私の大切な恩師が難病に苦しんでいます。
数年前から、次第に全身が動かなくなり、今では、
一日中ベッドの上で、自らの身体を動かす事すら
出来ない程です。
私が出会った頃は、正に輝く存在であり、
誰もが憧れ、人生の師として心身ともに
偉大な方でした。
上京してからは、一年に一度ほどしかお会いできず、
時折電話から伝わる元気な声に、懐かしさと共に
相変わらずお元気で在られる事に胸をなでおろした
ものなのですが、数年前の病の発症が、これ程にも
悪化しているとは思ってもみませんでした。
誰でも年を重ねれば、思いがけない病を患ったり
想像しないアクシデントに見舞われたり
するものですが、若い頃に人一倍活躍した方が
往年に病に伏してしまうと、驚きと共に
人生の空しさと切なさを感じさせます。
私の年ごろとなると、周囲においても、何人も
旅立つ人が出て来るものですが、それ以上に
病を患ってしまう方が非常に増えてきます。
しかしながら、人は生き物であり、いずれ誰もが
この世を去らなければなりません。
解っているとはいえ、その日が次第に近づいたり
病に伏してしまうと、寂しさは一段と増し、
本人も周囲も、いたたまれない気持ちとなって
しまうものです。
身内や知り合いは、少しでも長く生きて欲しい
と言うのが、誰しも思う事でありますが、
こればかりは、運命のなせる業であり、私たちが
望み得ることとは言えません。
とは言うものの、人の人生は、高齢まで生き抜き
人生を全うするのが幸せなのでしょうか。
この世に生きている人には、残りの人生があり
それが長いか短いかは、後に残された人が決めると
言えます。また、素晴らしい人生であったか後悔の
人生であったかも残された人たちの主観で有ります。
旅立った後の悲しみは、残された人に有り、
旅立った人には有りません。
これらすべての感情は、あくまで、残された人たちの
心に在るものなのです。
私達人間は、様々な方法を使い、人生の長さを感じます。
日時を考え年月を考え、自分が生きている時代を定めます。
人々の人生の長さの尺度から、自分の人生の長さを計り
その生きざまに思いを募らせます。
しかし、どんなに生きようと、思いがけなくこの世を去ろうと
生まれてから死ぬまでの時間でしかないのです。
それが長いのか短いのかは、残された人の判断です。
動物は、生まれて死ぬまで、自分の生きている時間の長さを
考える事は有りません。
生まれてやがて死ぬまで、殆ど変わらない気持ちでいるのです。
人は、自分の生きざまを知る事に依り、生きている事の意味を
感じたがるものです。
具体的な月日、多くの出来事、それらを思い出し、意味を見出し
自分がこの世に存在した意味を知りたがるものです。
私が幼い頃、大災害で多くの人命が失われました。
同級生も近所の人たちも多くが一瞬にして命を奪われ、
残された我々は、言いようのない悲しさを感じたものです。
しかし、それは、あくまで残された我々の気持ちであり、
逝ってしまった人たちの思いでは有りません。
数百の亡骸が並ぶ小学校のグラウンドでなぜか涙も出ず
身元が分かった人から、次々に荼毘に付されても、
ただ感情もなく見守っている事は、悲しみに暮れる人と
同じ気持ちでも有るのです。
旅立った人達に対する思い、重い病に伏した師に対する思いも
人生の末期に対する我々の思いとして如何に感じ取るかは
人それぞれであり、如何なる態度で対処すべきと言う事を
強いるものではないのです。
誰もが悲しみを感じる態度を示すことが正義とするならば、
それは、残された人に対する思いであり、本当の思いは
外見的に見える悲しみの姿とは言えないのです。
かつて、まだ幼い頃に味わった余りにも多くの人々の死は
その悲しさを如何に表そうと、彼らが生き返る訳でもなく、
死という事実が無くなる事でも有りません。
私たち残されたものは、その事実を受け入れ、自分達の
残された人生を歩むしかないのです。
今の医学では回復は望めないとしたら、その現実を受け入れ
この世に存在する限り、心の関わり合いを絶やさない事が
生きている者同士の義務であり、その間に病は存在しません。
もう取り戻せない過去を惜しみ悲しんでも、取り戻せない
本人はもっと悲しいのです。
現実に於かれた状況を、お互いに受け入れ、いつもお互いを
感じ続けることが、まだこの世に生きている事の証と言えます。
ベッドから動けなくなって、数か月が経つようです。
様々な事情から、まだお会いする事が出来ません。
しかし、会う事が出来たとしても、私の気持ちは今と同じであり
師と共に過ごした頃と全く変わらないのです。
輝いていた頃の師とベッドに伏した師は、私には同じです。
例えどんなに風貌が変わっても、生きている限り同じなのです。
余りにも多くの人の死を目の当たりにしたからかもしれませんが、
これまで様々な方の旅立ちに遭遇した時も、涙が出る事はなく、
生前の思いと、亡骸を見た時の思いは何だ変わらず、静かに
次へのステージへ見送るだけでした。
多くの身内の方が泣き叫び、先立つ人を惜しんでも、なぜか
私の心は、静かで、ただ見守るのみなのです。
人の運命は、誰も知る事が出来ません。
この世を去るまで、どんな人生を送るのかは、それこそ
神のみぞ知ると言った感じです。
しかし、その人の人生は、どんなに短くとも長くとも、
その人に与えられた大切な人生なのです。
それを悲しいとするのか素晴らしいとするのかは、残された人々の
心の想いであり、人それぞれの思いであるのです。
今の時代にたまたま数十年間一緒に生きてるのであって、
時代時代の人は、同じ思いで人生を送っているに過ぎません。
今の時代に存在できたことに感謝して、一つしかない自分の人生を
どんな形にせよ終末を目指し生き抜くことを喜びとしたいものです。
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