ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

オストロベツへの旅 5

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 オストロベツの学校の記念室には、函館のパンフレットや絵葉書などが寄贈されており、それも飾ってありました。
(ゴシケーヴィチには関係なさそうな平安神宮の絵葉書もありました。でもまあ、ゴシケーヴィチをきっかけに日本文化のことも勉強しましょう、という学校側の意図は分かりますね。将来、日本文化情報センターからも日本のことが勉強になるようなものを寄贈することにしました。) 

 その中に高田嘉七さんがこの学校を以前訪問していたことが分かりました!
 高田嘉七さんは高田屋嘉兵衛から数えて7代目に当たる子孫です。
 高田屋嘉兵衛についてはこちらです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B


 高田嘉七さんがオストロベツを訪問した理由はちょうどそのときマリ村にゴシケーヴィチの記念碑が建つことになり、その除幕式に招待されたからなのです。
 この学校に展示されている日本の物も高田嘉七さんが寄贈したものが多いと思われます。
 残念なことに高田嘉七さんは昨年11月に亡くなられています。しかし今でもそして末永くこの学校で高田嘉七さんのオストロベツ、マリ村訪問のことが記憶に残ることと思います。
 

オストロベツへの旅 4

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これもやはり学校の記念室に展示してあったゴシケービッチが自分の人生の中で移動した航路などを地図で示したものです。
 地名の表記がベラルーシ語になっていますが、日本人でも理解できると思います。
 生誕地ははっきりしていませんが、ミンスクの父親がロシア正教の神父であったため、ミンスクの神学校に入学。成績優秀であったため、卒業生のうち2名しか枠がなかったロシア、サンクトペテルブルグの神学校への入学ができました。
 その後ロシア宣教師団の一員に指名され、陸路で北京へ。北京滞在中は中国語を勉強しましたが、このほかのアジア各国の言葉もかじっていたそうです。
 中国でのミッション終了後、ペテルブルグ(当時はロシア帝国の首都)に戻り、中国語ができる、ということでロシア外務省アジア局に入り、次は日本派遣使節団に中国語通訳として日本へ。
 アフリカの喜望峰を回るルートだったので、出発してから10ヶ月後にやっと日本へ到着したそうです。
 しかもゴシケーヴィチは船酔いになり、長期間の船旅にも関わらず、船の揺れに体が慣れることはなかったそうです。
 つまり船に乗るたびずっと船酔いに苦しんでいたということです。

 このときの日本への航海のようすは同乗していた作家のイワン・ゴンチャロフが紀行文『フリゲート艦パルラダ号』に記録しています。(日本語訳では『ゴンチャローフ日本渡航記』)
 そこにゴシケーヴィチも登場しますが、ゴンチャロフとゴシケーヴィチでは身分に差があったためか、ゴシケーヴィチが船酔いでいつも気分が悪かったせいか、この2人は10ヶ月の長旅にもかかわらず、あまり会話をしていません。
 しかもゴンチャロフはゴシケーヴィチのことをウクライナ人と誤解しており、紀行文『フリゲート艦パルラダ号』ではゴシケーヴィチの名前をヨシフではなく「オシプ」としています。
 オシプというのはヨシフのウクライナ表記です。
 そのため、オシプ・ゴシケーヴィチと思っている人もいるのですが、これはゴンチャロフの勘違いです。

 やっと日本に着いたと思ったら、地震による津波で載っていた船が大破したり、苦労続きの日本派遣使節団・・・。
 (詳しくはこちらをご覧ください。「戸田村(静岡県)」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E6%9D%91_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)


 戸田村の人は本当にすばらしい! 地震の被災者であったにも関わらず、沈没しかかったロシア船から乗組員を救助。さらには協力し合って船を建造するのだから、感動です。)

 この後もゴシケーヴィチはロシアへの帰路、イギリス船に拿捕され、9ヶ月も橘耕斎と船中に抑留されます。
 これはゴシケーヴィチが犯罪を犯した、ということではなく、当時、クリミア戦争が進行しており、イギリスはロシアと敵対関係にあったため、海上でロシア人を発見すると、イギリス船が捕虜にしていました。
 橘耕斎はロシア人ではなく日本人だったのですが、密航者だったので、怪しいということでイギリス船に乗せられたのです。
 しかし転んでもただでは起きないこの2人。
 ゴシケーヴィチと橘は言葉を教え合い、さらには和露事典までいっしょに作ってしまうのです。

 イギリスのせいで大変な目に合いましたが、やっとロシアに戻ってくると、今度は初代日本領事に任命されます。今回はシベリア経由で函館へ。
 任務終了後もシベリア経由でペテルブルグへ戻ります。

 しばらくペテルブルグで働いていましたが、慢性肺炎となり、気温が低く日照時間も短いペテルブルグでの生活が健康によくないから、という理由で退官。
 故郷のベラルーシへ戻ります。しかし生まれ故郷ではなく、なぜか(縁もゆかりもなさそうな)現在のオストロベツのマリ村で土地を購入し、家を建てて余生を過ごすことになります。
 どうしてゴシケーヴィチがマリ村を人生最後の場所に選んだのかはよく分かっていませんが、ゴシケーヴィチの妻がこの村の出身だったようです。
 ちなみにゴシケーヴィチの最初の妻、エリザベータは函館で亡くなっており、その墓が今でも残っています。
 マリ出身の妻というのは2番目の妻、エカテリーナです。
 
 とにかく60年の人生の中でどれだけの距離を移動しているのか・・・この地図を見ていると目が回りそうです。
 この行程を全部つなぐと、地球3周の距離になるそうです。
 
 静かなマリ村でゴシケーヴィチは「日本語の起源」という本を執筆しています。(しかし出版されたのは1899年になってから。死後24年も経っています。しかも出版されたの場所はロシアでもベラルーシでもなくリトアニア。この本はベラルーシ国立図書館で大切に保存されています。)

 それにしてもすごい人だと思います。私もゴシケーヴィチみたいな人になりたいよ・・・。(でも無理・・・。だいたい脳みそがちがうし、私にはこれだけの旅をする気力も体力もない・・・。)

 

オストロベツへの旅 3

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これも記念室のようすです。ゴシケーヴィチとともに日本へ航海したプチャーチンの写真や、橘耕斎と表した歴史初の本格的和露事典「和魯通言比考」の写真などが展示されています。
 今回スモリク先生といっしょにゴシケーヴィチの記事を書いて雑誌に掲載される予定です。共同執筆、ということになっていますが、私は日本人の氏名や地名のチェックをした程度で大したことはしていません。
 でもやはり調べて勉強しないといけないことがたくさんあったので、日本文化情報センター所属の文献を引っ張り出したり、ネットで探したりして、だいぶゴシケーヴィチのことがよく理解できるようになりました。
 
 前述のウイキペディアでもゴシケーヴィチのことを知ることができますが、私がすごいなあと思ったのは・・・
 初のロシア領事として日本へやってきて、ロシア領事館を建てた・・・というのは当然、と思うのですが、病院を作ってしかも日本人を無料で診察したり、ロシア語学校を作ったりしたことです。
 さらには子ども向けのロシア語の教科書「ロシアのいろは」の作成をバックアップして、400部(500部という説もあります)印刷して、日本人の子どもに配っています。
 また写真技術も伝え、洋服の作り方、パンの焼き方も日本人に教えています。
 昆虫の研究もしていて、サトキマダラヒカゲという蝶の学名はゴシケーヴィチに由来しています。
 さらに日本で最初(1858年)にクリスマスツリーを立てたのもゴシケーヴィチなのだそうです!

 こんなにさまざまなことを幕末の日本でしていたとは・・・!
 幕末の日本史と言うと、激動の時代でしたが、そんな中、どちらかと言うと外交面以外の分野でこのような活動をしていたベラルーシ人がいたんですね。
 もう少し日本史の勉強の中でゴシケーヴィチのことを日本の子どもにも教えてほしいものです。
(ペリーなどとちがってゴシケーヴィチのことは学校の教科書には載っていないし・・・。)
 
 確かにゴシケーヴィチは政治家でもないし、領事に選ばれたのも、言葉が分かっているからということで選ばれた(言葉の知識以外にも人柄により推薦された、という記録もありますが)ということですが、日本に来てから行ったことは、政治や外交の世界ではなく、一般人の中に溶け込むことばかりですね。
 だから一見地味に見えるのですが、ゴシケーヴィチが日本に与えた影響は実は大きいのではないでしょうか。
 日本人にももっと多くの人にゴシケーヴィチのことを知ってもらいたいです。

 そういうベラルーシでもゴシケーヴィチのことはあまり知られておらず(これも教科書に載っていない、あるいはロシアの歴史の範囲に入れられてしまうため)今回記事が掲載されるのも教育関連雑誌なのですが、これを通してまずベラルーシの教育関係者にゴシケーヴィッチの足跡を知ってもらいたいです。
 ベラルーシ出身で、しかもお金持ちの家庭に生まれたのではなく、自分の頭脳によって国際的な役割を担うことをした人がいたのだということをもっとベラルーシ人にも知ってほしいです。

 もっともこのオストロベツの学校で学んでいる子どもたちはゴシケーヴィチのことをよく知っているわけですから安心ですね。
 ゴシケーヴィチのような人がこの地からうまれてほしいです。

 (あ、ウイキペディアのゴシケーヴィチのページで「1862年9月20日(文久2年閏8月9日)にはロシア人としては初めて将軍徳川家茂に謁見を許される。」とありますが、ゴシケーヴィチはベラルーシ人なので、この表現はおかしいですね。)




 

オストロベツへの旅 2

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 オストロベツ地区にはいくつかの市と村があります。
 その中で中心地なのはオストロベツ市。そこにある学校「オストロベツ第1ギムナジア」の2階にゴシケーヴィッチ記念室がありました。
 実際には同じ部屋の中に「ゴシケーヴィッチ記念コーナー」「第二次世界大戦下のオストロベツ」「私たちの学校の歴史」といったいろいろなコーナーがありましたが、やはり一番目立っていたのはゴシケーヴィッチのコーナー。
 夏休み中にも関わらず、日本人が来ると言うのでわざわざ生徒さんが案内役をしてくれました。
 普段はベラルーシ語で展示物の説明をしてくれるのですが、私のためにロシア語でしてくれました。
 すらすらとゴシケーヴィチの生涯について話していて、とても慣れているなあと思いました。
 そしてゴシケーヴィチゆかりの地に住んでいることを誇りに思っているようでした。すばらしい!
 
 
 

オストロベツへの旅 1 

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 7月14日、ヨシフ・ゴシケーヴィチゆかりの地、マリ村へ行ってきました。
 ヨシフ・ゴシュケーヴィチは帝政ロシアの初代日本領事だった人です。
 4月にこのような記事を書き、ゴシケーヴィチの生誕地は、グロドノ州と書きましたが、間違いです。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/35cd5b2b5a7fb5f4ead9d35b4a06af9f


 ウイキペディアではミンスク郊外の生まれ、となっていますが、諸説あってはっきりしないそうです。
 生まれた年も1814年説と1815年説と二つあります。また埋葬された場所(お墓のあるところ)も確定していません。
 2014年は生誕200年に当たるため、さまざまな記念式典が開催される予定ですが、それに向けて、出身地や埋葬の地などはっきりさせようではないか、ということになり、現在ベラルーシの学者が中心に調査をしようとしています。

 ゴシケーヴィチの氏名の表記ですが、これもいろいろあります。(ゴスケウイッチとか・・・)
 ベラルーシ語表記からの転記だとヤゼプ・ガシケービッチになるのですが、ウイキペディアではヨシフ・ゴシケーヴィチとなっていますので、このブログでもこれからそのように統一します。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81


 ゴシケーヴィチが生まれたところは「ミンスク郊外(それ以上の詳細不明)」「ゴメリ州ゴシキ村」「ゴメリ州ヤキモヴァ・スロボダ村」と3つの説がありますが、まだ特定されていません。
 逆に人生最後の数年を過ごした場所ははっきり分かっています。
 それはグロドノ州オストロベツ地区マリ村というところです。
 ミンスクから車で片道2時間、ベラルーシ国立文化芸術大学の文化学の教授で、ゴシケーヴィチのことを研究しているスモリク先生のお誘いを受け、マリ村へ行くことになりました。
 まずはオストロベツへ出発です。

 これはオストロベツ地区役所の公式サイトです。

http://ostrovets.grodno-region.by/

 
 英語バージョンもありますが、ロシア語バージョンのほうが情報も多いし、画像がたくさん見られます。
 リトアニアの国境のすぐそばで、小さいけれどきれいな町でした。

 画像はオスロトベツ地区役所です。当日は雨で天気が悪かったのですが、午後は少しずつよくなっていきました。
 スモリク先生が地区役所(という表現が分かりにくいのですが、日本で言えば、この地区と言うのは郡、と表現するほうがいいかもしれません。)の文化部門担当者のナタリヤさんに事前連絡しておいてくれたので、まず地区役所に向かいました。

 ナタリアさんが地区役所のすぐ近くにあるギムナジア(11年制の学校ですが、1年と5年、10年のときに入学試験を受けて合格すると通学できる学校です。)を案内してくれました。
 この学校に前から行きたいと思っていたのです。それはこの学校内にゴシケーヴィチ記念室があるとベラルーシ文化研究所のマラジス先生(この方もオストロベツ出身で、オストロベツ地区役所発行のパンフレットに言葉を寄せていました。)から教えてもらっていたのです。


チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第136回」

2012-07-12 |   ビタペクト配布活動
 7月9日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第136回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクト3を14個、そして「放射能と栄養」のコピーを10部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は1927個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは1750部となりました。
 今回で通算147回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、1927人の子どもにビタペクトを、1750家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a



(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a



 今回はゴメリ市(チェルノブイリ原発から約140キロ)に住む2家族がSOS子ども村に保養滞在していました。どちらもゴメリ市にある多子家庭と障害児を支援する会の会員の子どもたちです。
 そしてこの2家族は同時に去年SOS子ども村に保養滞在していました。家族Bのおばあちゃんがこの会の会長さんです。
 そのときのようすはチロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第119回」をご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/be91b4b095d42e0057e927e3050576ee



(家族A)

 お母さんが2人の娘や親戚の子どもなど7人の子どもを引率していました。この家族には7個のビタペクト3を渡しました。 
 この家族は2010年にもSOS子ども村に滞在したことがあります。そのときのようすは、こちらをご覧ください。
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第104回」(家族A)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/4996cd66afa6da48c0351b85ebdb0909


 また次女と三女は2009年9月にも、祖母に引率されてSOS子ども村に保養滞在していました。そのときの様子はこちらの記事をご覧ください。チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第96回」(家族A)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/f09ebd298248eb3f7f5c1299bdf04770


 それぞれの体内放射能測定結果はこのとおりです。特別に表記がない場合は2010年6月の結果、と2011年6月、2012年7月の結果を表示してあります。○印の子どもにビタペクト3を渡しました。

母親(事故発生時14歳)9ベクレル → 10ベクレル → 16ベクレル
次女(16歳)29ベクレル(2009年)○ → 27ベクレル(2011年)○ → 32ベクレル ○ 
三女(14歳)23ベクレル(2009年)○ → 22ベクレル(2010年)○ → 34ベクレル(2011年)○ → 35ベクレル ○
姪  (6歳)23ベクレル ○ → 30ベクレル ○ → 37ベクレル ○
甥  (7歳)36ベクレル(今回初測定)○
姪  (5歳)32ベクレル(今回初測定)○
男子 (8歳)22ベクレル(今回初測定)○
男子 (8歳)36ベクレル(今回初測定)○

 このうち7歳の甥と5歳の姪は兄妹で、住んでいるところはジロビン(チェルノブイリ原発から約170キロ)です。
 甥はよく風邪をひき、また足にあざがあります。姪も体が弱く、頭にあざがありますが、そこからは毛が生えてこないので、髪型でごまかしているそうです。(私は全く気がつきませんでした。)

 次女も三女も心臓が弱く、三女は慢性胃炎も患っています。次女は背骨の湾曲が直らず身体障害者認定を受けたそうです。
 22ベクレルの8歳の男の子も親戚ですが、風邪をよくひきます。
 36ベクレルの8歳の男の子はよく発熱するため、しょっちゅう病院に行っているそうです。

 毎年のようにビタペクトを飲んでいる子どももいますが、体内放射能値に変化はなく、増加している子どももいます。残念な結果でした。
 ゴメリは汚染地域なので、住み続けている場合はやはり1年に2、3回ビタペクトを飲むほうがいいのではないかと思いました。しかしビタペクトは現在薬局では販売されていないので、入手は難しいです。ビタペクト3はチェコからの輸入になったので、値段も高く
「とても子どもたち全員に買えない値段です。」
とお母さんたちは話していました。

 こういう結果が出ると決まって
「子どもたちに何を食べさせたんですか?」
という話になるのですが
「店で買ってきたもの。」「森の中のビルベリー食べちゃった・・・。」
という返事が返ってきます。そして
「食べる物すべて測定できない。」「店で売っている物は信用する、しないに関係なく、買って来て食べるしかない。」
といった話になります。
 
 お母さんは以前会った時目の端に水泡ができているのに気がついていたのですが、今回その数が増えて、大きさももっと膨らんでいたので、びっくりしました。
「病院に行ったほうがいいですよ。」
と言ったのですが
「子どもの病気のほうが先で、いつも自分のことは後回しにしているので、まだ病院で診てもらったことはありません。」
と言うことで、病名も分からないそうです。
 痛くはないそうですが、もしかしてこれも被曝のせい? と心配になりました。 
 

(家族B)
 おばあちゃんが孫など、7人の子どもを引率していました。この家族には7個のビタペクトTを渡しました。 
 それぞれの体内放射能測定結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクト3を渡しました。

祖母(事故発生時28歳)14ベクレル → 15ベクレル
孫  (4歳) 0ベクレル → 25ベクレル ○
女子(12歳)16ベクレル ○ → 15ベクレル
男子 (7歳)19ベクレル ○ → 37ベクレル ○
女子(12歳)33ベクレル ○
女子(12歳)28ベクレル ○
男子(12歳)22ベクレル ○
女子(10歳)29ベクレル ○
女子(10歳)27ベクレル ○


 このうち7歳の男の子はブダ・コシェリョフの近くの町(チェルノブイリ原発から約150キロ)エレネツに住んでいます。
 12歳の女の子で今回初測定の2人はいとこ同士です。
 33ベクレルの12歳の女の子と12歳の男の子は風邪をよくひきます。
 28ベクレルの12歳の女の子は慢性胃炎。(最近弟が亡くなったそうで、心身ともの保養のため選ばれたそうです。)
 29ベクレルの10歳の女の子は膵臓に異常があります。
 27ベクレルの10歳の女の子はレチッツァ(チェルノブイリ原発から約110キロ)に住んでいます。血液に異常が見つかり、秋に再検査するそうです。
 15ベクレルの12歳の女の子は静脈に異常があるそうです。

 持病を抱えている子どもが多いのですが、海外への保養や国内でのサナトリウムなどには行っていないのですか? と質問すると
「海外へはコネがないと行けない。国内の療養所や保養所は経済危機のせいで、食事の内容など質が低下したので、効果があるとは思えない。」
という会長さん(おばあちゃん)のお話でした。
 そんななかでSOS子ども村へ行けて私たちは運がいい、と話していました。

 会長さんは放射能値の高さに心配していました。私が
「ゴメリ市の第1診療所にもWBCがあるから、再測定に行ってみたらどうでしょうか?」
と話したら、家族Aのお母さんは
「私はその診療所の近くに住んでいますが、WBCで測定したいと言うときまって『故障中』とか『調整中』とか言われて、測定を受けたことがありません。」
と言っていました。(どうなっているんでしょう・・・。)
 医者によっては
「体内の被曝量など知らないほうがいい。」
と言う人もいるそうです。困ったものです。せっかく測定できる環境の中にいるのに・・・。

 画像は記念撮影の様子です。(保養とは関係のない子も1人写っています。)
 女の子で1人、お母さんがミンスクに用事でやってきたので、ついでに娘の顔を見に来た、ということで、この画像を撮影したときにはもし水入らずで、別の場所に行っており、写っていない子どももいます。
 
 子どもたちとお母さんには折り紙用の紙、折鶴、アクリルたわしなどをプレゼントしました。
 また今回は日本から届いた「ペコちゃんぺろぺろキャンディー」もプレゼントされました。(これに一番喜んでいました。)(^^;)日本のお菓子なんて食べたことないですからねえ。
 また日本についてのお話や、浴衣で踊りの披露など、日本の紹介もしました。(漢字にはびっくりしていました。)
 
 最後になりましたが、ビタペクト3の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙や手作りのアクリルたわし、キャンディーなどプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に、深くお礼申し上げます。
 多くの方々に支えられて、この活動が続いています。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

ヤンカ・クパーラの故郷 7

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 民芸品を売るお店の中にまじってお人形を売っている店がありました。しかもその場でお人形手作り体験会ができるのです。(材料費を払うとお人形の作り方をその場で教えてくれる。)
 これ、見たことがあるような人形・・・
 そうです。リューバニで見た布人形です。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/m/201204


 伝統的なベラルーシの人形の作り方を目の前で教えてもらえるとは・・・!
 ということで、うちの子に作り方を習ってもらいました。(自分では習わず、子どもに覚えておいてもらい、後で教えてもらおうという狙い。)(^^;)

 無事うちの子も人形が作れました。大喜びです。
 こういう素朴なお人形がかわいいですね。若い世代にも伝統文化を継承していかなくては、と思いました。

 ヤンカ・クパーラの故郷に行ってこのような体験ができ、本当によかったです。
 
 

ヤンカ・クパーラの故郷 6

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 7月7日はこのようにたくさんの人でいっぱいでした。
 普段は生家記念館がオープンしているだけなのですが、ヤンカ・クパーラの誕生日にはお土産物(ほとんどベラルーシの民芸品。「クパーラまんじゅう」とか「ヤンカせんべい」といった日本人的発想のお土産はありません。)などを売る露店がたくさん出ていました。
 
 

ヤンカ・クパーラの故郷 5

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 ビャズィンカ村にはごく普通の住民ももちろん住んでいるという村です。
 (しかしこのお祭の日に行くと観光客だらけで、一般住民が住んでいる場所がどこなのか分かりませんでした。)(^^;)
 ヤンカ・クパーラが生まれたところ、ということで有名になった村と言う感じです。(これが日本だったら、これで村興しするんだろうなあ・・・。)
 普段は静かで、観光客も少ないそうです。そのほうが心静かにクパーラの子ども時代に思いを馳せたり、作品の世界の中に浸れたりするかもしれません。
 
 画像に写っているのは、ベラルーシの伝統的な遊び道具だそうです。昔は縄をつるしてそれにぶら下がって回って遊んでいたのが、後にきれいなリボンに変わって、リボンを持って踊ったり、あるいはこのようなお祭のときの飾りになったりしているそうです。
 

ヤンカ・クパーラの故郷 4

2012-07-09 | ベラルーシ文化

 今回のヤンカ・クパーラの故郷訪問にはもう一つ目的がありました。
 生誕130年を記念して、(図書館勤務という身分上、業務命令により)(^^;)クパーラの詩を日本語に翻訳したのですが、それをせっかくなので、生家記念館のほうに寄贈しようという目的です。
 生家記念館へ持っていくと、とても喜んでくださって、記念コンサートのステージ上で朗読してほしいと頼まれました。
 画像は私がたったの2作品ですが、ヤンカ・クパーラの詩を朗読している様子です。
 巻物のようなものを持っていますが、少しでも日本らしくするため、筆で清書してみたものです。

 翻訳した2作品というのは「А хто там ідзе? 」と「Спадчына」いう詩です。
 どちらもヤンカ・クパーラの代表作です。前者は「あそこを行くのは誰だ」後者は「祖国」と訳してみました。
「А хто там ідзе?」はとても有名な詩なのですが、数年前ヤンカ・クパーラ記念館が、この詩を50ヶ国語に翻訳した本を発行しているそうです。一つの本に一つの詩とその翻訳しか載っていない、という本ですが、その中に
「日本語訳もあった。」
と生家記念館の方が言っていました。

 ちなみにヤンカ・クパーラの詩はマクシム・バフダノヴィチのように短歌形式では訳していません。(それができたら私は自分で自分のことを天才だと思いますよ・・・。)
 普通の現代詩(自由詩)の形式にしています。ただベラルーシ人をはじめ、多くの言語では詩というのは音韻をふんでないと詩ではない! というのが常識になっています。
 がんばって、日本語訳も音韻をふんでいるように訳したけれど、どうでしょうかねえ。ベラルーシ人からすると日本語のクパーラの詩は美しく聞こえないと思います。(そもそも翻訳がオリジナルを超えるのが難しいですね。)

 でも訳していて感じたのですが、ヤンカ・クパーラは外見は優しそうだけど、詩の中身はかなり情熱的なんです。(感情的ではない)
 外見と違って心の中に燃えるようなものを持っていた人だったのかな、と思いました。

 そしてヤンカ・クパーラを訳すのは実はとても難しかったです。
 言葉がベラルーシ語の中でも古いんですよ。今回の翻訳作業でも普通の辞書で調べても載っていない言葉が一つあって、ベラルーシ人に聞いても、人によって説明がばらばら・・・
 日本語で言うところの古語辞典も必要で、ようやく古いベラルーシ語の言葉だと分かりました。

 だから翻訳もできたのですが、こんな詩を書いていたヤンカ・クパーラの頭の中はどうなっていたんでしょうか。ベラルーシ古語が脳の中で跳びはねていたにちがいない・・・。
 そうとうベラルーシ語を勉強していたんだなあ、と思います。

 とにかくヤンカ・クパーラとヤクブ・コーラスの登場で、ベラルーシ近代文学というジャンルやベラルーシ文章語がきちんと誕生したわけで、その後のベラルーシ語、ベラルーシ文学の発展に大きく寄与したのもうなずけます。
 


ヤンカ・クパーラの故郷 3

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 これはビャズィンカ村にあるヤンカ・クパーラの胸像です。
 子どもたちも大喜びで、記念撮影するほど人気者のヤンカ・クパーラ。
 学校で勉強しますからね・・・。うちの子の通っていた幼稚園には壁にヤンカ・クパーラの肖像画が貼ってあったぐらいです。(参照記事)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/05b63aa93dfc710147271b33525d9af7


 それにヤンカ・クパーラは、どの写真を見ても肖像画を見ても、外見がとにかく優しそうですよね。
 生家記念館の人の話によれば
「ヤンカ・クパーラは口数が少ないほうで、物静かな性格だったそうです。」
ということでした。
 とても紳士的なイメージ。もともとは(こう言っては誤解を招きそうですが)特別、知的階級の出でもなく、ベラルーシによくあるこんな小さな村に突然、このような天才が生まれた、というのが興味をひかれるところです。
 生家記念館でクパーラの直筆ノートの写真も見ましたが、すごくきれいな字で几帳面そうでした。

 話が飛びますが、平凡社から「ロシア・ソ連を知る事典」というものが刊行されており、その中でもヤンカ・クパーラが紹介されています。
 これが私が初めてヤンカ・クパーラについて日本語で読んだ紹介文だったのですが、それによると「自殺した」とはっきり書いているのです。
 私が持っているのが1989年発行の初版第3刷なので、もしかすると、ここの記述は変更されているかもしれません。
 しかし、私の頭の中には「クパーラは自殺した」というイメージができてしまい、その後ベラルーシへ留学しました。
 留学中にベラルーシ人(大学の先生も含む)に
「ヤンカ・クパーラって自殺したんですよね。(残念)」
と言うと、
「えっ!?」「そうなの?」「自殺???」「聞いたことないけど。」「日本ではヤンカ・クパーラは自殺したことになってるんですか?!」「あれは事故でしょ?」「自殺なんかじゃなーい! (キリスト教では自殺は大罪なので、偉大な詩人のイメージにそぐわない)」「そう言われれば自殺かも・・・。」
などの反応が返ってきました。(一番多かったのは「そうなの?」)

 それでだんだん私の頭の中のイメージも「クパーラは自殺したのではない」に変わっていきました。
 前述のウイキペディアによれば
 「彼はホテル・モスクワ内にて階段井戸から転落し、原因不明の死を遂げた。この死に関して、公式には偶発的なものであると発表されているが、自殺または暗殺の可能性があるとする憶測を主張する者もいる。」
と、結局よく分からない、という表現になっています。

 ビャズィンカへ連れて行ってくれたベラルーシ人の友人は
「自殺に見せかけた暗殺説」
を主張し、道中その根拠を語ってくれたのですが、それを聞いた限りでは、これが一番自然に聞こえました。
 ウイキペディアでは「階段井戸」となっていますが、実際にはホテル内の螺旋階段です。
 どっちにしろ、泊まっているホテルで自殺しようと思って階段から飛び降りる・・・発想にはなりにくいと思うのですが。窓から外へ転落したのならまだ分かるけど・・・。

 とにかくヤンカ・クパーラを紹介するときに「自殺した」という断定的な表現を使うのは、やめておいたほうがいいと思います。
 (平凡社はロシア語の文献をそのまま訳したのだと思いますが、もともとの文献のほうが断定してしまっているわけです。何か意図でもあるのか・・・。)
 

ヤンカ・クパーラの故郷 2

2012-07-09 | ベラルーシ文化

 ビャズィンカ村にはヤンカ・クパーラの生家を記念館にして保存しています。
 駅からその記念館のほうへ行こうとすると、生誕130周年の日だけあって、民族衣装を着た合唱団がお出迎え。
 大変盛り上がっています。

 この一本道を下っていくと、生家記念館にまっすぐ行けます。
 ウイキペディアによると、ミンスク市内にヤンカ・クパーラ博物館があり、現在に至るまでベラルーシ国内随一の文学博物館となっている・・・となっていますが、これは間違いですね。
 このブログでもご紹介したように、マクシム・バフダノヴィチ記念館や、ヤクプ・コーラス記念館もベラルーシ国内にはあります。(みんなベラルーシ文学者です。)
(ミュージアム・・・つまり博物館ですが、人物に関しては博物館ではなく、記念館と訳すほうがいいと思うんですが・・・。)
 またミンスク市内にはヤンカ・クパーラ劇場、ヤンカ・クパーラ公園などもあります。

 ヤンカ・クパーラの生家記念館はミンスクにあるヤンカ・クパーラ記念館の分館の一つになっており、管理運営されています。
 ヤンカ・クパーラ記念館のサイトはこちらです。(英語バージョンもあるけど、ベラルーシ語バージョンのほうが画像が多いですな。)

http://kupala-museum.by/?page_id=308


 このサイトの中にビャズィンカの生家記念館についてのページもあります。(私が撮影した画像より、このサイトの画像のほうが分かりやすいのでご紹介します。)

http://kupala-museum.by/?page_id=401


 このように生家記念館の中にはヤンカ・クパーラの作品や写真、暮らしていた当時の生活を偲ばせる生活用品などが展示してあります。
 中に入ると、玄関のような小さい部屋(ここでパンフレットなどを売っています。)のほか、比較的大きい部屋が3部屋あり、さらに家の裏手にかつて食料保存部屋(と言うより室)として使っていた場所があるという小さい家でした。
 実際には同じ村の別の場所にあったのを現在の場所に移築して、記念館にしたそうなので、実際にはすぐそばに家畜小屋などもあったと思われます。

 ヤンカ・クパーラは6人兄弟の末っ子として生まれ、家は裕福なほうではありませんでした。しかしもっと苦しい生活をしていた農民が村に住んでおり、この生家の一部屋はある一家(つまり持ち家もないようなもっと貧しい一家)に間貸ししていたそうです。
 部屋が3部屋しかないのに、一部屋は他の家族に貸していて、自分たちは8人家族・・・かなり狭苦しかったのではないかと思いました。

 ちなみに間借りしていたほうの一家の子孫が生誕130周年に招かれてビャズィンカ村に来ていました。
 現在はベラルーシやポーランドで暮らしているそうです。
「わたしのおじいさんから聞いた話では、ヤンカ・クパーラは・・・」
といった話をインタビュー取材で話していました。
 何だかすごいですね。自分の先祖が間借りしていた部屋が記念館になって保存されているというのはどんな気持ちなんでしょうか。
 


ヤンカ・クパーラの故郷 1

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 7月7日は日本では七夕ですが、ベラルーシではクパーラ祭というお祭の日です。
 クパーラ祭について詳しくはHP「ベラルーシの部屋」でご覧ください。

http://belapakoi.s1.xrea.com/blife/0707.html


 そして今年から130年前の7月7日にベラルーシ文学者であるヤンカ・クパーラが生まれました。
 ヤンカ・クパーラについてはウイキペディア日本語版でもちゃんと紹介されているので、ぜひご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A9


 ちなみに、クパーラ祭というのは、文学者ヤンカ・クパーラのお祭ではありませんので、誤解なきよう・・・。
 本名、イワン・ドミニコビッチ・ルツェビッチさんがペンネームを考えたときに
「自分はクパーラ祭の日に生まれたから、それをペンネームにしよう。」
と考え、ヤンカ・クパーラになっているのです。

 さて、ウイキペディアによりますと、「1882年7月7日、ミンスク州マラジェチナ地区近郊のFolwark(農奴制農園事業主)の治める村落に生まれる・・・」とあります。これはビャズィンカという村で、ミンスクから電車で1時間ぐらいのところにあります。
 そして私は7月7日ヤンカ・クパーラ生誕130周年でにぎわうビャズィンカに行って来ました。

 ビャズィンカ駅に到着すると、目の前にこのような立て札が・・・「ビャズィンカ村はこっち」という意味ですね。
 それにしたがって道を進んでいくと・・・