか申請中と伺った。委員も挑戦、まあ合格点だった。
野口観光グループは、傘下の多数の旅館、飲食店で使用する野菜は、自社の農業法人を立ち上げ生産を開始したというものである。規格品は市場に出し、規格外は自社使用し経営に役立てたい考え方であった。農場視察もしたが、農業の難しさはこれから分かるのかなと思えた。
南樽市場は活気で溢れていたが、小樽という巨大観光地にありながらも、新しい市場も出来たり、駐車場問題も抱えながら、運営の悩みは大きいなと感じてきた。巨大な札幌駅ビルの10階に「札幌ラーメン共和国」があった。出来て5年目である。入り口に赤ちょうちんが2本下がり、一角の「共和国」は薄暗く、中には定員50人程度のラーメン専門店、八店舗がひしめき合っていた。全部の店が待ち行列でごった返していた。30分ほど待って食べた。酒田のラーメンのほうがずっと旨い。人口と企画宣伝力の違いが明暗を分けてしまう世の中である。
原子力発電所は、近代生活を営む上で不可欠の存在であることを否定することは出来ない。発展著しい中国では、数十基の新たな原子力発電所を計画しているとも伝えられている。そこでの問題は、その際出てくる使用済み核燃料の高レベル放射性廃棄物である。放射能レベルが半分に減るのにかかる時間を半減期と呼ぶが、これが、数万年から数百年単位というから永久に安全に保管することが最大の課題である。
日本でも使用済み核燃料の再処理が出来るようになったが、今までは、フランスやイギリスに委託をしていた。しかし、高レベル放射性廃棄物は、日本に送り返され、日本の責任で保管されている。増え続ける高レベル放射性廃棄物の保管処理は、まさに国策だ。
使用済み核燃料の再処理の際に発生する廃液をガラスと混合し、キャニスターという高さ1.3m、直径40㎝の特殊容器に入れてガラス固化体される。キャニスターの温度は200度が続く。このままの状態に人が近づけば数秒で死亡するという危険なものである。それをまとめて、放射能を閉じ込めて運ぶキャスクに入れて、水槽の中に入れて開封。水槽の中に仮置きされ、ガラス固化体貯蔵ビットに移される。特殊収納菅にキャニスターを縦に9本入れて、コンクリートに固められた地下に数十年貯蔵される。冷却は空冷である。現在の貯蔵量は、1440本分で、最終的には2880本貯蔵計画だ。
ここが最終処分地ではない。地下数百メートルに最終貯蔵地は現在全国に公募中であるという。近代文明を享受しながら「迷惑施設は他で請け負ってくれ」で解決できるのか。沖縄の基地問題や、ごみ焼却施設など、負の部分と向き合って行かなければならない使命は誰でも等しく負っている。
全国の原子力発電所で使われた、使用済み燃料棒はキャスクと呼ばれる特殊な輸送容器に入れられて、専用の輸送船や輸送車両で再処理工場へ運ばれてくる。強い放射能を帯びているため、貯蔵プールに入れて冷却し放射能が弱まるのを待ち、取り出して3~4㎝に燃料棒ごと裁断される。それを硝酸の溶解槽に入れると燃料のウランは溶けてしまう。溶けない被覆管は取り除かれ別途で保管される。これらの作業は、特殊な部屋の中で遠隔操作で進められるのだ。
天然ウランで作られた核燃料は、3~4年で使用済みとなる。しかし、使用済み燃料は、燃えないウラン95%、燃えるウラン235が1%、燃える時に新たに生成されたプルトニュウムが1%、核分裂生成物が3%になり、プルトニュウムは燃料として使えるので再利用できる。これらを化学処理して作り出されるのがmox燃料と言われ、国産の原子力燃料となる。このmox燃料を使って発電所を動かすのがプルサーマルである。全国各地で実践が始まろうとしている。
しかし、何度も繰り返して使える夢のような燃料の増殖炉は、高濃度放射性廃棄物が増え、危険性の除去に莫大な経費を要することや、安全性の面からも国民の理解が得られてない。次は、高レベル放射性廃棄物の貯蔵について報告する。
電気は、私たちの生活のベースにある大事なライフラインである。何気なく使っている電気も一皮むけば、エネルギー資源のない日本は、その八割を海外からの輸入に依存している。石油ショック以来その多様性が求められ、原子力発電が今や三割を超え、さらに地球温暖化防止の切り札として、原子力発電が注目されている。
私たちは、日本で唯一の「原子燃料サイクル施設」を視察することが出来た。それは、青森県六ケ所村に広大な敷地があった。厳重な警備体制がしかれた物々しいもので、見学者用の磁気カードを首に下げ、再処理工場に入るには更に、顔写真つきの身分証明が必要で、カメラ、携帯電話はとりあげられた。広大な敷地は、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、高レベル放射性廃棄物埋設センター、再処理工場、mox燃料工場に分かれていた。
そもそも天然ウランには、核分裂しやすいウラン235は0.7%しか含有しておらず、これを原子力の燃料棒にするには3~5%に濃縮する必要がある。遠心分離機を何回も潜り抜け徐々にウラン235の濃度を上げるのがウラン濃縮工場である。ちなみに広島型の原子爆弾は、95%の濃度だそうである。
各原子力発電所では、運転や定期点検に伴って低レベル放射性廃棄物が出てくる。液状のものは煮詰め、燃えるものは焼却し、固形物は細かくして、ドラム缶に入れセメント系充てん材で固形化して、地下のコンクリート室に保管される。一号埋設施設にドラム缶20万本、それが二つ作られており、全国51か所の原子力発電所より運び込まれるのだ。満杯になるとそれに又コンクリートが詰められ、上に土盛りをして長い眠りにつき、半減期を待つシステムである。次は、プルサーマルについて報告する。