おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

歌 と の か か わ り

2009-06-11 06:56:42 | Weblog


 
私のこれまでの人生の中で歌はついて廻っている。
 
子供を育てる時はモーツアルトやブラームス、シューベルトの子守唄を、自分のメゾソプラノの声に酔いしれて、いつも歌ったり、ハミングしたりしていた。 昼寝の子供の顔をそよかぜが撫でて行き、その頃は私も幸せな気分であった。
 夫は夫で、義妹から「今日のクンパルシータは兄ちゃんがリクエストしたんでしょ。私はエルチョクロをお願いしたから気をつけててね」とNHKへのリクエストについて電話が入ったりしていた。
 やがて3万8千円もするギターを買って来て、松山放送局の専属ギターリストだったという人を招いてギターを習いだした。
 毎夜、毎夜二人で「禁じられた遊び」や「ドナウの漣」をビックで掻き鳴らしていた。
 夫は家業の卸し問屋の配達をしてきて、一日の仕事を終え、愉しみのつもりなのであろうが、子供を負ぶって細かな店売りに一心不乱だった
私としては許せない気持ちであった。
 ある時座敷に上っていった私は、そのギターをふんづけて潰してしまった。今で言う切れると言うことだったかもしれない。それを見ていた夫はなじりもせずに、ギターはそれきりになってしまった。今ではすまなかったと後悔している。
 子供が成長して行く頃、からおけブームが始まり我が家でも家族で歌いに出かけるようになり夫が歌うのを始めて聞いた。
 「男がしらふのまま人前で歌えるか」と言ったが、中学生の頃、「ハーモニカの県代表で出征兵士を送りに名古屋駅へ吹きに行っていた」と言うだけあって音感は確かで、
鼻にかけて歌う流行歌はなかなかのものであった。また、私の歌を何と思っていたのか聞くと「下手な奴だなーと一生思っていた」という人の悪さであった。
 定年後知人と老人施設へ行き「帰り船」や「大利根月夜」などリクエストされて歌うとお年寄りが泣くと話ていた。
 田端義男が名古屋市の公会堂で歌謡曲の大会に優勝した時居合わせたと言っていたが、案外自分も応募していたのかも知れない。
   

  俳句  蟻登る句碑に戦のありしこと

      炎昼や蟻塚のみが残されぬ

 

コメント (1)
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