蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

走ることについて語るときに僕の語ること

2013年09月20日 | 本の感想
走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹 文芸春秋)

一般紙でも報道されていたが、著者は、ちょっと前にヤクルト(野球チームの方)のファンクラブの名誉会員になったそうで、ファンクラブのサイトに寄稿している。
この原稿が、弱いチームを応援するファンの悲哀と喜びみたいなのをうまく掬いあげていて「さすがだなあ」と感じた。

本書によると、著者が小説を書こうと思いついたのは、神宮球場の外野でビールを飲みながらヤクルト戦を見ている時だったそうだ。そういう意味では、ヤクルト球団が世界的作家を作ったと言えなくもなくて一段と感慨深かった。

本書は、長いマラソンランナー歴を持つ著者が、マラソンに臨む練習の過程やレース中の心境などを綴ったエッセイ(著者自身は「エッセイじゃない」みたいなことを述べているけど・・・)。

著者の小説とは違って、平明な言葉でわかりやすく書いてあるので、読めば必ずマラソンに挑戦してみたくなること請け合いである。

そうはいっても、著者一流の華麗な?比喩はそこかしこにあって、本書で私が一番気に入ったのは、次の箇所だ。(P149~)

***
走っているあいだに、身体のいろんな部分が順番に痛くなっていった。(中略)彼らにとっても、100キロを走るなんていうのは未知の体験だし、みんなそれぞれに言い分はあるのだ。それはよくわかる。しかし何はともあれ、今は耐えて黙々と走り抜くしかない。強い不満を抱え、反旗を翻そうとするラディカルな革命議会をダントンだかロベスピエールだかが弁舌を駆使して説得するみたいに、僕は身体の各部を懸命に説き伏せる。励まし、すがり、おだて、叱りつけ、鼓舞する。あと少しのことなんだ。ここはなんとかこらえてがんばってくれ、と。しかし考えてみれば----と僕は考える----二人とも結局は首をはねられてしまったんだよな。
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許されざる者

2013年09月20日 | 映画の感想
許されざる者

かつて幕府軍の残党として多数の追手を殺した主人公(渡辺謙)は、かつての仲間(柄本明)から賞金首を取らないかと持ち掛けられる。今は亡きアイヌの妻との間に子供2人がいる主人公は細々と農業をしていたが、生活の苦しさからその話に乗ってしまう。
賞金首の対象は、女郎屋で敵娼の女の態度が気に食わないとその顔を刃物で切り刻んだ男だったが、街の警察署長?(佐藤浩市)はこの事件をカネで解決(代償として馬数頭を差し出すように要求した)しようとしており、主人公たちの行動は自らの秩序維持への挑戦と見做していた。賞金首をとった主人公たちだが、警察署長は仲間を拘束し拷問死させる。主人公は復讐を誓うが・・・という話。

本家(イーストウッドの西部劇)の方を見ていないが、本作はオリジナルにかなり忠実につくられていると聞いた。
そのせいかもしれないが、設定として苦しいんじゃないか(例えば借金のカタとして女郎をやっているはずなのに多額の賞金を出せるとか)と思えるところがチラホラ。

ラストで主人公が仲間の死を知って怒り狂うシーンは、あんまり怒っているようにはみえず、その後の戦闘シーンでは、「狂気の戦士が我を忘れて破壊の限りをつくす」みたいな感じになるんだろうなあ、と思っていたら、なんといか、あんまりスピード感がなくて主人公が強そうに見えなかった。警察署長もあっさりやられすぎ。

オリジナルをリスペクトして、ただのチャンバラではなくて芸術性?を高めようとしたのかもしれないけど、カタルシスがなかったなあ。
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