とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

初代後援会長の告別式

2016年01月31日 | 日記

 私が43歳、酒田市議会議員を目指した初代後援会長の土門喜夫さんが亡くなられ、告別式があった。享年96歳である。土門さんとの関わりは30年近く前にさかのぼる。
 30年前、私は稲作と肉牛肥育の農家だった。農協青年部活動を通して農政に関わった事はあるものの、議員への関心はまったくなかった。農協理事には、なってみようと思い挑戦した事があるが、思い通りにはならなかった。その様子を見ていた当時地区振興会長だった土門さんが中心になって、私を市議会議員にしようと動き出したのが事の始まりである。
 突然、土門さんを中心に数名の訪問には驚いた。家族に相談もしてないし、渋る私に「とにかく考えてくれ。何度も来るから」と言って帰られた。家族はもちろん反対だったし、親戚一同が乗り込んできて「お前は、俺の生まれた家を潰す気か」と叱られもした。しかし、何度も足を運ばれ説得される内に、その気が芽生えてきて、「これだけ言ってくれるんだから」と家族を説得する私になっていた。
 そこから私の人生は変わり始める。そのきっかけを作ったのが土門さんである。弔辞で土門さんとの思いでを語りかけた。あれから30年も議員を続けていられる事を思うと、土門さんの温かさが身に沁みる。告別式のお経に諸行無常の響きを聞いた。

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森林資源を活かした地域づくり

2016年01月25日 | 日記

 山形新聞の「検証・吉村県政2期目」のインタビュー記事で「県土の70%以上を占める森が荒れており、放っておくと、木が病気になったり、枯れてしまったり、ちょっとの雨で土砂崩れが起きたり、災害にまでつながってしまう」と述べ、森林資源を地域活性化につなげる「森林(もり)ノミクス」の成果を上げたいとしている。
 もともと私たちの生活は森林との共存だった。薪や枝打ちをした芝は、煮炊きや暖房エネルギーの根源であったし、木造建築の用材としての銘木はその美を競い合い、数多い伝統建築物として今に残されている。豊富な森林資源が私たちの生活を潤してきた。
 しかし、石油がエネルギーの中心となり、電気、ガスの利便性は私たちの生活様式を一変させた。戦後の住宅建設ラッシュで木材需要のピークを迎える昭和39年、木材の輸入が全面自由化となった。急激に外材供給量が増加し、5年後には国産材を外材が上回っている。安い外材は国産材の供給量を減らし、平成12年の木材自給率が18.2%となり戦後最低となる。森林の荒廃に危機を感じた政府と地方自治体は、木造建築への誘導策や、県産材使用を補助するなどで平成20年には24%までに回復した。森林資源の活用は国の形に関わる大きな課題である。
 そんな中「認定NPO法人ひらた里山の会」が「里山資源を活かした地域づくりin庄内」と題して里地里山フォーラムを開催した。子供たちも巻き込んで里山の大切さや、里山の美しさを伝えようとして活動を続けている。荒れた竹林の伐採や利活用にも取り組み、山の景観を取り戻そうと呼び掛けている。小さな一歩が大きなうねりとなって受け継がれて欲しいと願う。

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新雪の鶴舞園

2016年01月16日 | 日記

 庭園美術館と言われる本間美術館の鶴舞園は、ここ3日ほどの小雪ですっぽりと雪の中となった。さすが名園、新雪と調和した風情は威風堂々の貫録がある。
 「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われた本間家の別荘と庭園は、船荷人夫丁持ちの冬期間失業対策で建築されたといわれ、庭園には北前船の帰り荷として海難を避けるため船底に各地の名石を積んできて港から雪の中、千人引きのそりで運んで造園したと言われている。
 雪にもいろいろある。今回の雪は「里雪形」のようだ。皮肉にも、雪まつり会場の内陸には雪が無く晴天の様子が報道されている。吹雪の庄内は風が無く、しんしんと降った雪で10㎝を超えている。吹雪の庄内、本来の「山雪形」は山岳地帯に大量の雪を蓄え、春の雪解け水で田畑を潤す。異常は不安である。大自然の循環は手に負えるものではない事は知っているつもりなのだが。

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ALS患者ご遺族からの手紙

2016年01月09日 | 日記

 ALSでご主人を亡くされた遊佐町の斎藤さんから分厚いお礼の手紙が届いた。東日本大震災で長時間停電の怖さを経験し、私に連絡があり、ご自宅を訪問しALS患者を知るきっかけになった方である。
 11年間の長い闘病をご主人と共に闘った日々を幸せだったと述懐され、最後まで共に闘ってくれたドクター、介護師さん、ヘルパーさん達と食事会を開いて、ご主人の思いで話に笑ったり、涙を流したりしていると綴られていた。ここまで深い愛情に包まれたご主人は、ご満悦で旅立たれたのだろうと、勝手に推察してしまった。
 齋藤さんは、ご自分の体験を活かして、新しい患者さんへの相談活動をしている様子も知らせてくれた。ALS患者家族の方が集まり、情報交換する井戸端会議が県内各地で開催されている。、一昨年の庄内の井戸端会議で、病院対応の批判をした事が、患者家族の不安を煽った事となり不用意な発言だったと気づき、ショックで相談活動をやめようかと後悔したと述べている。庄内では日本海総合病院と荘内病院だけがALS患者の通院先である。
 気を取り直し、昨年12月の井戸端会議に出かけ、新しい4名の患者家族と語り合いました。異口同音に「不安で、不安で」の連発でした。遺族となった経験から、何も出来ないけれど、この方たちと寄り添うことだと思いました。
 川口由美子著の「逝かない身体」を何度も読み返しながら、11年間意思疎通が出来なかった事を思い出し、涙がこぼれますと綴られていた。特別何も出来ないけれど、難病議員連盟が発足でき寄り添っていると感じて下さったのであれば有難いことだと思っています。

 

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羽黒山の松例祭

2016年01月03日 | 日記

 明けましておめでとうございます。今年も、ご愛読をよろしくお願いします。年末に降った少々の雪もすっかり融け、温かい正月となり白鳥が田んぼで落穂をついばんでいる。異常気象なのだろうか、異常は不気味な怖さが潜んでいる様にも見える。
 大晦日夕刻、羽黒山松例祭に出かけた。松例祭は羽黒山特殊神事のひとつで、大晦日から夜を徹して羽黒山頂で行われる歳夜祭は、門前町手向地区で古くから連綿と受け継いで来た大祭である。その根源は、秋に行われる「幣立祭」で二人の「松聖」の任命を期に「冬の峰」へと進み、山伏が庄内一円を回って、ほら貝を吹きながら「松の勧進」の修行が始まる。その時の初穂料で松例祭が賄われ、庄内一円の松例祭となるのである。
 松例祭は大晦日。午前9時より始まり、綱まき、除夜祭、神拝、綱さばき、験縄行事、大松明け引きと続き、元旦の国分け神事、火のうち替え神事、綱のしと午前3時ごろまで続く。「大松明引き」は、気勢を上げた若者衆が大松明を引き、雪上を一気に駆け抜け、火を放ち火柱が立ち上がり絶頂を迎えます。こうして悪や、けがれを絶やし新しい年を迎えるのです。
 私たちが着いた3時ごろ、綱まきが始まっていた。大勢の参拝者に50センチほどの綱を汗だくで、まいていた。綱は大松明の綱を切り刻んだもので、ツツガムシを退治した象徴で、切り綱には強大な威力が備わっているとされる。軒先に掛けておくと魔除けや防火になるとされ人気がある。まくたびに、どおっと人が押し寄せ、転倒するものも続出。綱に秘めた神力に頼りたい気持ちは昔も今も同じである。
 羽黒山頂の駐車場は満車状態。次々と大型バスも到着する。羽黒山の伝統文化の光に触れたいと願う心で溢れている

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