デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



昨日から、ボルヘスや村上春樹の作品を幻想文学として十把一絡げにしたようなことを、ろれつの回らんような感じで書きなぐっているが、要するに数年前から疑問に思い始め、理由を探し出そうとしている、

・私の周りの幻想文学愛好家が、なぜゆえにそのおもしろさを説明してくれないのか、または説明できなかったのか?

という問いに収斂されるようだ。仲間はずれといわんが、おいてけぼりだった気持ちは未だ忘れることができんのだ。
弊ブログを読んでくださってる方々は、「それは君の運が悪いだけだったり、質問の仕方や話題の切り出し方がまずかっただけ」という人もいるだろう。事実そういうこともあるだろう。
ただ、今回、ボルヘスを読んでみて、自分ならボルヘスのおもしろさをこう解説するだろうと、漠然としたものはつかめたように思う。
もちろん、そのおもしろさを語る上で、相手が読書に抵抗なく、人間の認識や夜見る夢や幻想、奇想といったものに、寛容というか理解がある状態が望ましいが(笑)。
では、どういった風におもしろさを表現するかといえば、ここ三回ほどで書いたようなことを、口調を変えて繰り返すぐらいしか私にはできないだろう。

・20世紀はすべてをコンパクトにしようとした世紀で、それは文芸でも発達したこと

・どんなものにも宇宙を見出そうとする姿勢

・どんなものに対しても探究すべきものとして接する姿勢。これまでの疑いもしなかったものを探究するものとして捉えること自体が幻想や奇想の形を取ること

・20世紀で発見されたような真理が実は古代のインドの経典やいわゆる「異教」の教義にあったことを発見してしまうようなことを堂々巡りの迷宮として感じること

・その内容がどんなに奇怪・奇想で迷宮じみていても、自分の頭でイメージでき、想像の翼を羽ばたかせることができてしまうこと

・それを遊戯として、日常にせめてもの非日常を味わえることに喜びを感じること

まぁ、読書自体が幻想を味わう行為であるといってしまえばそれまでなんだが、これらのことのなかで一つでも相手に伝わったならば、それでいいのでは、という気がしてきた。
ただでさえ、真理を短く表現しようとして詰め込んである文学だ。とりこぼしがあっても仕方ないところもあるだろう。しかし、ボルヘスの作品が所収されている本の解説にある

十九世紀の小説をある程度読み、それを理解してからでないと、二十世紀の小説なんかはわかるはずもないなどという、迂遠な教条主義は、いまの若い読者にはないようだ。これこそ、文学作品の本当の読み方で、つまらないエセ歴史主義の虜になって、小説を読んだところで、なにが獲得できるというのか。

という言に関しては、これを真に受ける人に20世紀の作品だけで終わらすなと、釘を刺したい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )