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或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「禁忌」(著:フェルディナント・フォン・シーラッハ/訳:酒寄 進一)

2018-01-03 23:40:41 | 【書物】1点集中型
 「犯罪」「罪悪」と読んできたが、長編のせいか、より純文学度が増したような雰囲気。とはいえ淡々と事象だけを積み重ねるような描かれ方なのはいつもと同じで、無駄のなさが心地よい。今さらだが酒寄氏の訳も良いのだろうなと思う。
 そういう表現なので、主人公ゼバスティアン・エッシュブルクの特徴のひとつである共感覚もさほど深く掘り下げてはおらず、ただ彼という人間を形成する性質の一つとして描かれているだけで、強調はしていない。あくまでも感性の個性の一つ。何かのはずみでそういうふうにものを感じることは誰にでもありうるだろう、とさえ思わせそうなくらい。

 物語は主人公の少年時代から、カメラマンとして名を成すまでを描いて半ばまで進む。そして突然に殺人事件が起こる。ただし遺体は見つからず、しかし残された証拠から主人公は容疑者とされ、あっさりと自供する。しかし、被害者が誰なのか、遺体がどこにあるかは明かさない。そのうえで、「法とモラルがちがうように、真実と現実も別物だ」と話したビーグラーに弁護を依頼する。
 その依頼を受けることにしたビーグラーは、主人公の恋人ソフィアとともに、主人公の姉妹と判明した犠牲者の足跡を探しにオーストリアへ。しかし、犠牲者であるはずの妹が生きていることが判明する。ますます事件の様相が混乱する中、「真実と向きあう最後の重要な機関」である公判の法廷を迎える。
 そして公判で展開されたのはまるで、舞台演劇のような主人公の「作品」だった。

 罪とは、その罪を裁く法とは、真実とは、現実とは。人間とは。ゴヤの絵画、チェスを指すトルコ人の自動人形。そして主人公の作品である写真とインスタレーション。何もかもが溶け合い、混ざり合って境界がわからなくなる。いま自分が見ているものは、読んでいるこの物語が語るものは何なのか。作者は映像を映像たらしめる光の3原色を言葉として操り、まさに主人公のコンテンポラリー・アートの如き物語を紡ぎ出した。
 察しの悪い私は、表紙の大事な仕掛けにも「訳者あとがき」を読むまで気づかなかった。が、知れば、作者が翻訳版でも使用することを条件にしたことに合点がいく。そして最初に通報してきた「被害者」って結局誰だったんだろう? とか思うが、今さらどうでもいいことでもある。美しいと感じることに理由が必要ないのと同じように。何を美しいと感じるかが自由であるのと同じように。


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