ずっと気になってた本。表題作「ひかりごけ」は、事実が基になっているということもあってか比較的テーマが飲み込みやすいと思うんだけど、純文学をじっくり読むことから遠ざかりすぎて(笑)他の作品はどこをどう読むか、そこから自分が何を汲み取れば良いのかがなかなか難しかった。そういう意味では、解説にものすごく助けられた(笑)。
ただ、人間が腹の中に抱えている、何が潜むか自分でもわかっていないような暗い深淵が、淡々とした筆致だからこそ描き出されているような印象は受けた。
「流人島にて」の三郎は、彼が恨みを重ねる毛沼の指を落としても芯から満足したようには見えないし、「異形の者」で仏像に語りかけて決闘に出て行く「私」も、仏から救いを得たいと思っているようには見えず、ただ自分を見つめているのであろうその姿を心に留めておくだけ。「海肌の匂い」では、市子は初めてダイボの船に乗せてもらった女として、外部から(嫁に)来た女として、その日に大漁があったことでほっと胸を撫で下ろしはするものの、地元の老人の気が狂った娘の姿を見て、自分がそうならないとは言い切れないことに気づく。
そして「ひかりごけ」で、「人肉を喰った」はずのない、船長以外の人々の後ろに光の輪が現れたのは何故か。それはつまり、人間の業ともいえるものの表れと言えるのではないか。文字通り人肉を喰うことと、人を人とも思わない「人を食い物にする」ような行為との間に、境界線があるのかどうか。誰かに対して罪を犯していない人間がいるのかどうか。
自らが生きるために死んだ仲間を喰った、さらに殺して喰った船長が、「キリストの如き平安のうちにある」校長へ変貌するという図式も考えようによっては(よらなくてもか……)エグい話であって、まさに解説にある通り「作者が自己とともに人類を告発するまことに辛辣かつ深刻なアイロニー」なのだと思う。
ただ、人間が腹の中に抱えている、何が潜むか自分でもわかっていないような暗い深淵が、淡々とした筆致だからこそ描き出されているような印象は受けた。
「流人島にて」の三郎は、彼が恨みを重ねる毛沼の指を落としても芯から満足したようには見えないし、「異形の者」で仏像に語りかけて決闘に出て行く「私」も、仏から救いを得たいと思っているようには見えず、ただ自分を見つめているのであろうその姿を心に留めておくだけ。「海肌の匂い」では、市子は初めてダイボの船に乗せてもらった女として、外部から(嫁に)来た女として、その日に大漁があったことでほっと胸を撫で下ろしはするものの、地元の老人の気が狂った娘の姿を見て、自分がそうならないとは言い切れないことに気づく。
そして「ひかりごけ」で、「人肉を喰った」はずのない、船長以外の人々の後ろに光の輪が現れたのは何故か。それはつまり、人間の業ともいえるものの表れと言えるのではないか。文字通り人肉を喰うことと、人を人とも思わない「人を食い物にする」ような行為との間に、境界線があるのかどうか。誰かに対して罪を犯していない人間がいるのかどうか。
自らが生きるために死んだ仲間を喰った、さらに殺して喰った船長が、「キリストの如き平安のうちにある」校長へ変貌するという図式も考えようによっては(よらなくてもか……)エグい話であって、まさに解説にある通り「作者が自己とともに人類を告発するまことに辛辣かつ深刻なアイロニー」なのだと思う。
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