とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

一揆を訴訟運動にした森藤右衛門

2012年03月29日 | インポート

002 ワッパ騒動の指導者、森藤右衛門の生誕日3月28日に「森藤右衛門を顕彰する会」の設立総会が酒田市総合文化センターで開催され、顕彰碑を建立する事などを決めた。昨年の夏頃から準備してきたとはいえ、百数十人の出席で会場がいっぱいになり、市民の関心の高さに驚いた。
 議事はすべて即決され、関心は東北公益文科大学の三原容子教授と明治維新史学会 長沼秀明理事の記念講演である。ほとんどが農家だった飽海郡は、酒田県庁の過重な税負担に不満を持っていた。苦しい農民は、雑税免除、苦役免除、種扶食米の利子引き下げ等を嘆願したが聞き入れてもらえず、実力行使に及んだが全て囚われの身となった。
 森藤右衛門は明治政府が年貢米を金納しても良いと変えたのに、酒田県はそれを農民に知らさず、従来通りの年貢米で収めさせ、米価高騰で得た利益分を返せと、訴訟運動にした。収めすぎた税金が戻ってくると、ワッパ一杯のお金がそれぞれがもらえると言って騒動になった。
 実力行使ではない、元老院や新聞、司法手段を駆使した所に先駆性がある。長沼先生によれば、明治8年に法律学舎支校が鶴岡に開設され、酒田にもあったのではないかと思われると話している。以後多くの法律学舎が日本に開設され、司法制度が確立されたと言える。
 「ワッパ騒動」で勝訴した農民は何を得たのか聞いてみた。税金が大幅に安くなり、司法が確立された意義は大きいとのことだった。権力と闘うことは今でも大変な覚悟がいる。その後に仕返しが無かったのか知りたいものだ。

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「校訓に勤労」の平田中学校が閉校

2012年03月25日 | インポート

003 わが母校、酒田市立平田中学校は58年の短い歴史に幕を閉じる事になった。人口減少が加速度的に進む結果なのか、政策的な指針なのかも判然としないまま、このところ、小中高校の統廃合行事がやたらと多い。画一的、適正な学級数が子供たちにとってベストなのか、大規模校も小さな学校もバラバラに存在した方が良いのか、難しい判断である。
 昭和の大合併前、飽海郡の平田郷には北平田、東平田、中平田、西平田村が存在した。北平田村と中平田村は東平田村を誘って、中学校の統合を模索した。後で合併する事になるのだが東平田村は当時、スクールバスもなく、遠距離であり生徒数も多かったことから、北、中平田村の組合立中学校の建設へ英断を下した。
 建設場所をどこにするのか、負担率をどうするのか、どんな学校にするのか難問題を超えて現在地に、ホテルみたいと言われた立派な学校が建った。田んぼの所有面積がその家のステータスの様な時代。子供が勉強する学校のためと協力してくれた地権者の思いが偲ばれる。
 埋め立て骨材は、鉄興社のスラグを馬車で運んだと聞いている。グランドの土は、冬の間に馬そりで運び、生徒が体育の時間を使って先生と一緒に整地をやり、体育の時間などなかったと先輩が語ってくれた。ダンプもブルドーザーもない時代、ただひたすら地域の子供のため勤労の汗を流した。
 結城哀草果作詩の校歌に「勤労の汗」が加わっている。自主、健康、共同、勤労、が校訓だった平田中学校は消えた。

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鮭の母川回帰

2012年03月20日 | インポート

003 今日、桝川鮭漁業生産組合の鮭放流式に行ってきた。大勢の子供たちや地元関係者で、ふ化場は華やいでいた。月光川水系の人工孵化の歴史は日本でも古く、江戸時代にその原形があったと伝えられている。鳥海山の豊富な湧水がその原点であり、神秘な鮭の母川回帰本能をたくみに活用した先人の知恵に、今更ながら驚かされる。
 産卵のために上ってきた鮭の卵を取り出し、人工的に孵化をさせ2㎝位の稚魚になったところで、その川に放して自然の生態に返してやる事業である。今年の放流は約1千万匹で、やがて川を下り日本海へと出る。成長しながら日本海を北上、ベーリング海でさらに大きくなり、4年後くらいに母川の月光川へと帰ってくる、壮大な鮭の一生のドラマだ。回帰率は0、3%前後で、生き延びる自然の厳しさが分かる。
 子供のころ鮭は方言で、「ヨー」と言い秋の高級魚として扱われ、祝儀や土洗いなどに欠かせないものだった。「しょんびき」とは塩サケの事で、焼くと塩が噴き出すような「しょっぱさ」で、今の塩鮭とはほど遠い感じだが、当時の保存食品として貴重なタンパク源だった。何でも、どっからでも、いつでも物があふれている飽食時代。いつまで続くのか考えさせられる。

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一日も早い復興を

2012年03月18日 | インポート

005 東日本大震災が発災して1年。11日の2時46分は、日本国中で鎮魂黙とうの時間となった。政府主催の追悼式で、病後の天皇陛下のお言葉は心に沁みた。犠牲者に深い哀悼の意を述べられ、危険を顧みず救助活動に尽くされた人々に想いを馳せ、率直に放射能問題にも触れられた。故郷を離れざるを得なくなった苦しみを克服して、この事を忘れることなく、未来に向かう気持ちを引き立てて行こうと、呼びかけられた。

 私は、山形市役所の千年和鐘前で開催された追悼・復興祈願祭に出席した。政府主催のテレビ中継に合わせた進行で、同時刻に黙とうをささげ、陛下のお言葉と総理大臣の式辞の後、吉村知事が式辞を述べ、4名のあいさつがあった。避難者を代表して、福島県伊達市の山田悦子さんの言葉は重かった。「震災、原発事故を経て故郷を見つめなおすと、改めて福島が好きになった。いつの日か故郷に戻り、何の心配もなく子供と桜をながめたい」山形県への感謝と共に語られた本音は心に残った。

 震災復旧は遅々として進んでいない。その中で、山形県の被災者受け入れと、ガレキの受け入れは素速かった。被災地のインフラ代行機能も遺憾なく発揮され、山形県の存在感を高めるに十分であった。政治が何もできないと揶揄される中、吉村知事の政治決断は正しかった。今後、これら結果をどう生かし切るかの発信力が問われる。

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「猫の目農政」に翻弄される農業

2012年03月10日 | インポート

007 農林水産委員会の任期は1年。6日の委員会で40分にわたる、最後の質問をした。少しでも農政を改善できたのか、山形県農業を前進させる事が出来たのか、農業者として忸怩たる思いが残る。

 

 農産物価格が下がり続け、米価は最高時の半分。苦しんでいる時に民主党はマニュフェストで戸別所得補償方式を打ち出した。多くの農家は一路の望みを託し投票、政権交代が実現した。それを見越した市場は、いっきに3千数百円の下落に転じ、一俵9000円の未曽有の低米価となった。農家は腰を抜かした。支持低落を恐れた民主党は、価格補てんを積み上げて、翌年度に下落分を上回る補てん金が入った。しかし、農家の信頼は一気に下がった。

 

 農業の合理化を促進するため、集落営農組織を作らせ、補助金はそこに特化させた。農地、水、環境保全支払制度も始まった。農村集落を守る名目で、補助金をばらまいた。面倒な事務作業に集落はへきへきした。今度は、地域農業マスタープランを作れと言う。そうすれば、担い手に1年間150万円、7年間支給する政策が打ち出され、農地集積政策は、受け手にも、出し手にも助成金が支払われる。しかし、それは集落営農組織内ではダメで、他集落からの集積となる。今まで進めてきた営農集落を壊すか、合併するとかになる。農業も原子力交付金の様になってきた。

 

 これら政策の影に、TPP戦略が透けて見える。震災報道を見るたびに、なぜ危険なその地に住み続けたいのか。農業の本質がそこにある。山間地に住み、農業を続ける生きがいを奪う政治であってはいけない。農産物を作り、大都会の消費者とつながる毛細血管は、細くともつながるっている所に意義がある。水際で農産物を守り、国内で産地を競い合う。いきいきした農家の顏が日本国の基であり農政である。

 

 ふと庭先を見たら、バンケ(ふきのとう)が芽をだしていた。もう、農作業が忙しくなる季節になった。

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春よ来い

2012年03月04日 | インポート

001 もう3月である。春は名のみの、風の寒さや。ここ両日の日差しに、春を思わせる強さがあるものの北風の冷たさが肌を刺す。原っぱの雪もなかなか消えず、畔が見えるくらいで、スピードが遅い異常気象がまだ続いている。
 県立酒田北高の閉校式に行ってきた。酒田北高の前身は、明治30年にさかのぼる。本楯青年夜学会から始まり、本楯農業補習学校となり、昭和に入ると女子部を加えて、本楯青年学校となった。
 昭和23年に山形県立本楯高等学校となり、独立校舎が建設され、昭和31年に現在の校名になり、文字通り酒田の北の学び舎である。豊かだった北飽海の若人の拠点とした、良き時代に想いを馳せると胸に詰まるものがあった。少子高齢化の進行は速く、またひとつ高等学校が消えた。これも仕方のないことなのか。
 この前、県庁食堂のおばちゃんに「酒田の美術館は、小さいけど素晴らしいネ。日本一かもよ」と言われたことを思い出して、久しぶりに酒田美術館へ足を運んだ。雪の中の美術館は、風情があった。展示品はともかくも、飯森山の高台の景勝地であり、眼下に最上川、酒田市街地が一望で出来る。バックに鳥海山ありで、「なるほど、日本一か」と納得した。

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