僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ウダウダ・奈良巡礼記

2012年12月29日 | ウォーク・自転車

23日(日)、日本ウダウダ会の面々が寄り集まって今年最後の「歩こう会」を決行した。今回の行く先は、奈良の西寄りにある西大寺、平城宮跡、法華寺、唐招提寺、薬師寺などを巡るという、まことに知性と教養が溢れ出て、ぐしょぐしょになるかと思われるほどの行程であった。 

     

 

 

僕は、これらのお寺や遺構は、チラリと見たことはあってもゆっくり訪れたことはなかったので、今回のウォーキングは大いに楽しみだった。おまけに前日は雨模様だった天気も、この日はすっきりと晴れて快適なコンディションとなった。


今回の出席者9名、近鉄線の大阪難波駅に集合し、奈良線に乗って西大寺駅で降りた。本日のスタートは、まず駅名にもなっている西大寺だったけれど、僕らにとってはお寺より駅名、あるいは地名としてのほうが西大寺は有名だった。それどころか西大寺というお寺そのものがあることにすら気付かなかった始末だ。そんなことをしゃべっていると、「ウダウダの阿闍梨(あじゃり)様」と呼ばれるFさんが、「東の東大寺に対する西の西大寺や。東大寺を建てた聖武天皇の娘のナントカ天皇が西大寺を建てはったんや」と、解説をしてくれた。「な~るほど」と一同、深く納得。



 
   西大寺

 

西大寺の次は平城宮跡へ向かった。

2年前の2010年(平成22年)に平城遷都1300年を迎え、奈良市全域において数々の記念事業が行われたのは記憶に新しい。そのメイン会場になったのがこの平城宮であった。地上の構造物はないけれど、地下の遺構は良好な状態で保存されているという。しかしまぁ、この発掘というのがひどく大変な作業なんですよね。

 

 
   朱雀門

  

   

     平城宮中心部の配置図


それにしても広い。東西が約1.3km、南北が約1kmにも及ぶという。僕たちはその南門である朱雀門へまず行った。この朱雀門は1998年に復元されたもので、色鮮やかであった。門の前にボランティアの解説員さんがおられ、いろいろと説明をしてくれた。「平城宮というのは、いわばお役所です」「ここを囲む平城京に、そのお役人たちは住んでいました」などなど。

朱雀門でひとしきり説明を受けた僕たちは、そこから、真正面に小さく見えていた第一次大極殿の方へ歩いて行った。こちらは2年前の遷都1300年の時に復元されたというから、これまたピカピカの建物である。

 

 
   第一次大極殿へ向かうウダウダ仲間たち



 そのあと、遺構展示館に入り、そこにもまたボランティア解説員の方がおられたので、詳しいお話を聞かせてもらった。

平城宮の見学には思いのほか、長い時間がかかった。とにかく広いところだから、中を歩くだけでも相当かかる。そのあと、法華寺へ行き、お参りだけして出た。「尼寺」と門のところに書かれてあった。



 
   法華寺


 

お昼を過ぎたので道端の食堂で昼食をとり、次のコースである唐招提寺と薬師寺に向かった。

  ………………………………………………………………………………

僕の好きな作家の一人、五木寛之氏に「百寺巡礼」という著書がある。10年前に、当時70歳だった五木氏が2年間で日本全国100の寺を巡る旅をしたときの記録で、1冊に10箇所のお寺が掲載され、全10巻のライフワークとなっている。(ちなみに五木寛之氏と「暴走老人」こと石原慎太郎氏は、生年月日がまったく同じである。分野は違うがお2人とも80歳で、実にお元気なことである)

さてその「百寺巡礼」の第一巻が「奈良」である。そこに、唐招提寺も薬師寺も載っている。

僕たちはまず唐招提寺へ行った。ここは鑑真和上のお寺である。

高校生の頃、井上靖の「天平の甍」を読み、唐から何度も日本への渡航を試みるが暴風に妨げられて挫折を繰り返し、しかも失明までして、それでもついに来日を果たす鑑真の物語は今も忘れ得ない読書体験として心の中に刻まれている。その鑑真が奈良に来たのちに建立したのが唐招提寺だった。


 

 
  唐招提寺の奥にある鑑真和上の墓所



五木寛之氏は「百寺巡礼」の中でこう記している。

「唐招提寺は私が大好きな寺の一つだ。これまでも何度か訪れたことがあるが、境内の自然の美しさや堂宇の魅力とともに、独特の風格のようなものを感じさせるお寺だ」

そして、お寺の中を奥へ歩いて行くと、広くて立派な鑑真和上の墓所がある。またその途中に、北原白秋の歌碑もあった。五木寛之氏はこの本で、白秋についても詳しく書いている。白秋は、唐招提寺を訪れて数多くの歌を詠んだという。

白秋は晩年、病気と失明の危機に襲われ、残り少ない自分の人生と向き合いながら創作への努力を続けるのだが、その支えとなったのが、唐招提寺で出会った両目を閉じた鑑真の像だったそうだ。

白秋の歌碑は、

水楢(なら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ

というものであった。

 


 
  北原白秋の歌碑



唐招提寺といえば、まず金堂が有名である。お寺の入り口でもらったパンフレットにはこう書かれている。

南大門を入り、参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の威容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。


 
  唐招提寺金堂


ところで五木寛之氏の「百寺巡礼」では、唐招提寺拝観の中心でもあるこの金堂が解体大修理の最中で、「南大門に立つと見えるはずの金堂の代わりに、巨大な銀色の建物が目に飛び込んでくる。まるでジャンボジェット機の格納庫のようだ。金堂はすっぽりその建物に覆われている」と描写されていた。

これは唐招提寺が建って1200年ぶりの大修理だったという。「百寺巡礼」は今から10年前のことだから、その中で五木氏は「すべての解体修理が終り、金堂が私たちの前にふたたび美しい姿を現すのは平成21年の予定である」と書かれていた。あぁ、よかった。今日は当然のように見えている金堂も、数年前までは見られなかったわけで、これはなかなか幸運だった。

…とそこまではよかったのだが、このあと、薬師寺へ行って、今度はこれと正反対の現象に出くわすことになるとは…

薬師寺の魅力は2つの塔である…と五木氏は書いている。「この光景を見ると、薬師寺に来たという感じがする。2つの塔のコントラストと調和が、この寺のいちばんの見どころかもしれない」

この時は「新しく華麗な西塔と、古びて貫禄のある東塔」という描写がされていたけれど、なんとまあ、僕らが薬師寺にむかって歩いている途中で、前方にその塔の風景が見えてきた時、塔はひとつだけで、もうひとつは「巨大な銀色の建物」にすっぽりと覆われていたのである。どうやら、「百寺巡礼」で書かれていた「古びて貫禄のある東塔」が、ただいま修理中なのであった。とほほ。


 

  
   薬師寺の前。見えるのは西塔だけ…

 

薬師寺の前まで行ったものの塔が工事中では弾む心もしぼんでしまい、中に入るのは次の機会にしようということになった。ただ、薬師寺といえば必ずといっていいほど出てくる写真が、大きな池からの美しい遠望である。仲間のSさんが「池の向こう側からぜひ薬師寺の姿を見たい」と言うのでそれに付き合うことにした。道に迷いながら、かなり歩き、ようやくその池の対岸にたどり着いた。そこにはパンフレット等に載っているとおりの薬師寺の遠望があった。

しかし…


 
  本来の薬師寺の遠望(資料写真より)。

           ↓


  
  
ところが、今はこうである。なんだかねぇ…


やっぱりこれではどうしようもない。
「東塔が修復されたらもう一度、この場所に来よう」
その言葉を最後に、僕たちは帰途についた。

で、いつ東塔の工事が完成するのかというと…2018年だという。

…忘れてしまいそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
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