ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ゴシケーヴィチの感光板は同志社大学で保管されていました! (追加情報あります)

2014-08-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 今年はゴシケーヴィチ生誕200年の年で、日本文化情報センターとしてもゴシケーヴィチのことを調べていたのですが、多くの方々のご協力により、ゴシケーヴィチが撮影のため使っていた感光板が同志社大学で保管されていたことが分かりました。
 写っているのは同志社大学創立者である新島襄(当時21歳)です。
 
 以前「ゴシケーヴィチ関連情報をありがとうございました!感光板について」という投稿記事で、新島襄をゴシケーヴィチが撮影した写真が、同志社大学に保存されており、その感光板は北海道の写真家、桑島洋一さんからロシアの作家グザノフの手に渡り、さらにロシアの博物館に寄贈されたらしい、とご報告しました。

 その後同志社大学社史センターに問い合わせたところ、紙焼きした写真はないという回答でした。
 保存されていたのは感光板そのものだったのです!
 当時の感光板はガラス板(ガラス湿版)を使用していましたから、割れないようにしっかりした木枠にはまっていますが、そのとおりの保存状況でした。

 このことはベラルーシでは知られていませんので、ベラルーシの新聞紙上で発表されることになりました。同社社社史センターは感光板そのものをデジタルカメラで撮影したカラー画像の使用許可を出してくれました。
 この画像とともに新聞に記事が載ります。掲載されましたら、このブログ上でもお知らせしますね。

 さて、ここで気になるのは、ロシアへ渡ってしまったという感光板のほうです。
 
 同社社社史センターが保管している感光板と、グザノフ著「白ロシアのオデッセイ」の中で桑島さんが手にしている「新島襄が写っている感光板」なのですが、形や入っている木枠の形状が異なります。
 
 新島襄が写っている、しかも全く同一の写真をそこから起こすことのできる感光板が2枚存在するのはおかしいです。

 他に分かったのは、新島襄が父宛に送った手紙の内容などから推測すると、1864年6月11日に函館のロシア領事館で写真撮影会が行われ、写真を撮ったのは、ゴシケーヴィチ本人だった。しかし当時の日本では印画紙などもなかったので、写真を紙焼きすることが困難だった。なので、ゴシケーヴィチは撮影会終了後、感光板そのものを被写体になった人々に手渡した。
 3日後の6月14日に新島襄はもらった感光板に手紙を添えて、江戸の父宛に郵送した。
 父は大切に保管。死後同志社大学で保管されることとなる。そして現在に至る。

 ・・・と考えるのが常識的だと思います。
 なのに、どうして1枚しかないはずの感光板がもう1枚存在し、北海道在住の写真家、桑島さんが所有していたのでしょう???
 このあたりのいきさつをおききしたかったのですが、ご本人がご高齢で回答は得られませんでした。

 桑島さんには申し訳ないし、あくまで私の予想ですが・・・桑島さんが手にしていた感光板には新島襄ではない人が写っていたのではないでしょうか。
 
 そして同志社大学で保管されていた感光板は本物のゴシケーヴィチ撮影の新島襄だと思います。
 ともかくゴシケーヴィチゆかりの物が日本で大切に保存されていたこと、ベラルーシ人にとっては大変うれしいニュースだと思います。

 ベラルーシの新聞紙上で紹介されること、今から楽しみにしています。  

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 以上は8月7日の投稿内容ですが、ここからは8月23日投稿の追加情報です。

 ゴシケーヴィチ撮影の写真について同志社大学社史センターから、詳しい情報を教えてもらいました。
 カメラマンの桑島さんはご高齢で、「白ロシアのオデッセイ」の著者はグザノフは亡くなっていますので、確認が難しいため、あくまで私の仮説なのですが、真相はこういうことだったのだと思います。

 やはり、ゴシケーヴィチが新島襄を撮影した感光板は1枚しか存在しない、と考えるのが妥当です。

 1864年6月、このガラス湿版である感光板を新島襄は手紙とともに父親に郵送しましたた。
 その後やがて同志社大学社史センターで手紙とともに感光板は保管されることになり、現在に至ります。
 1980年代、北海道の写真家桑島洋一さんがこのセンターを訪れ、ガラス湿板そのもののカラー写真を撮影を希望し、撮影許可を得てその場で撮影したことが、社史センターの記録に残っています。
 そのカラー写真を紙焼きして、ゴシケーヴィッチ関連の講演会で、手に持って紹介した桑島さん。
 さらにその様子が撮影され、「白ロシアのオデッセイ」に白黒写真で掲載されました。
 こちらを参照してください。
 これが白黒の写真であるため、手に持っている写真がカラー写真であることが私は分からなかったのです。

 この写真を自分の著作でグザノフ氏は説明を正しくは
「ゴシケーヴィチが撮影に使ったガラス湿板をさらにカラー写真で撮影し、紙焼きしたものを手にして語る写真家の桑島洋一氏」
と記述しないといけないところを、
「ゴシケーヴィチが撮影に使った湿板を見せている写真家の桑島洋一氏」としたために、今回のような誤解が起こったのです。

 グザノフは桑島さんから感光板ではなく、カラー写真をもらい受け、ロシアへ持って帰りました。
 桑島さんの手元にはこのカラー写真のネガが残っているので、いくらでも焼き増しができますから、ロシアへ写真を持っていかれても、困らなかったのです。
 グザノフはさらにそれをロシアの博物館に寄贈した・・・と桑島さんは私に言いました。

 一応私のほうからこの博物館に管轄である役場を通して問い合わせをしましたが、今のところ返事がありません。
 問い合わせの内容が「ガラス湿板はありますか?」だったので、「湿板? そんなのない。」と学芸員に思われているのかもしれません。
「ガラス湿板を撮影したカラー写真はありませんか?」だったらより正確だったと思います。
 
 今から質問し直してもいいですが、桑島さんが1980年代に撮影したカラー写真がロシアの博物館で見つかってもニュースにはならないですし、保存状態がどうなっているのか疑問です。
 
 以上が私の仮説ですが、たぶんこのような経緯があって、誤解していたのだと思います。

 真相は100%解明されたわけではありませんが、ともかくゴシケーヴィチが撮影に使った感光板、しかも新島襄が写っているものが日本で保管されていたのは、ベラルーシにとって大きなニュースです。

 ご丁寧に回答してくださった同志社大学社史センターの担当者様、日本国内で情報収集してくださった皆様に深く感謝申し上げます。
 (私はすごくすっきりしました!)
 

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第165回」

2014-08-18 |   ビタペクト配布活動
8月18日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第165回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクト3を12個、そして「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーを10部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2242個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2020部となりました。
 今回で通算180回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2242人の子どもにビタペクトを、2020家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a



(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80



今回はゴメリ市(チェルノブイリ原発から約140キロ)から2家族が自分の子どもと親戚の子どもを引率していました。


(家族A)

 ゴメリ市(チェルノブイリ原発から約140キロ)から来た家族。お母さんが自分の子ども1人と姪1人、多子家庭協会の子ども5人を引率していました。
この中で7歳の女の子1人だけがジロービン(チェルノブイリ原発から約170キロ)に住んでいます。
 この家族には6個のビタペクト3を渡しました。
 それぞれの測定結果はこのとおりです。
このお母さんが引率してきた子どもの中には2009年、2010年、2011年、2012年、2013年にも保養滞在した子どもがいます。過去の測定についても結果を表記しています。
 以前の滞在のようすはこちらをご覧ください。

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第96回」(家族A)

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第104回」(家族A)

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第119回」(家族A)

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第136回」(家族A)

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第155回」(家族A)


母親(事故発生時14歳)9ベクレル(2010年測定)→ 10ベクレル → 16ベクレル → 13ベクレル → 13ベクレル
三女(16歳)23ベクレル(2009年測定)○ → 22ベクレル ○ → 34ベクレル ○ → 35ベクレル ○ → 33ベクレル ○ →38ベクレル ○ 
姪  (8歳)23ベクレル ○ → 30ベクレル ○ → 37ベクレル ○    → 37ベクレル ○ → 27ベクレル ○
女子(14歳)16ベクレル(2011年測定)○ → 16ベクレル(2012年測定)○ → 11ベクレル
男子(10歳)35ベクレル ○
男子 (9歳)24ベクレル ○
男子 (8歳)21ベクレル ○
女子 (7歳)32ベクレル(2012年測定)○ → 26ベクレル ○

 子どもたちの健康状態についてお母さんにお話をうかがいました。
 三女は胃潰瘍を持っています。さらに2年程前から脱毛が始まりました。
 8歳の女の子も同じころ脱毛が始まり、現在この2人は薬による治療を受けています。
 10歳の男の子も数年前脱毛が始まりましたが、薬によって現在は治っているそうです。 
 脱毛という症状はSOS子ども村での聞き取り調査では聞いたことがなく、驚きました。
家族Bのお母さんも「私も6年前から毛が抜けるのが多くなって、朝起きると枕についた毛の多さにびっくりする。」と話していました。
 このお母さんの妹さんも33歳なのに、5年前から脱毛がひどくなり、円形脱毛症になっているそうです。
 お母さんたちの年齢はチェルノブイリ原発事故発生後生まれた世代ですが、事故が起きてから20年以上も経過した今ごろになって、毛が抜けるようになるとは思ってもいませんでした。ましてや子どもたちは事故後の生まれなのに、脱毛に悩むようになるなんて、やはり被爆が原因なのでしょうか?
 お母さんたちは地元の医者に脱毛の原因を尋ねましたが、はっきりした説明は全くなかったそうです。

 14歳の女の子は甲状腺の異常、鼻が常につまっている、足には静脈瘤ができています。
 9歳の男の子は胃炎持ちで、チック症のような症状が最近出ています。
 8歳の男の子はよく風邪をひき、埃に対するアレルギーを持っています。
 7歳の女の子は気管支炎によくかかります。すぐに注射をしないとよくならないそうです。


(家族B)

 お母さんが2人の実子と5人の子どもを引率してきていました。この家族にも6個のビタペクト3を渡しました。それぞれの測定結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクト3を渡しました。

母親(事故発生時6歳)29ベクレル 
長男(13歳)28ベクレル ○
長女 (2歳)21ベクレル 
女子(15歳)22ベクレル ○
女子(13歳)21ベクレル ○
女子 (9歳)22ベクレル ○
女子 (8歳)31ベクレル ○
男子 (6歳)25ベクレル ○

 13歳と8歳の女の子は姉妹です。
 子どもたちの健康状態ですが、長男は生まれつき心臓病だったため、5年前に手術を受けました。今はよくなっているそうです。
 長女は気管支炎によくかかり、生まれつき腎臓が肥大しています。
 15歳の女の子は慢性胃炎を持っています。
 13歳の女の子は腎臓病の手術をしたことがあります。
 8歳の女の子は6歳まで健康でしたが、急に慢性胃炎、止まらない咳、牛乳、小麦粉、埃のアレルギーが始まりました。さらに甲状腺にのう胞ができていることも分かりました。
 6歳の男の子は風邪をよくひきます。

 お母さんたちは二人とも、子どもたちはこれからどうなるのか、健康状態はよくなっていくのか、心配していました。
 
 現在日本文化情報センターでは着物と人形展が開催されています。そこでSOS子ども村からセンターのほうへ見学も兼ねてやってきてくれました。画像はセンター内で記念撮影したようすです。

 今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、折り鶴の作り方(千羽鶴プロジェクト)、日本語で子どもの名前を書いた絵葉書、着物の端切れから作った巾着袋などをプレゼントしました。着物は三代かけて着るけれども、その後も捨てたりせずに小物作りの材料にすることを話すと、感心したり、驚いたりしていました。
 
 最後になりましたが、ビタペクト3の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙や絵葉書など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。


日本文化情報センター15周年記念 日本人形と着物展

2014-08-18 | 日本文化情報センター
 2014年9月9日に日本文化情報センターは創立15周年を迎えます。
 それに先駆けて8月18日から9月9日までの予定で、記念展示「日本人形と着物展」を開催することになりました。
 会場はミンスク市立第5児童図書館の展示室です。
 展示品である着物やお人形を寄贈してくださった皆様、本当にありがとうございます。

 会場では着物やお人形だけではなく、掛け軸や翻訳された絵本も展示しました。

 詳しいご報告はこちらです。
 

日本文化情報センター将棋クラブ 

2014-08-18 | 日本文化情報センター
 2014年8月18日より日本文化情報センターにて将棋クラブが発足しました。
 でも今のところ、会員は5人だけ・・・(笑)
 囲碁クラブも作りたかったのですが、囲碁は難しくて、ルールを理解している人がいないため、今のところ五目並べをしています。(笑)
 将棋に関しては顧問役の人がいるのですが、日本人ではなく、ベラルーシ人。(笑)
 メンバーが増えるように呼びかけてはいるのですが、さあ、今後どうなるのでしょう?
 
 しかし、将棋の駒や囲碁のセットを寄贈してくださった日本人の皆様に感謝申し上げます。
 せっかく使えるものがあるのだから、使わないと・・・と思ったものの、しかしメンバーの数が最低でも2人は必要なので、クラブを作ってみました。
 
 ちなみにベラルーシには将棋協会があり、そこでは多くのベラルーシ人が腕を磨いているのですが、そのレベルはとても高くて、私などとてもとても入り込む余地がありません。
 囲碁もやっているベラルーシ人がいますが、ハイレベルです。
 一方で「将棋? 何それ?」というベラルーシ人がほとんどなので、日本文化情報センターの将棋クラブでは、初心者に「将棋とはこういうものです。」と紹介できる場になれば、それでいいかな、と思っています。
 でもメンバーの中で将来ベラルーシの将棋チャンピオンが誕生するかも?! などという妄想もしていますが・・・(笑)

 ちなみに参加費は無料、入会も退会も条件なしの自由です。

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 ベラルーシ将棋協会の公式サイトです。
 このサイト内で将棋クラブのことが紹介されています。