デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ピラネージ、ロベール、ユルスナール、ボルヘスというつながりで、三作品目のボルヘス作品を読んでしまった。
『伝奇集』『砂の本』『エル・アレフ』と立て続けに読んでみて思ったのは、あぁこれが20世紀の文芸なんだな、なんだか20世紀物理の統一理論生成の流れと似ているなということだ。私の勝手な印象なので、「なにも分かっとらんな」と思われるかもしれんが。
要するに、物理というのは同じ現象を起こせる法則を発見し、それを説明する式や理論を簡潔な形で表す仕事だと思うが、文芸の世界も20世紀に入ると物事を一つ一つ描くのではなく短い言葉の分量で要約してしまう短編でもって、すべてを言い表そうという動きが活発になったのでは、と勝手ながら推測したわけである。
一例として、ドストエフスキーがキリスト教の神と戦ったなら、20世紀の文学は神や宗教の教義・論議そのもの自体を探究(探求ではない)されるものとし、探究した内容を短く表現することに移っていったとかいうようなことが、ボルヘスの本の解説にあったが、そういったようなことである。
そういう探究はしばしば突飛な発想や奇想、虚構を前提にしてするほうがアプローチの方法としてやりやすく、幻想の世界を舞台に書くボルヘスや村上春樹ら博識な作家の作品は確かに20世紀の文芸らしいと暴論覚悟で書くがいえるように思う。この二人の作品には、いいたいことを短い分量の中に詰め込みたいためか、読者が著名な人物や有名作品を知っていると、あえて前提にして書いているようなものがある。村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はプルーストの『失われた時を求めて』のパロディで物語の冒頭であからさまに「隠喩」として作者名を語らせているし、『ノルウェイの森』も作中に『魔の山』や『車輪の下』という作品名をあからさまに登場させていたりするが、これは私からすれば作品のテーマの要約を先人の作品で代替していて、あたかも「知ってる読者だけ分かれ」といわんばかりである。

支離滅裂な文、つづく、かも。

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