とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

酒田市中2生が米国へ出発

2016年10月28日 | 日記

 酒田市が中学生を海外に派遣し、ホームスティしながら見聞を広げる事業「はばたき」が今年で19回目を迎えた。費用の半分は保護者負担となるが、希望生徒は60名に近いと言う。年々派遣人数は予算上、減少傾向にあるが今年の派遣は20名と決まった。
 27日家族たちが見守る中、庄内空港3階で出発式が行われた。生徒たちは、初めてのパスポートを持ち、心はすでにアメリカのオハイオ州デラウェア市に飛んでいた。
 アメリカ到着後、デンプシー中学校への体験入学があり、全校生徒での歓迎セレモニーがある。土日はホストファミリーと単身で過ごす事になる。英語力、生活習慣、食べ物、マナー全てが初体験。心細くないかと心配するが、生徒は好奇心いっぱいで一向に構わない様子である。月、火は体験入学で授業を受け、日本文化の紹介などもされる。水曜日にデラウェア市に別れを告げ、ワシントンDCに向かい、アメリカの心臓部を見学する行程だ。
 出発式で村上教育長あいさつは「現地では、出たとこ勝負の単語で話す度胸がないとやっていけないと思う。下手な英語であっても身振り手振りで日本を伝えてこい」とハッパをかけていた。
 10日間のアメリカの旅は生徒に貴重な体験になる。子供たちに投資する予算は必ず社会にリターンすると思っている。

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技能五輪全国大会が開幕

2016年10月22日 | 日記

 21日、本県では初めての技能五輪全国大会が山形県総合運動公園で開幕した。全国46都道府府県から1300人余りの選手が、41職種の技能を三日間かけて競い合うことになる。「物づくり山形県」を自負する本県選手の金メダルがいくつ獲れるのか、興味深い所である。
 開会式は運動公園のメーインアリーナで行われ、選手と関係者と併せて3500人程、広い会場いっぱいの熱気が伝わってくる。薄暗くされた会場に、照明効果を引出す演出も全国大会ならではの雰囲気が漂っていた。最初に大会旗が山形県代表の手でステージに登壇、その後北海道から順番に南へ各都道府県旗がステージに上がった。大会会長の吉村知事が「震災後、山形県大会をきっかけに日本のもの作り産業の原動力になって欲しい」と挨拶。国会開会中で大臣の出席はなかったものの、安部総理のメッセージが読み上げられ大会に花を添えた。
 技能五輪は昭和38年から開催されており、今回が54回目となる。物づくりの職種は多岐にわたるが、資源の乏しい日本は不付加価値の高い良質な製品を作り出す技術の勝負となる。伝統ある「山形県のもの作り」も今大会から新しいステージに入った。

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羽黒山頂にオーケストラの響

2016年10月16日 | 日記

 10月10日午後3時、羽黒山合祭殿前の広場に山形交響楽団フルオーケストラの音が響き渡った。樹齢200年を超す大木の杉並木の枝も震えるような迫力だ。これは、出羽三山が今春「日本遺産」に認定された記念として県が企画したもので、自然と信仰が息ずく「生まれかわりの旅」がテーマである。
 出羽三山は、信仰の山としての歴史は古く「西の伊勢参り東の奥参り」と並び称される程、全国から参拝者が絶えなかった。出羽三山の開山は、飛鳥時代の崇峻天皇第三子、蜂子皇子が暗殺から逃れるため、宮中、京都から北へ船で向かい、由良に着いた時、八人の乙女が岩の上で笛に合わせて舞う「神学の舞」の美しさにひかれて上陸したとされている。地名に「八乙女」が残っている。
 蜂子皇子は、そこから羽黒山に登り出羽三山を開山して1400年になる。蜂子皇子の墓は東北では唯一、現在でも宮内庁が管理している。
 コンサート会場には600人程が県内外から参加していた。出羽三山の伝統文化と山響オーケストラのクラッシックとのコラボレーションは想像しただけでも豊な気分になる。それに、余りあるロケーションは何とも贅沢なものだ。人々を魅了する価値は十分にある。

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聴覚障害者の式典に参加

2016年10月09日 | 日記

 山形県聴覚障害者協会庄内支部40周年記念式典に出席した。県内各地から50名程の参加者で、各地区の社会福祉協議会の職員や手話通訳も交えた賑やかな会だった。
 酒田の聴覚障害者の皆さんとの交流は長く30年余りにもなる。そもそもの始まりは、友人である板金業、高橋潔さんの所で働いていた方が聴覚障害者だった事もあり、髙橋さんは手話が出来た。彼を通して聴覚障害者との交流は始まった。市議会に当選した当時、FAX機器は高価であまり普及の進んでない時代である。携帯電話もなく勿論メールなどもなかった。聴覚障害者は電話が使えない不便さがある。
 そこで、酒田市に働きかけ「福祉ファクシミリ貸与事業」にこぎつけた思い出がある。二十数台だったと思うが、聴覚障害者の日常コミュニケーションが獲れる快挙となった。日本初と報道され話題となった。私も皆さんも若かった頃の思い出である。
 今は、聴覚障害者の老人福祉施設が話題となっている。入所者との交流がスムーズに出来る施設が求められている。

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山形県の魅力を世界に

2016年10月07日 | 日記

 9月27日、9月定例議会の予算特別委員会で質問をした。その日は「身近な県議会事業」の一環として私の質疑の後に、本会議場で山形交響楽団によるコンサートが予定されていた。その聴衆者200人ほどが委員会傍聴にお出でになり、傍聴席の入替も行われるほどいっぱいだった。地元自治会長さん4名も加わっている。
 人口減少が続く中、街の賑わいを取り戻すには観光による交流人口の拡大を大胆に打ち出すしかないと思い、観光一本に絞って県の施政を質した。山形県の国宝、重要文化財を磨き上げ、全世界に発信できないか。「刀剣女子」ブームで致道博物館は全国の愛好者で賑わったニュースの例もあり、出羽三山の日本遺産登録もある。文化庁は新しい政策に「重文財の装備化」を立法して、観光の起爆剤にと狙っている。
 外航クルーズ船コスタ・ネオロマンチカの酒田港寄港も決まった。初めての寄港に受け入れ体制はどうか。酒田みなと駅からシャレた臨時列車や、大型画面による山形紹介などを提案したが、これからの課題となった。大手コンビニは、全国全店舗で英語・中国語の対応を決めている。山形県も何等かの対応が迫られている。
 酒田港自身の賑わい創出も必要だ。東埠頭に空いている上屋がある。その改修を提案。具体的利活用は今後、関係者と協議するとして、海が見える屋内施設として改修が決まった。
 酒田港はコンテナ貨物が増え、日本一の伸びとなった。バックヤードの増設や岸壁の延伸も工事が始まり、今度は客船の往来を増やす未知の世界に入る。酒田港は16万トン級の客船が入港できる数少ない港である。受け入れるには内陸の花笠まつり、新庄祭、サクランボ狩り、そば街道などとの連携が必須である。繋がるには山形新幹線の庄内延伸ではないかと質した。知事答弁は「総合的交通体系を見直す時期に来ている。その中で考えたい」であった。
 「観光立県山形」目指すのに時間は余りない。東京オリンピックがひとつの山になる。

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庄内空港が開港して25年

2016年10月02日 | 日記

 庄内空港開港25周年記念式典があった。「庄内陸の孤島からの脱却」と運動を始めて40年になると言う。一県一空港の原則を破る事は並大抵の事ではない。当時の県会議員だった前田巌さんを中心にした熱心な運動はその原則を破った。山形県は二空港が認められた第一号である。庄内を高速交通網から取り残されてはいけないとの執念はすさまじいものだった。
 平成3年の開港当時は羽田一便、大阪一便で小型機の乗り入れだった。どの空港会社も採算が取れないと、庄内の乗り入れには二の足を踏んだらしい。しかし、今では山形空港の2倍の搭乗客で、37万人が利用している。中型機(270人乗り)が投入され、羽田往復一日4便が定期化されている。
 羽田便のみの運行で、羽田をハブにした空港とも言える。観光目的の搭乗者は平日で19,1%で、山形空港の半分、秋田空港の三分の一である。庄内の観光を磨きあげ、全国に発信できれば空港の環境はガラリと変わる。世界とつながる庄内空港には大きな夢がある

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