僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

足を引きずりながら思ったこと

2012年12月05日 | 思い出すこと

土曜日に左足の膝を打撲し、その日の午後と日曜日は、せっせと患部を消毒したり薬を塗ったりして傷口を保護しながら、湿布薬を貼ってなるべく安静にしていた。膝のすぐ下のあたりをちょっと触るだけでズキンと痛むし、曲げても痛い。ただ、じっとしている時はもちろんだが、左足を伸ばしたままで右足に体重をかけてゆっくり歩けば、ほぼ痛みはないので、その点はなんとか救われた。

心なしか傷のまわりが腫れているように感じたが、気のせいかも知れない。右の膝をなでて左の患部と比べてみるけれど、腫れているようでもあり、どちらも同じようでもある。なんとも頼りないことだ。

そうこうしているうち、月曜日になったので、近所の〇〇外科クリニックへ行くことにした。骨に異常がないかどうかを調べてもらわなければならない。たぶん大丈夫だと思うけれど、大事をとるに越したことはない。

左足を曲げると痛くて自転車には乗れないので、ぼちぼちと歩いて行った。めざす医院までは約1キロだ。途中でじわ~っと痛みが出始めたので、さらにゆっくり、あえて左足を引きずるようにして歩いた。背後から腰の曲がったお婆さんが、よろよろと歩きながら、僕を追い抜いて行った。

この外科クリニックへ行くのは、ほとんど初めてである。

「ほとんど」というのは、実は若い頃、サイクリングをしていて、スピードを出し過ぎ転倒し、額を血まみれにしながら駆け込んだのがこの外科クリニックだった。つまり、これまでに一度だけ行ったことがあるのだ。

それ以来、外科というものにはあまり縁がなく、この医院にも行っていない。いったいどれくらい経つのかと記憶をたどってみたが、どう考えても30年以上昔のことである。それでも、外科というとここを思い出すので、こうしてトボトボ歩いて向かっているのだ。

昔のことを思い浮かべながら、ようやくその外科クリニックに到着し、さらに長い間待たされたあと、診察室に呼ばれた。

「どうしましたか…?」と診察室で、60歳くらいの医師が尋ねた。

「はぁ、実は…」と、自転車に孫を乗せようとして転倒したことを説明し、左足のズボンをめくり上げると…。いきなり「このへんですか?」と、かさぶたになりかけている傷口のすぐ下をグイと押さえた。

「痛い、痛い、いた~~い」そこ、押さえんな~
ほんまに、無茶苦茶するで、このおっさん。

30年前と同じ医師なのだろうか? 年齢的にはそんな感じだ。まあ、そんなことはどうでもいいけど、いきなり押さえるなよ。まったくぅ。

「ではレントゲンを撮りましょう」
レントゲン室へ行き、2枚撮ってもらったあと、そこを出て待合に戻る。

月曜日だからか、もともと患者が多い医院なのか、待合室は大勢の患者で埋まり、座る場所もぎゅうぎゅう詰めである。見渡すと圧倒的にお年寄りが多い。

待合ソファの狭い空間を見つけて座ると、「どないしはりましたんや?」と、隣のおばあちゃんが僕に話しかけてきた。「自転車でこけたんですわ」と答える。「そら危ないわぁ。わたいもなぁ、もうこの歳やから自転車はよう乗らんけど、昔は自転車でようこけたわ」と身を乗り出す。そして、聞いてもいないのに、「わたいはなぁ、肩から腰から膝から…そこらじゅうが痛いんで、電気かけに来てますねんわ。それになぁ、このごろ、歯もぜんぶ抜けて…あんた、物が食べられしませんね。歯ほど大事なもんはないよ~。なにせ、物が食べられへんからね」そう言いながら、「ああ…、年とったら、あきまへんなぁ。あっちもこっちも悪うなって。ほんまにな、…あきまへん」と言って溜息をついた。

そして再び診察室に呼ばれ、先ほどのレントゲン写真の説明を受けた。

医師から2枚の写真見せられ、「骨に損傷はありませんね。どこもきれいですよ」と言われたときは、ホッと胸をなでおろした。もう少し上を打撲すれば膝の皿にヒビが入っていたかも知れないけれど、下だったからよかったようだ。まあ、不幸中の幸いだと思っておこう。

診察を終え、医師の指示通り、レーザー光線(といっても、鉛筆の先の丸いようなものを自分で患部にコツンと当てるだけ)と、低周波のリハビリを受けて、医院に着いてから約2時間後に、そこを出た。

左足を引きずってゆっくり帰途につきながら、また遠い昔に怪我をしたことを思い出した。今度はサイクリング中の怪我ではなく、職場の仲間で作った野球チームの練習中に、打球を追ってぬかるみに足を取られ、左足首をぐねったことを思い出したのだ。

僕は倒れたまま動けず、みんなに抱えられて一人の友人の車に乗せられた。土曜日の午後だったので、開いている医院が見当たらず、とりあえず家の近くの整骨院へ運び込んでもらった。

そこで応急手当をしてもらっているとき、そこから見えるテレビではプロ野球の中継が映し出されていた。ちょうど試合終了とともに、観客席からテープが乱れ飛び、選手たちが狂喜乱舞しているところだった。

今も忘れられないシーンである。

この時、僕が住んでいる大阪府藤井寺市を本拠地とする近鉄バファローズが、阪急ブレーブスとのパ・リーグのプレーオフに勝って、チーム創設以来初めてのリーグ優勝を飾った日だった。「お、やった~!」と、足首の痛みも忘れるほど、僕はテレビを見て興奮した。今、その試合をネットで調べると、1979(昭和54)年10月16日のことだった。僕が30歳の時だったんだなぁ…。

月曜日になって整骨院から病院に連れて行ってもらい、レントゲン検査の結果、足首が骨折していたことが判明し、1ヶ月間、仕事を休むこととなった。

そこで話はプロ野球に戻るが、あの日パ・リーグで優勝した近鉄は、当時「赤ヘル軍団」と呼ばれていた強豪広島カープと日本シリーズを戦った。仕事を休ませてもらっていたおかげで、当時は昼に日本シリーズが行われていたのだが、普通なら見られない平日の試合も全部テレビで見ることができたし、しかもその日本シリーズが、プロ野球史に残る名勝負だった。

3勝3敗で迎えた第7戦、広島が1点リードして迎えた9回裏、近鉄は無死満塁の絶好のチャンスを迎えた。一打逆転サヨナラ優勝である。しかし、広島の投手・江夏はここを踏ん張って0点に押さえ、広島が初の日本一に輝いたのである。今では伝説の「江夏の21球」と呼ばれた試合だ。

怪我のおかげで自宅でこの試合を見ることができた。仕事を休んで野球に興奮して…不謹慎かも知れないが、まあ、33年前のことだからお許し願おう。文字通り「怪我の功名」であった。

ところで、その骨折が自分の人生まで変えた…ということも、最後に書いておかなければならない。1ヶ月間、自宅療養をしていた僕は、こんな怪我をした自分の体の弱さに失望した。強い体を作りたい…という願望が日に日に膨れ上がっていた。

近くの大和川堤防をジョギングするようになったのは、その怪我がきっかけだった。やがてフルマラソンを完走できるまでになり、その後、タイムは遅いけれど、いろいろな大会に出て、「趣味は?」と聞かれて「走ることです」と答えられるようになった。走る喜びを分かち合う友だちにも恵まれ、その人たちとは今も親交が続いている。走ることを通じてとても素晴らしい経験を重ねてきた。

これも「怪我の功名」と言っていいだろう。

ところで、今回の左膝のこの怪我も、今後、何か良いことに繋がればいいのになぁ、と思う。

人間万事塞翁が馬…。悪いことがあれば良いこともある。その繰り返しが人生なんだと思うと、次は良いこと…あるかな?

 

 

コメント (4)
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