老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

渋沢栄一について

2019-04-22 10:46:49 | 民主主義・人権
浅学のため「実業家としての渋沢栄一」についてはほとんど知らないのですが、私が知っているのは「養育院院長」を半世紀あまり生涯を通じて務めた渋沢栄一です。塩見鮮一郎『貧民の帝都』(文春新書)に詳しいです。

私は佐幕派で明治維新を全くといってよいほど評価していません。実際に社会のシステムとして、江戸時代の方が明治時代よりも優れていると思います。(それもあって教科書では意図的に江戸時代をおとしめて、いかに維新が偉大であったかを強調していますね。)

養育院も「渋沢栄一伝記資料」によると
「是ヨリ先、明治五年十月十四日、東京府庁ハロシア皇子ノ来朝ニ備ヘ、府下ノ乞丐ヲ駆集メ、ソノ処置ヲ東京営繕会議所ニ諮ル。蓋シ東京営繕会議所ハ旧幕時代ニ於ケル市民共有金ノ管理ニ当リ、旧町会所ノ担当セル市街ノ営繕ト市民ノ賑恤救済事業等ヲ継承セルニ由ル。仍ツテ東京営繕会議所ハ翌十五日、右窮民ヲ本郷加州邸内ニ仮収容シ、更ニ同月十九日浅草溜ニ移ス。ナホ東京営繕会議所ハ同月、東京会議所ト改称セシモ、引続キ此収容所ヲ主管シ、明治六年二月四日、浅草溜ヨリ上野護国院ニ収容者ヲ移シ、爾来養育院ト称ス。
是月栄一、東京会議所共有金取締ニ嘱託サレ、同時ニ当院事務ヲ掌理ス。」

つまり、当時の明治政府の考え方として「外国から要人が来日するのに極貧の浮浪者等が帝都でうろついているのはみっともないからこいつらを集めてどこかに押し込んでしまえ。」ということのようで、同じことが私が住んでいる千葉でも行われています。

下総台地は農地として適さなかったようで、江戸時代は軍馬の放牧地となり「牧(まき)」と呼ばれていました。明治になって、ここを開墾させようと東京の浮浪者を集めて送り込んだのです。発想は同じです。

そんな中、渋沢は「実業による私利は公益に資するべきであるとの一貫した主張」をもって養育院を護り続けたのです。そして、その「養育院」は最近石原某により潰されてしまいました。

「護憲+BBS」「コラムの感想」より
千葉の菊

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