ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第178回」

2015-05-27 |   ビタペクト配布活動
 5月27日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第178回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクト3を12個、そして「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーを2部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2351個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2096部となりました。
 今回で通算193目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2351人の子どもにビタペクトを、2096家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a



(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42

(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 今回は2家族がボブルイスク市からSOS子ども村に保養滞在していました。

(家族A)

 お母さんが4人の子どもを引率していました。この家族には4個のビタペクトを渡しました。
 この家族は2005年11月、2012年11月、2013年12月にもSOS子ども村へ保養に来たことがあります。そのときのようすはこちらをご覧ください。
 チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第39回」(家族B) 
 チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第141回」(家族A)
チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第157回」(家族A)

 それぞれのそれぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果はこのとおりです。2005年、2012年、2013年の結果も記載しています。○印の子どもにビタペクトを1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時11歳)11ベクレル → 10ベクレル → 12ベクレル ○ → 12ベクレル
三女(13歳)10ベクレル → 15ベクレル → 36ベクレル ○ → 27ベクレル ○
次男(11歳)0ベクレル → 24ベクレル ○ → 39ベクレル ○ → 30ベクレル ○
四女 (9歳)33ベクレル ○ (2012年初測定) → 51ベクレル ○ → 28ベクレル ○
三男 (6歳)33ベクレル(2012年初測定) → 25ベクレル ○ → 28ベクレル ○

 健康状態についてお母さんにお話を伺いました。
 三男は下あごの骨の成長が遅れたままで、いわゆる「ようすを見ましょう」という感じでほったらかしにされているようすでした。
 ちなみにお母さんはやせていませんでした。
 以前よりは子どもたちは平均すれば被爆量が減っていましたが、高めのままというのが気になります。


(家族B)

 お母さんと10人の子どもの家族。この家族には8個のビタペクトを渡しました。
 
 この家族は2011年1月にも保養滞在したことがあります。
 そのときの様子はこちらをご覧ください。

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第113回」

 2011年と今回の測定結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクトを1個ずつあげました。

母親(事故発生時16歳)0ベクレル →14ベクレル
男子(15歳) 0ベクレル → 41ベクレル ○
男子(15歳)36ベクレル ○ → 12ベクレル
女子(12歳)30ベクレル ○ → 14ベクレル
男子(12歳)35ベクレル ○ → 22ベクレル ○
女子(10歳)25ベクレル ○ → 44ベクレル ○
男子 (9歳) 0ベクレル → 25ベクレル ○
男子 (8歳) 0ベクレル → 25ベクレル ○
男子 (7歳) 0ベクレル → 21ベクレル ○
女子 (5歳)(今回初測定)36ベクレル ○

 この家族には11人子どもがいるのですが、年長の1人を除いた10人をお母さんが連れてきていました。
 15歳の男の子2人と12歳の男の子と女の子は双子です。
 
 子どもたちの健康状態についてお母さんからお話をうかがいました。

 15歳の男の子(12ベクレルだったほう)は喘息と乳製品アレルギーだったのですが、最近症状が出てこなくなり、元気になってきたそうです。

 他の子供たちは健康だそうですが9歳の男の子が1人で病気を抱え込んでいます。
 列挙すると・・・生まれたとき6本指だった。→ 手術して5本指になっている。
 片方のての親指が生まれつき短い。 → 特に治療を受けていない。
 甲状腺が肥大した状態で生まれてきた。→ ホルモン剤を飲み続けている。
 生まれたとき直腸がふさがっていた。→ 小児外科センターで手術して完治。
 心臓の内側に穴が開いていたことが判明。→ 特に治療を受けていない。
 4歳のとき両耳が聞こえていないことが判明。話していた言葉も減っていった。→右耳に補聴器をつけて、聞こえるようになり、言葉も増えた。(左耳に補聴器をつけていないのは、左耳の形が奇形であるため、取り付けられないから。)

 病気ではありませんが、頭のひよめき(大泉門。普通1歳半までにふさがる頭蓋骨の穴)が3歳になってやっとふさがったそうです。
 
 どうしてこの子だけ・・・とお母さんが思うのも当然で、医者は「この子を妊娠中にインフルエンザに罹ったでしょう。」と言ったそうですが、お母さんはそんな病気にはかかっていないそうです。
 医者にも分からないことが世の中起こりますからねえ。

 この男の子は身体障害者認定を受けており、2年おきに新しいものに付け替えるときの購入費は免除。ホルモン剤も無償で受け取っているそうです。

 12歳の女の子は夏に2ヶ月、冬に短期の保養にイタリアへ行っており、全部で9回行ったことがあるそうです。7歳の女の子も去年イタリアへ行ったと話していました。

 画像は記念撮影したものです。
 今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、折り鶴の作り方(千羽鶴プロジェクト)、日本語で子どもたちの名前を書いた絵葉書、巾着袋などをプレゼントしました。

 最後になりましたが、ビタペクト3の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙や絵葉書など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
ベラルーシの子どもたちもお母さん方もSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

デジタル放送へ完全移行

2015-05-15 | ベラルーシ生活
 2015年5月15日ベラルーシのテレビ放送はデジタル放送に完全移行しました。
 特に大きな混乱もなく・・・
 ベラルーシもどんどん変わりつつありますねえ。

戦勝70年 3

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 「戦勝70年 1」でも少し触れましたが、ベラルーシの農村地域では、ナチスによる「住民皆殺し」という作戦が展開されていました。
 そのような村が国内で628箇所あったのですが、これらの村で亡くなった人の慰霊の場を国で1ヵ所つくろうということになり、被害の状況や首都からのアクセスがよいかどうかなどを考慮して、ハティニ村が選ばれました。

 住民が全員殺害され、地図から消えた村もあるので、同じ被害にあった村をまとめてハティニで慰霊するという形です。

(もちろん生き残った人たちがその後、自分たちの村の中に独自の慰霊碑を建てているケースもあります。
 ちなみにハティニ村襲撃を指令したのはウクライナ人で、実際に実行したのはナチス軍。兄弟民族であるベラルーシ人の殺戮を指令したのがウクライナ人であることは戦後長い間ひみつにされてきました。)

 そのハティニでどんなことが起きたのか、取材したベラルーシの作家アレーシ・アダモビッチが「ハティニの物語」という作品を書きました。
 それを元にして、映画が1985年に製作されました。ベラルーシとロシアの合作映画で、原作、ロケ地、エキストラはベラルーシが担当で、監督、主要役者はロシアが担当、というソ連映画です。

 映画のタイトルは聖書に出てくるフレーズ「来たりて見よ」なのですが、なぜか邦題が「炎628」なんですよー。  

 ナチスによって焼き払われたベラルーシの村が628だから、このタイトルなんですが、私の中での「がっかり映画邦題第1位」ですよ。

 とにかく内容は悲惨です。最初見たとき、最後まで見られずビデオのストップを押してしまった・・・。
 
 この映画は日本でもたびたび上映されていますし、DVDも発売されていますので、戦時下におけるベラルーシの農村でナチスがどんなことをしていたのか、知りたい方はぜひご覧ください。
 ただし気の弱い方、妊娠中の方で胎教など気にされる方にはお勧めしません・・・。

 この映画、去年イギリスで第二次世界大戦を扱った映画ベスト50のうち、堂々の1位に選ばれています。
 選考した1人は、クエンティン・タランティーノ監督。この人が1位に選んだ戦争映画が、ベラルーシが舞台の映画ですよ。

 ニュースサイトはこちらです。

英誌&タランティーノ監督が選んだ「第2次世界大戦映画ベスト50」

(記事から一部抜粋)

第1位に選ばれたのは、1985年のロシア映画「炎628」(エレム・クリモフ監督)。ドイツ占領下のベラルーシ(旧白ロシア)の村におけるナチス親衛隊の凶行を、“感動的なヒューマンドラマ”や“派手なアクション”などの要素を一切排してリアルに描いた戦争映画。本作に比べたら、ハリウッド映画としては凄惨な描写で知られる「プライベート・ライアン」(20位にランクイン)の冒頭のオマハ・ビーチのシーンなど、「日曜の午後の浜辺の散歩のようなものだ」と同サイトは評している。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 もう1つご紹介したい映画があります。それは「ブレスト要塞大攻防戦」という映画です。
 ベラルーシフィルムが2010年に制作した映画です。これもロシアとの合作でロシア人俳優が多く出演しています。(アレクサンドル・コット監督)

 ベラルーシフィルムはですねえ、戦後作った映画の70%が第二次世界大戦を扱った物と言われていて、私もいろいろ見たことがあるのですが、どうしても技術的にリアルさが欠けていて、感情移入できなかったりすることがありました。

 しかし2011年にこの「ブレスト要塞大攻防戦」を見て、
「ついにベラルーシの映画もリアルなのが作られるようになったか・・・!」
と驚いたものです。
 専門家が見たら、「これ違うよ。」と言う細かい部分もあるかもしれませんが、とにかく「戦争中、ブレスト要塞は本当にこんな感じだったんだろうなあ。」と見ている側を納得させるだけの臨場感があるのです。
 
 ブレスト要塞って何?と言う方はこちらをご覧ください。
 また私がブレスト要塞を訪れたときの記事はこちらで読めます。

 何と言っても抵抗の象徴でもあるブレスト要塞なのだから、国の威信をかけて、絶対すばらしい映画を作るぞ!というベラルーシフィルムの気合が感じられます。
 
 この映画をぜひ日本人にも見てもらいたいけど、ベラルーシの映画ということで、相手にされないんじゃないかと思っていたら、今年の冬に日本で上映されていました。
 日本語版もDVD化されているみたいですね。
 (YouTubeで英語字幕付きのが見られますが。)(^^;)

 ベラルーシの映画をご紹介しましたが、戦争中ベラルーシでこんなことが、いや実際にはもっとひどいことが起きていたのだろうと思いながら見てほしいです。

 ベラルーシ(ソ連)は70年前に戦争に勝ちました。周囲のベラルーシ人と話していると、やっぱり戦争は負けるより勝つほうがまだまし、と日本人である私は思うのですが、実際には戦争は勝った負けたの二つに単純に分けられるものではなく、もっと状況は複雑で一言では言い表されないものだと思います。
 今までの常識が非常識になり、信じていたモラルも引っくり返ってしまう、仲のよかった隣人が敵になるかもしれないし、逆に一面識もなかったもの同士が助け合ったり、来るはずの明日が突然来なくなるかもしれない日々。

 ああ、やっぱり戦争には反対だ、と改めて思います。一方でベラルーシの隣国ウクライナで内戦のような状態になり、すでに多くの人がこの1年ほどの間に死んでしまったかと思うと本当に悲しいし、戦争がすぐ近くにあることを感じずにいられません。


 

戦勝70年 2

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 ナチスが戦時中に建設した強制収容所といえば、アウシュビッツが有名ですよね。
 しかしこのような収容所はヨーロッパ各地にあり、ベラルーシにもありました。

 ミンスク郊外のマールィ・トロステネツがそれです。1941年に作られ、規模はヨーロッパで3番目に大きかったそうです。
 ここにはユダヤ系以外にも、ベラルーシ人やロシア人、ポーランド人、チェコ人などが収容されていました。
 
 マールィ・トロステネツのすぐそばにある二つの村でも、住民の大量虐殺があり、この三つの場所で犠牲になったのは2万1500人になります。

 収容所は1944年に解放されましたが、ドイツ軍が逃走するときに施設を全て破壊していったため、アウシュビッツのように建物などが残っていません。
 更地のようになっており、慰霊碑が建っているだけなので、私も行ったことがないのです。
(だからアウシュビッツのように世界的に有名な場所にはならないんですね。)

 ミンスクからすぐ近くなので、行こうと思えばいつでも行けるのですが、更地の収容所跡を見てもねえ、というのが本音です。

 それよりも貴重なのは収容されていた人の中には運よく生き延びた人もあり、その話を聞くことです。

 ベラルーシには強制収容所に入れられていた人たちが会を作っており、さらに合唱団もあります。

 その合唱団(メンバーのほとんどが女性)が70代後半の年齢とは思えない声で合唱をしています。
 歌の合間に自分の体験談を何人かのメンバーが話してくれますが、聞くだけでつらくなります。

 母親と5人兄弟全員が収容され、生き残ったのは私と姉だけ。
 母は生き延びたが、発狂した。
 幼かった弟は負傷したドイツ兵の献血のために血液を注射器で吸い取られ、死亡。
 
 ・・・などなど。話している途中で泣き出して、「これ以上話せません。」と言い出す人もいます。

 子ども時代を収容所で生きたとは想像を絶する体験だと思います。

 ドイツは戦後、謝罪をし収容されていたベラルーシ人で、生存した人全員に賠償金を払うことにしました。
 毎月(ベラルーシの水準から言うと)かなりいい金額の賠償金を受け取っています。

 毎日、いや今死ぬか生きるかという生活を強いられた代償なのだから、当然と言えば当然です。

 ところでこの合唱団は戦後70年を記念して、今年の4月ポーランド、チェコ、ドイツへ公演へ行くことになりました。  
 
 各地のやはりナチス軍による大量虐殺があった場所で歌ったり、収容されていた生存者たちと交流したりしたそうです。
 
 各地で歌声は絶賛されたそうです。

 ところが・・・ドイツでは
「悪いが公演はしないでほしい。」
と言われたそうです。
 ちゃんとした理由はなく、挙句には
「歌ったことにしてほしい。ギャラはあげる。」
とまで言われ、公演を中止したそうです。

 ドイツからしたら、過去の汚点を現在見たくないのか、それを知らない世代に知ってほしくないのか・・・

 合唱団のメンバーはがっかりしたそうですが、双方の協力あっての海外公演ですから、あきらめたそうです。

 この話を聞いて私は、お金さえ出せば補償したことになるからいいだろうと、とドイツ側が思っているのでは、と感じました。

 確かに強制収容所にベラルーシ人を入れましたよ。でも賠償金を払っているんだから、そして謝罪もしているんだから、もう過去のことは蒸し返さないでほしい。
 合唱なんか今更しに来なくていい。ギャラ(賠償金)をあげるから、黙っておいてほしい。

 ・・・こういう考えをドイツ側が持っているのかなあ。と私は思いました。

 謝罪した、賠償金も払った、戦争責任は取った、だからもう「なし」にしよう。
 という考えは合理的で論理的である意味将来を前向きに捉えているのかもしれません。

 でも、過去から学ぶことを避けている感じがするし、せっかく平和になったのだから、かつての敵同士の民族が今は仲良くしましょうよ・・・という考えを否定しているようにも思えます。

 日本の場合、韓国や中国が日本政府に謝罪せよとか、賠償もちゃんとせよと求めており、日本政府はもう謝罪はしたし、賠償についても決着済みなのに・・・とこういう状況が戦後70年経っても、ずっと変わっていません。

 日本政府の対応を批判するときにドイツ政府がよく引き合いに出されます。ドイツは賠償金を払ってるのに日本政府はねえ、という批判です。

 しかしですよ、もし日本がドイツと同じようにすでに謝罪もして賠償金も払って、さらに賠償金を払ってるからもういいでしょ、もう文句言わないで、戦中の汚点を思い出させないで、という態度を取ったら、どうなんでしょうか。

 金は出す、だからもう何も言わないでと言われて、納得するでしょうか。

 戦争被害に対する賠償金を払え払えと言う人たちの気持ちも分かりますが、賠償金を受け取った時点で、もう文句や批判は言えなくなってしまう可能性も実はあることを分かって請求しているでしょうか。

 謝罪もした、賠償もした。そしてその後に生まれる国同士の関係が、もっと友好的で建設的になるとは限らないことを、この合唱団の一件から感じました。

 合唱団の後援がドイツの特に戦後世代に、収容所を生き伸びた人たちの存在を教え、さらには歌声を聞きながら、戦争とは平和とは何か考えるよいきっかけになればよかったのに、と私は思います。
 
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 画像は写真雑誌「ソビエツコエ・フォト」(ソ連ジャーナリスト連盟編集)1982年3月号の表紙を飾った写真です。
 撮影者はモスクワのカメラマン、Pavel Krivtsovで作品名は「女の子同士」。
 戦争中従軍していた女性3人が戦後、再び集まって戦中撮ったときのように記念撮影したんですね。
 
 表紙に選ばれるだけあって、とてもいい写真だと思います。戦後の時間、戦中の彼女らはどうだったのだろうと想像がめぐります。

 そして戦争を生き延びた人は本当に運がよかったと思います。


 


戦勝70年 1

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 5月9日ベラルーシ(だけではなく旧ソ連の国)は第二次世界大戦の戦勝から70年目を迎えます。
 節目の年ということで、テレビは特番を流し、街中はどこを向いても「70」の数字が目に入り、先月から関連する記念イベントが続いています。
 今月に入ってからは毎日どこかで何かやっているという状態です。

 日本人にとって戦後というのは1945年8月15日を境にして考えるのですが、ベラルーシ人にとってはドイツとの戦争に勝った5月9日が境です。

 ベラルーシは旧ソ連の国の中でも犠牲者が多く出た地域で、当時の国民の4人1人、あるいは3人に1人が死亡したと言われています。

 どうしてベラルーシ(当時は白ロシア・ソビエト社会主義共和国)は被害が大きかったのか・・・

 理由1 地理的にドイツからの距離が近く、モスクワを目指すナチス軍からするとまず陥落しないといけない場所にあった。

 理由2 もともとユダヤ系住民が多く、真っ先に殺害されたり収容所送りになったりした人が多かった。

 理由3 ソ連中枢部はソ連の首都モスクワを守るためにベラルーシを防衛拠点を考えていたが、その結果分かりやすく言えば、ドイツ軍の銃先にベラルーシ人を出して、ロシア人のほうをできるだけ守ろうとした。

 理由4 ソ連はベラルーシ人を分かりやすく言えば差別しており、ロシアに比べれば少数民族だし、ロシアに取り込んでしまえというる同化政策を水面下で行っていた。そのためベラルーシ人が今まで作ってきたベラルーシ文化らしいもの(教会などの文化遺産)を破壊したが、戦争中は「ナチスドイツの仕業である。」とした。
 そんな状況だったので、戦争中ベラルーシ人に対する大量殺戮が起き、これもナチスドイツが全て実行犯とされているが、中にはソ連政府(ソ連軍)が行ったものもある。
 
 さらにあまり知られていませんが、かつてベラルーシと同じく旧ソ連を構成していたウクライナはユダヤ人をそもそも差別していました。
 そこへユダヤ人嫌いのヒットラーが登場したとき、喜んだウクライナ人もいたのです。
 ドイツと戦争をしているソ連の中で、密かにドイツを応援したウクライナ人・・・
 ドイツの戦闘の手伝いをし、ベラルーシの農村地帯での掃討作戦(民間人を皆殺し)を提案したケースもありました。

 つまり戦争中は目の前には敵が迫り来る状態、背後からからは味方からも殺されるかもしれない、という板ばさみの状態だったベラルーシ。
 さらに(場所にもよりますが)ベラルーシはドイツ軍に占領されてしまい、占領下における市民生活も悲惨で、反占領軍活動をした人を逮捕して拷問したり、見せしめの公開処刑などが行われていた。

 当然戦争被害は甚大です。
 70年前の5月9日、戦争に勝ったときベラルーシ人は歓喜の涙を流し、今でも盛大にお祝いするのはよく分かりますね。

 1980年代に発行された写真雑誌「ソビエツコエ・フォト」(ソ連ジャーナリスト連盟編集)が今私の手元にあるのですが、その中にも戦勝記念日にミンスクで撮影した写真がありましたので、ご紹介します。
 1982年3月号掲載なので、戦後36年目に当たる前年1981年5月9日にミンスク中心部で撮影されたものです。
 撮影者はベラルーシ人のカメラマン、A.Kushnerで作品名は「彼らがベラルーシを解放した」です。ここでの解放はナチスの占領からの解放となります。
 後ろに写っているのはミンスクのメインストリート沿いにある紳士服店なのですが、看板は変わったものの今でもこの店はあります。

 

世界で一番酒飲みの国はベラルーシ???

2015-05-06 | ベラルーシ文化
 「GEO」という雑誌2015年5月号で、日本への観光特集をしていたので、ページをめくっていたら、「ベラルーシがアルコール消費量の世界チャンピオン」という記事がありました。

 WHOの調査結果を掲載しているのですが、ヨーロッパとアジアの中での消費量が多い国順にグラフまで作って発表しています。

 それによると何でもヨーロッパのほうがアジアより圧倒的にアルコール飲酒量が多く、そのヨーロッパの中で1位なのがベラルーシでした・・・・

 15歳以上が1年間に消費するアルコール飲料の量をWHOが調べたそうなんですが(なんでまた15歳以上という条件設定?!)ベラルーシが17.5リットルで1位。

 2位はモルドワで16.8リットル。(ワインの産地だしなあ。)
 3位はリトアニアで15.4リットル。
 4位はロシアで15.1リットル。
 5位はフィンランドで12.3リットル。(寒いから?)
 6位はフランスで12.2リットル。(ワイン消費量が多い?)
 7位はドイツで11.8リットル。(ビール消費量が多い?)

 ちなみにアジアで1位なのはタイで、たったの7.1リットルでした。

 こうして上位4カ国を旧ソ連の国が独占。
 ベラルーシは1位・・・全然うれしくないですね。

 私の周囲のベラルーシ人の反応は
「これ、おかしい。」
「WHOの計算方法は間違っている。」
「ロシアが4位で、ベラルーシが1位? 逆じゃないの?」
「自分はこんなに飲んでない・・・」
・・・と「信じない!」という反応がほとんど・・・。

 ちなみに日本のことは記述がありませんでした。そして、アジアの国で結果が載っていた中で消費量が一番少なかったのがパキスタンの0.1リットル。
 ということは、日本人は1年間にアルコールを0.1リットル以下しか飲んでないということになります。

 でも0.1リットルって100ミリリットルですよ。コップ半分ぐらい。
 それではないでしょう!!! はい、そこの日本人のお父さん、夏にビールをどれだけ飲みますか?

 というわけで、この調査は15歳以上の国民全体のアルコール消費量を、国民の数で割った、一人当たりの量です。

 ベラルーシは人口が少ないので、一人当たりこれだけになる、という計算をすると、ときどき世界ナンバーワンに躍り出ることがあります。

 というわけで日本人のみなさん、15歳以上のベラルーシ人みんなが世界一の飲兵衛だとは思わないでくださいね。

 
  

チロ基金&日本文化情報センターのご案内&リンク先一覧

2015-05-06 | リンク&お問い合わせ

HP「ベラルーシの部屋」
 管理人さばさんとベラルーシ在住Tが2000年に開設したHP。

http://belapakoi.s1.xrea.com/


 ベラルーシのTが1997年から行っている「チロ基金」の活動について。(HP「ベラルーシの部屋」内)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/index.html


 チロ基金の活動の一つである「日本文化情報センター」について。(HP「ベラルーシの部屋」内)

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/index.html


ベラルーシ人向けにロシア語でご紹介している日本文化情報センターの公式サイト。

http://blog.goo.ne.jp/fondchiro

 最新の開館時間案内や臨時休館日のお知らせなどは日本語で併記されていますので、日本人でセンターご訪問を希望されている方は参考にしてください。

ベラルーシ語で歌う日本の歌「月と日」について。(HP「ベラルーシの部屋」内)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/songs/index.html


 このCD「月と日」を1枚購入すると、放射能を体外に排出する働きのある食品『ビタペクト2』1個の購入費としてチロ基金に還元され、ベラルーシのチェルノブイリ原発事故の被災児1人に無料で渡すことができます。ご協力をお願いします。
 日本国内での販売を請け負っているヨーロッパ輸入雑貨店「Vesna!」のサイトはこちらです。

http://vesna-ltd.com/

 日本では珍しいベラルーシの民芸品などを扱っています。
 CD「月と日」はネットショッピングでも扱っています。 

http://vesna-ltd.com/shop/b_music.html


 バザーの参加でチロ基金がお世話になっている「日本ユーラシア協会大阪府連」のサイトです。

http://www011.upp.so-net.ne.jp/jes


「みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ」
 ベラルーシ語音楽がテーマのみつばちマーサさんのブログ。マニアック。(笑)

http://blog.goo.ne.jp/mitsubachimasa



  

ベラルーシのマスコミで紹介されたまとめ

2015-05-05 | リンク&お問い合わせ
 日本文化情報センターはベラルーシのマスコミにときどき取り上げられているのですが、そのうちネット上で見ることができるものを、センターのサイトロシア語版のほうにまとめてあります。

2002年から2011年の間に取り上げられたのはこちら

2012年以降のものはこちらです。

 ただし記事などは全てロシア語かベラルーシ語が使われています。画像や動画しか意味が分からない、という日本人も多いと思いますが、翻訳はなくてすみません。


子どもの日に児童図書館がテレビで紹介されていました

2015-05-05 | 日本文化情報センター
 日本は5月5日は子どもの日。偶然ですがベラルーシのテレビ局の番組でミンスクにある3箇所の児童図書館が紹介されました。
 日本文化情報センターも紹介されています。
 リンク先はこちらです。

 下のほうへスクロールしていくと、動画が見られます。使われているのはロシア語です。
 三つの図書館が混ざって紹介されているので、分かりにくいのですが、日本らしいものが映っていたらそれは日本文化情報センターです。
 (現在は弊センターはこんな感じです。)

 

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第177回」

2015-05-04 |   ビタペクト配布活動
5月4日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第177回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクト3を8個、そして「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーを3部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2339個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2094部となりました。
 今回で通算192目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2339人の子どもにビタペクトを、2094家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a



(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42

(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 今回は3家族がボブルイスク市(チェルノブイリ原発から約200キロ)から、SOS子ども村に保養滞在していました。それぞれの家族にお話を伺いました。


(家族A)

 お母さんが4人の子どもを引率していました。この家族には3個のビタペクト3を渡しました。この家族は2013年12月にも保養滞在していたことがあります。そのときの様子はこちらをご覧ください。
チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第157回」(家族B)

 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果はこのとおりです。2013年に測定をした子どもはその結果も表記しました。○印の子どもにビタペクト3を1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時9歳)9ベクレル ○ → 11ベクレル
長女(17歳)23ベクレル ○ →  4ベクレル
長男(13歳)29ベクレル ○ → 35ベクレル ○
次女(11歳)21ベクレル ○ → 27ベクレル ○
次男 (8歳)30ベクレル ○ → 25ベクレル ○

 次女はてんかん患者です。子ども達は風邪、インフルエンザなど感染症によくかかり、免疫力が弱いというお母さんの話でした。
 お母さんは体重が3桁だったので、ダイエット目的でビタペクト3を2年前に渡したのですが、残念ながら全くやせていませんでした。
 お母さんは心臓病を持っており、高血圧でお母さんの健康状態も心配です。

 この一家はボブルイスク郊外の森で集めたきのこを食べており、安全な森だからと測定をしていません。
 また乳牛とヤギを飼って、その乳を飲んでいます。やはり一度も測定していません。
 ボブルイスクには市場があり、その市場の中に食品の測定所があるので、一度試しに調べてみたらどうかとお母さんに話しました。ちゃんと実行してほしいところです。
 

(家族B) 

 お母さんが3人の子どもと知り合いの子ども1人を引率していました。この家族には2個のビタペクト3を渡しました。この家族は2013年8月にも保養滞在していたことがあります。そのときの様子はこちらをご覧ください。
 チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第151回」(家族B)

 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果はこのとおりです。2013年に測定をした子どもはその結果も表記しました。○印の子どもにビタペクト3を1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時6歳)15ベクレル → 16ベクレル 
長男(14歳)13ベクレル → 17ベクレル 
次男 (5歳)10ベクレル → 27ベクレル ○
三男 (2歳) 0ベクレル → 37ベクレル ○
男子(13歳)17ベクレル

 前回の滞在のとき結果がよかったので、お母さんはとても喜んでいました。今回は結果の数字を見てがっかりしていました。
 2歳の三男は「まだ3歳になっていないけど、もう2歳半だから、誕生日が来たらビタペクトを飲ませたい。」と言って頼んだので、ビタペクト3を渡しました。

 長男と次男はよく耳や喉、鼻の病気にかかり、よく病院に行っているそうです。
 三男は慢性気管支炎によくかかり、喘息の疑いもあるそうです。言葉の発達も遅れているとお母さんは心配していました。
 さらに三男は腕の痛みを訴え、手のひらをテーブルの上に置くだけで、痛がるそうです。
 病院ではマッサージをしてもらったそうですが、よくなりません。
 お母さんも上半身の骨や関節が痛いそうで、親子でカルシウムのサプリを飲んでいるそうです。
 そういえば長男は前回の滞在のときは足を骨折していたし、骨が弱いのは遺伝のせいかとお母さんは話していました。
 ただお母さんは第4子を妊娠中で、単にカルシウム不足になっているのではないかと思われます。


(家族C) 

 お母さんが3人の子どもと友人の子ども1人を引率していました。この家族には3個のビタペクト3を渡しました。この家族は2013年8月にも保養滞在していたことがあります。そのときの様子はこちらをご覧ください。
 チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第151回」(家族C)

 このお母さんと家族Bのお母さんは姉妹です。

 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果はこのとおりです。2013年に測定をした子どもはその結果も表記しました。○印の子どもにビタペクト3を1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時2歳)15ベクレル → 14ベクレル  
次男 (9歳)23ベクレル ○ → 0ベクレル
長女 (7歳)35ベクレル ○ → 31ベクレル ○
次女 (7歳)34ベクレル ○ → 19ベクレル
姪  (6歳)19ベクレル ○
女子 (7歳)32ベクレル ○

 長女と次女は双子です。
 次男はアデノイドを手術で取り、ほぼ同時に中耳炎の手術も受けたことがあるそうです。
 子どもたちはよく風邪をひく、とお母さんは話していました。
 お母さん自身は甲状腺の病気でホルモン薬治療を受けており、その副作用のせいで太ってしまった、でも治療を受けている間はやせられないとこぼしていました。
 いつになったら治療をやめられる(病気がよくなる)のか分からないということでした。

 ヒステリー症状を起こしていた双子の姉妹は落ち着いていましたが、やはりまだ情緒不安定な部分が残っているようでした。
 姪はちょっとホームシックになっているということでした。

 お母さんたちは「ボブルイスクにはWBCはない。再測定を受けたいが、ミンスクのベルラド研究所まで子どもを抱えて行くのは大変。」
と話していましたが、
「保養もでき、ビタペクト3も無料でもらえて、私たちは運がいい。」
とも感謝していました。

 画像は記念撮影したものです。よいお天気だったので外で撮影をしました。
 今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、折り鶴の作り方(千羽鶴プロジェクト)、日本語で子どもたちの名前を書いた絵葉書、巾着袋などをプレゼントしました。
 好奇心いっぱいの子どもがいて、質問攻めに遭いました。
「日本へ行きたい。」「日本語を勉強したい。」と言い出す子どももいて、うれしかったです。 

 最後になりましたが、ビタペクト3の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙や絵葉書など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
ベラルーシの子どもたちもお母さん方もSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

チェルノブイリ付近の森林火災

2015-05-03 | 放射能関連情報
 4月28日に発生したチェルノブイリ原発付記で起きた森林火災ですが、5月2日に鎮火しました。

 立ち入り禁止地区内で起きた火災、つまり放射能汚染が高い地域なので、火災が起きると放射能が舞い上がるのではないかと危惧されていたのですが、空間線量は通常の範囲内と発表されました。

 これを嘘の発表で、真実を隠していると思う人もいるでしょうが、私は正しい発表だと思います。
 事故から29年が経ち、森の上に降り注いだ放射能も雨水に溶けてどんどん地下へと浸透していっています。
 現在放射能は地表から約30センチの深さの部分にもぐっていっており、森が燃えてもそれが上空に舞い上がることはありません。

 もっとも森の地表部分の落ち葉が堆積しているところには、放射能がまだ残っていますが、全体からすると少量で、それが煙にのって舞い上がっても、遠く離れたキエフなど人口が多い地域の空間線量が大幅に上がることはないでしょう。

 それより問題なのは、これから地下水の汚染や、それにともない水源地や木の根が深く伸びる果樹などの汚染が今後進んでいくだろうと予想されることです。
 一方、来年の今頃はセシウムに関して言えば、セシウム137の半減期が来ますから、自然界で拡散したセシウム137の量は半分に減ります。
 ただし、生体濃縮は変わらず続きますから、ベラルーシ人のセシウム被爆量が突然半分になるとはいきません。現実は単純計算どおりにいかないです・・・。

 日本の場合、まだ放射能が地表や地表近くに残っていますので、汚染地域で森林火災が起きると上空に舞い上がる可能性が高いです。
 もっともあくまで私の予想ですが、ベラルーシよりも日本のほうが降水量が多いので、すでの多くの放射能が地面にしみこんでいると思います。
 つまりチェルノブイリの場合、1年に1センチのスピードで地下にしみこんでいっていることになりますが、日本の場合それを上回るスピードで地面にしみこんでいるいくと思います。

 またこちらは冬が長くその間土壌も凍結するので、放射能が地下水とともに移動することがないのですが、日本は冬が短いので、どんどん地下水といっしょに移動していくと思われます。

 また日本の場合森林火災の煙で放射能が舞い上がるという以前に台風がどんどんやってくる気候なのですから、そのことも考えないといけません。

 さらに日本は周囲を海に囲まれています。
 このようにチェルノブイリのケースと日本のケースは条件が異なるので、その点を考慮しないといけません。

 線量計をお持ちの方は台風や森林火災が起きた後、変化が起きないか前後で測定してみてください。