僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 高橋尚子という存在

2008年03月09日 | スポーツの話題

今日は名古屋国際女子マラソンの日だ。

どうも土・日曜日の昼間は外出することが多く、去年11月の東京国際女子マラソンも、今年1月の大阪国際女子マラソンも、テレビ観戦ができなかった。
きょうも和歌山県の「四国山」というところへハイキングに誘われていたのだが、この名古屋マラソンだけは何が何でも見なければならないので、お断りした。

注目はもちろん高橋尚子である。
五輪のマラソンで、日本人として男女を通じて初の金メダルに輝いた歴史的ランナーである。もう一度、名古屋でその強さを再現してもらいたい。そう祈っている。

僕のマラソン観戦の歴史は、もう45年近くなる。

マラソンの全コース生中継が世界で初めて実現したのは、1964年の東京五輪のマラソンのことだった。多感な15歳の高校一年生だった僕は、このレースをテレビで見て、マラソンというスポーツの魅力に取りつかれ、その後、いつか日本の選手が、五輪のマラソンで金メダルを獲得することを夢見ていた。(その頃は、まさか女子のマラソン種目が出現するなどとは思いもしなかった)。

東京五輪は、ご承知のように、後に自殺した円谷が銅メダルを獲った。

68年のメキシコは、君原が2位で銀メダル。僕は大学2年生で、翌年に計画していた北海道自転車旅行の資金を稼ぐため、アルバイトに精を出していたころだ。

72年のミュンヘンは、主力の宇佐美が期待に応えられず、日本勢はメダルなし。僕は結婚2年目で、この五輪の数ヶ月前に長男が生まれた。

76年のモントリオールは、宇佐美と宗茂らが出たが、宇佐美は年をとり過ぎ、宗茂は若すぎた。日本勢は惨敗。

80年のモスクワは、日本選手不参加。このとき、もしも…日本が参加していれば、代表に決まっていた瀬古利彦が勝っていた公算がかなり高かった。

84年のロス五輪も瀬古に期待が集まったが、直前に体調を崩すなどして、30キロ(35キロだったかも)地点で集団から引き離されて圏外に去った。たしか宗猛が4位に入ったと思うが、メダルはゼロ。

このロス五輪から、女子マラソンが正式種目になった。日本からは増田明美らが出場したが、増田は途中棄権に終わった。

88年のソウルでは男子は中山が注目を浴びたが4位でメダルには届かず。女子もパッとしない成績だった。この年、長男が高校1年生になった。

92年はバルセロナ。男子は旭化成の森下が、韓国人選手と最後まで競り合った。女子は有森がロシアの選手とこれまた最後まで競り合った。しかし、2人とも、渾身の力をふりしぼったものの、銀メダルに終わり、金の夢はついえた。あと一息で金、というところで、男女とも最後の一騎打ちに敗れたのは悔しい限りだった。この年、次男が大学1年生になった。

96年アトランタは男子は全滅。女子は、有森が意地を見せて銅メダル。「自分で自分をほめてあげたい」というレース後のインタビューが流行語になった。

そして2000年のシドニーを迎えた。
男子マラソンは低迷期に入っていたが、女子は綺羅星のごとく有力選手が揃った。
その中で、最も期待の大きかった高橋尚子が五輪新記録でとうとう宿願の金メダルを獲ったのである。そのときの嬉しかったこと、嬉しかったこと。

                        

 

  

  2000年(平成12年)9月25日の朝日新聞の朝刊。
  僕の大事なコレクションのひとつです。



この新聞の左下に、小さく「巨人が優勝」という見出しが載っている。
高橋の歴史的快挙の前に、巨人のリーグ優勝も隅に追いやられてしまった。

高橋は、東京五輪以来、念願だった「五輪マラソンで金」を実現してくれた。
その何年か前のタイのバンコクで行われたアジア大会マラソンで、酷暑の中を世界記録を上回るハイペースで飛ばしに飛ばし、後半の落ち込みも最小限にとどめて圧勝した高橋を見て、彼女はシドニー五輪でも、ひょっとしたら優勝するのではないかと思った。日本人でこんな強い女子ランナーを見たことがなかった。

それでも、高橋の五輪出場への道は険しかった。
前年のスペインでの世界選手権に出て、シドニーへの切符を手にするはずだった。そして、そのレースに向けて、世界記録を出せるほどの調子に仕上がっていたのに、直前に故障をして、世界選手権への出場を断念せざるを得なかった。

これでシドニーへの出場に黄信号がともった。
そして翌年、選考会の最終レースである3月の名古屋国際女子マラソンに背水の陣でのぞんだのである。僕は胸をドキドキさせながら、テレビを見ていたことを覚えている。しかし、高橋はそんな僕の心配などどこ吹く風の安定した力強いレース運びを見せて優勝し、無事にシドニーへの出場権を得たのである。

それから4年。
アテネ五輪の選考会では、マスコミも加わって、すったもんだの大騒ぎになった。
当落選上にいた高橋を、五輪代表に選ぶかどうかである。
僕は、ぜひ高橋を選んでもらいたかったが、どうもあの、独特の(アクの強そうな)キャラを持った小出義雄監督が、日本陸連からすごく嫌われていたようで、そのせいで(と僕は今でも信じている)高橋は選考から漏れたのだった。無念!

そしてアテネ五輪で、野口が見事に金メダルを獲得したのは記憶に新しい。

さらに4年が経った。そして今日…
高橋は、北京へ残された最後の1枚の切符の獲得をめざし、名古屋を走る。
体調はどうか? 練習はきちんと予定通りこなせたのか?
身体のどこかに隠している故障はないのか…? 
心配でならない。まぁ、僕が心配しても仕方ないのだけれど…。

   ……………………………………………………

男子マラソンが、いつかオリンピックで金メダルを獲る日が来るだろう、と思いながら15歳の頃から数え切れないほど多くのマラソンレースで日本選手を応援してきたが、今思えば、最も「金」に近づいたのが瀬古利彦であった。しかし、彼が最強の時期に開催されたモスクワ五輪が、ボイコット騒動で参加できなかったことが、すべての運命を狂わせた。

最近ではもう、自分が生きている間に、男子マラソンで金メダルを獲ることは無理だろう、と思い始めている。
今のアフリカ勢の強さには、日本男子ではとうてい歯が立たない。
(と言いながらも、心の底ではまだ期待している…)

しかし、日本の男子ではなく、女子がマラソンでこれだけ活躍するようになったのは、女子マラソンの黎明期から思えば、僕にはおよそ信じられないことであった。

男子ではなく女子がメダルを獲ったという驚異的な出来事。

高橋尚子という1人のランナーが、僕が抱いていた長年の夢を叶えてくれた。

自分の元気なうちに、彼女と同じ時代に生きられて幸せだったと思う。

名古屋国際女子マラソンは、きょう、12時15分にスタートだ。

久しぶりに高橋のマラソンが見られる。
勝って欲しい。ぜひ勝って、五輪出場を決めて欲しい。
…いや、あんまり欲を出してはいけない。
たとえ敗れても、それはそれでいいじゃないか。
あれだけ走って、あれだけ僕たちに夢を与えてくれたのだから。

最も重要なことは、彼女の走る姿を今日見ることができる、ということなんだ。
高橋尚子の2時間20数分を、存分に楽しもう…。

そう思っただけでも、胸が一杯になる。

 

 

コメント (2)
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