ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

チェルノブイリ原発事故から35年

2021-04-26 | 放射能関連情報

 チェルノブイリ原発事故が発生して35年。当時のことを覚えている人は少なくとも40歳以上でしょうか。

 サイエンス誌に、ウクライナやアメリカなどの数カ国の研究者が合同で大規模なチェルノブイリの子供達の遺伝子検査を行った調査の結果が発表されました。

 

 2014年から2018年にかけて、米国立がん研究所の研究チームは、チェルノブイリ原発事故後の1987〜2002年に生まれた130人の子どもとその両親のゲノムの配列を調べました。

 対象となったのは、少なくとも片方の親が、事故当時チェルノブイリから70km以内の場所にいたか、事故処理作業員とし従事していた子どもです。

 子どもと言っても1987年生まれの人が2018年に調査対象になったのなら31歳になっていますが、あくまでチェルノブイリ事故後に生まれた若い世代が対象です。

 この両親世代は調査によると、被曝していたのですが、親と子どもの両方のDNAを調べても、子どもに突然変異は起きていなかったという結果でした。

 

 事故後、障害児が生まれる率が2倍になったというベラルーシの研究所の調査結果もありますが、これは妊娠中に母親が被曝した場合の調査結果です。

 今回の新たな調査では、親が被曝、親のDNAが損傷(異常)を受ける、その後その親から生まれた子どもはDNAの異常を遺伝しない、ということです。

 事故から時間が経っていれば、それが1年ほどでも、子どもに親からDNAの異常は受け継がれないというのは、よいニュースですね。福島第一原発事故で、被曝したという人から生まれる子どもには遺伝子に問題(遺伝子による病気など)が発生しない、ということです。

 

 今回の調査の中でも興味深いのは甲状腺癌の調査です。 

 甲状腺がんと診断されたウクライナ人440人を調べた結果、359人がチェルノブイリ原発事故で被曝していた人でした。それによると男性よりまた女性のほうが多く発病しており、事故当時ウクライナの首都キエフに住んでいた人が過半数を占めていました。チェルノブイリ原発事故に近いところに住んでいた人ほど病気になっているのでは?というイメージがありますが、そうではありませんでした。

(こう書くと、非難する人も出てくるかもしれませんが、チェルノブイリ原発事故と照らし合わせると、福島に住んでいた人より、離れた地域に住んでいた人のほうが甲状腺癌になる確率が高いのでは? と思われますね。ただし注意しないといけないのは、上記の調査はあくまで数を問題にしています。首都キエフのほうがチェルノブイリ原発近くの市町村より人口が多いに決まっているので、キエフに住んでいた人で甲状腺癌になった人が多かったというのは、母体数が多かったからとも言えます。だからキエフのほうが、放射能がいっぱい降り注いでいたんだよ、原発の周りには放射能は少なかったんだよ、とは全く言えません。)

 今回の調査結果では、甲状腺にかかった人の被曝時の年齢は平均7歳(1979年生まれ。事故当時小学1年生)、そしてがんと診断されたときの年齢はすると平均28歳でした。ということはあくまで平均の話で最大値の話ではないのですが、7歳で被曝して、21年後、28歳のときに甲状腺癌と診断されたウクライナ人が多かったと言ってよいでしょう。でも、そのころ結婚して、子どもを持つようになったとしても、その子どもには、親の被曝の影響は遺伝子としては、遺伝してなかったということになります。

 

 ウクライナ政府は、あと50年か60年かすれば、チェルノブイリ原発周辺の汚染地域に人が住めるようになると発表しました。しかし、やはり周辺10キロ以内は人間の居住は永遠にありえないとも述べています。

 

 35年前、避難対象地域に指定され、立ち退きを要求された村にいまだに住んでいる人(サマショール)の人が100人ほどいます。

 完全に自給自足生活で、事故前絵も事故後もずっと同じところに暮らしているのですが、特に病気にもならず、元気なおばあさんが多いです。今はほとんど女性ばかりのようですね。

 近くに病院もなく、医薬品もないです。こういう帰村者の家へ取材に行って、動画に上げている人もいるのですが、マスクをしていて、おばあさんに、今コロナウイルスが流行っていますから、と説明しています。

 この村は少なくとも事故直後は放射能汚染されていたから、立ち退き命令が出たと思うのですが、今はコロナウイルスに感染するリスクがとても低い場所だなあ、と思いました。こういう取材でやってくる人からコロナウイルスをうつされないでね・・・とも思いました。

 残念ですが、10年後、20年後にはこの高齢者の村民はいなくなってしまうと思います。そして30年後、40年後に正式に人が住んでよい村に戻るようです。そのときにこの村はどうなっているのでしょうか。

 さすがにご夫婦ともども亡くなっていまい、無人になた家も紹介されていましたが、屋根に穴があいて、崩れかかっていました。ウクライナ政府が50年後に住んでもいいですよ、と発表しても、戻ってくる人はいるでしょうか。

 

 次はベラルーシ発のニュースです。チェルノブイリ原発事故から35年という節目の年を迎えるからか、チェルノブイリ原発事故被害者を救済する法令が改められました。非常に細かい福祉の手が差し伸べられています。今でもちゃんとこのような救済をする姿勢をベラルーシ政府が示しているのは評価すべきだと思いました。 

 

 

 


東日本大震災から10年

2021-03-11 | 放射能関連情報

 東日本大震災から今日で10年。震災によって亡くなられた方々とその御遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

 10年後はどうなっているのだろう。復興は? 放射能汚染は? 健康は? と考えていましたが、まさかコロナウイルスという疫病で日本だけではなく世界中が変貌しているとは予想していませんでしたね。

 コロナのせいで大人数が集まる追悼式典もしづらいし、悲しいですね。

 福島の放射能濃度の低下速度はチェルノブイリよりも早い、という報道(朝日新聞)を見ましたが、つまり事故から10年後の両地を比べてみて、ということですね。

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福島の放射能濃度低下、チェルノブイリより早く 筑波大

福地慶太郎

東京電力福島第一原発事故で福島県に広がった放射性物質の状況は、旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)と比べて、土や河川の放射能濃度の低下スピードが大幅に速いという結果を筑波大などの研究チームがまとめた。28日、科学誌に発表した。

 筑波大の恩田裕一教授らは、福島第一原発から80キロ圏内を中心に放射性物質の分布などを調べた210本以上の論文を検証。チェルノブイリ原発事故による周辺地域の汚染と比較した。

 その結果、福島はチェルノブイリと比べ、地表の放射性セシウムの量が早く減ったことがわかった。地表にある量が少ないほど空間線量率も低くなる。福島では除染などが行われた一方、チェルノブイリは大半の地域で活動が少なかったからだという。

 こうした地表の放射性セシウムは、河川に流れ出す「供給源」でもある。土についた状態で川を流れる放射性セシウムの濃度について、事故後1年間で福島とチェルノブイリで比べたところ、福島のほうが1・6倍早く低下していた。チームは、地表の放射性セシウム濃度の低下が要因だと分析している。

 また、水に溶けた状態の放射性セシウム濃度について、沈着量の違いの影響を除いて比べると、福島の河川のほうが欧州の河川よりも100分の1程度低かった。淡水魚の放射性セシウム濃度は河川の水に溶けたセシウム濃度と相関関係にあるため、福島と欧州の淡水魚の濃度を比べても同様の差があるという。

 筑波大の恩田さんは「放射性セシウムの実態などを明らかにした」と成果を強調する一方、「福島の長期的な研究データを蓄積し、公開する財政的な見通しがない」として、国として研究を継続する必要があると訴えた。

 論文はウェブサイト(https://doi.org/10.1038/s43017-020-0099-x別ウインドウで開きます)で読める。(福地慶太郎

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 やはり、違いが出たのは気候だと思います。日本は台風が多い、梅雨もあるので、地表に放射能が固定されなかったっことが大きいと思います。また海に落ちた放射能(正確な測定は非常に難しいと思いますが)は人に影響を与えないですね。

 福島沖で獲れた魚から基準越えの放射能が検出された、という報道も見ましたが、ちゃんと食品の検査を続けて、情報公開をするのもさすが日本と思いました。

 それから土地の除染ですが、チェルノブイリの場合はその場で天地替えしていたので、地中が汚染されている状態なんですよね。日本の場合は地表を剥ぎ取って、袋に詰めて、別の所にまとめる方法です。これも除染の効果が大きいと思います。

 一方で、集めた汚染物質をどこで処理(長期保管)するのか、また原発から出ているタンクの中の膨大な量の汚染水(実際には処理して放射能はトリチウムぐらいしか残っていないので処理水)をこれからどうするのかという問題が日本にはありますね。

 他にも廃炉に向けて相当な時間がかかるので、気が遠くなるばかりです。福島第1原発事故から10年経ちましたが、まだ先が遠すぎて、また20年後どうなっているのかな、とか30年後どうなっているのかな、と想像してしまいます。そのころの日本はどうなっているのでしょうか。

 ベラルーシではこの10年の間に、とうとう自国内に原発を建設し、1号炉も稼働開始しました。コロナウイルスの報道の影であまりニュースの中で目立ちませんが、今のところまだ出力をしぼったり、上げたり、二日後にまた低下させたり、ずっと実験をしているような状態です。ロシア企業が建てた原発なので、その費用をこれから返し続けないといけません大きな借金を抱えています。自国内での電力供給がせめてもっとベラルーシ経済のために役立ってほしいのですが、その状態になるまでにまだ時間がかかりそうです。そして何より事故が起きてほしくないです。今のベラルーシには事故対応が迅速にできるかどうか分かりません。コロナ対策の様子を見ていても、政府にあまり期待できないですね。我が家ではとりあえずヨウ素剤だけは常備するようにしています。


2021年3月7日。再び雪。

2021-03-07 | 放射能関連情報

 2021年3月7日、再び雪が降り一面うっすら雪化粧となりました。

 明日は3月8日国際女性デー、しかも今日は日曜日とあって、三連休です。国際女性デーは日本では知名度も低いですが、こちらではひな祭りと母の日とホワイトデーを足して休日にして、前日からイブ状態で浮かれて、臨時の花屋がどっと店開きし、家でも職場でも学校でも男性が女性にお花やチョコレートをプレゼントして、とにかく正月とクリスマスとイースターの次に盛り上がるお祭りなのです。(私の同僚Xさんは、2年前のこの日、彼氏から、オレンジ2個だけをプレゼントされ、花やチョコはもらえなかったので、怒ってすぐにふったそうです。3月8日に女性に花をあげない男は恋人扱いされないのですね。日本でもバレンタインデーに似たようなことが起こりますけど。)

 そして国際女性デーというお祭りを良い機会として、反政府デモが起こっています。現在、服役中で特に女性に対して、「ベラルーシ政府は早く釈放せよ。」と訴えています。

 これはもちろんベラルーシだけではなく、国際女性デーが祝日になっている国でも行われています。

 明日も休日なので、反政府デモ行進が予定されており、チハノフスカヤ氏が参加を呼びかけています。

 

 野党のラトゥシコ氏はメディアのインタービューで、ルカシェンコ大統領が最も恐れているのは国営大企業のストライキであると述べ、ベラルーシ企業への投資をしないでほしいと投資家に訴え、投資そのものができないようになったら、これも現政権に対して打撃になることなどを話しました。

 また野党の調査によると、ルカシェンコ大統領(ちなみにベラルーシ野党は、正式な現在のベラルーシ大統領はチハノフスカヤ氏であるとし、ルカシェンコ前大統領、あるいはルカシェンコ氏と呼んでいます。)は「邸宅」をベラルーシとロシアの各地15箇所に所有しているそうです。

 これらの邸宅をベラルーシ国民に場所と内部を解放して、見学できるようにしたら?とラトゥシコ氏はルカシェンコ大統領に提案しています。

 ロシアではプーチン大統領が建築中とされる通称「プーチン宮殿」がロシアの反体制派運動家のナワリヌィ氏によって、規模や建築費用、内部の様子などが暴露されたので、ベラルーシでも「ルカシェンコ宮殿」15箇所の内部がそのうち暴露されるかもしれません。暴露される前に自分で公開したら、というのがベラルーシ野党の提案なのですが、ロシアに比べると何だか優しいですね。それとやっぱりプーチン宮殿のほうがどこからどう見てもレベルが桁違いに贅沢ですよ。


ベラルーシ原発の原子炉に核燃料

2020-08-07 | 放射能関連情報

 大統領選挙の二日目前、ベラルーシ原発の第1号原子炉に、今日核燃料を初めて入れる作業が始まりました。

 いよいよ原子力の火が灯されるのですね。

 これから時間をかけて出力を上げてゆくらしく、急に発電が始まるわけではありません。

 また、第1号炉が成功すれば、次は第2号炉、第3号炉と予定されています。


チェルノブイリ原発事故から34年

2020-04-26 | 放射能関連情報
 4月26日でチェルノブイリ原発事故発生から34年を迎えます。
 コロナウイルス感染の拡大により、追悼式典など中止や縮小されているようです。
 チェルノブイリ原発近くの森林火災はまだ収束していないようです。
 
仕方がないのですが、今年はコロナウイルスのほうに人の意識も行ってしまい、チェルノブイリ原発事故についてはあまり話題にもならないです。
 ベラルーシに新しく建設されている原発は今年1月に稼働開始予定でしたが、まだ延期されています。
 原発の建設はまだ続いていますが(1号炉に続き、2号炉、3号炉・・・と原子炉が何年にもわたって造られるため。)その建設作業員の中で、コロナウイルス感染者が出ており、建設の進み具合も遅れているようです。

 コロナウイルスとの戦いは難しいですが、それは目に見えないものだからでしょう。
 放射能被曝との戦いも同様に目に見えないものなので、難しいです。
(症状が出たら分かるとか、いろいろ意見はあると思います。)

 ところで、ベラルーシでコロナウイルスの最初の感染者が確認されて以来、ベラルーシのあちこち、バス停などでも、一般市民向け感染予防マニュアルのポスターが貼られるようになりました。
 それを見ていて、私が感じたのは、ベラルーシ人が考える感染予防方法は、放射能被曝を避けるための方法と共通している部分が多いという点です。
 放射性物質が体にくっつかないように、あるいは体内に入らないようにするにはどうしたらいいのかのノウハウがベラルーシには、チェルノブイリ原発事故の経験からあるのですが、それをコロナウイルス感染予防に応用していると感じました。

 せっかくですので、ベラルーシの一般市民向けコロナウイルス感染予防マニュアルをご紹介します。

<外出する前、外出中>

(1) 上着を着ましょう。
(2) 髪の毛はできるだけまとめる。指輪、ブレスレット、ピアスは身につけない。
(3) マスクは家を出る前につける。
(4) 公共交通機関は利用しない。
(5) 犬の散歩はOK。しかし犬の毛を触ってはいけない。
(6) 何かに触れるときはティッシュ越しに触れるようにする。
(7) ティッシュはよく丸めて捨てる。
(8) 咳やくしゃみは肘の内側で飛沫を抑える。 
(9) 現金払いを避ける。紙幣や硬貨を触ったら、手を消毒する。
(10) ハンドサニタイザーを携行する。
(11) 清潔ではない手で顔を触らない。
(12) 人と人の距離を1.5メートルから2メートルあける。

<帰宅後>
(1) 帰宅直後、物に触らない。
(2) 玄関で靴を脱ぐ。
(3) すぐに(外気に触れていた)全ての服を脱いで、袋に入れて口を縛り、その後洗濯機へ。洗濯するときの水の温度は60度。
(4) カバンや鍵は玄関脇に箱を用意して、そこに入れる、
(5) 外気に触れていた部分、手、顔、首などを洗う。
(6) メガネを石鹸で洗う。携帯電話の表面を消毒する。
(7) 塩素系消毒液で、足元に置いたカバンやレジ袋の表面をふく。ゴム手袋着用のこと。
(8) 使用済み手袋は捨てる。その後手を洗う。
(9) 散歩に連れていたペットの足を消毒する。
(10) これで完全な消毒ができるわけではないことを覚えておいてください。

<集団感染を防ぐために。家庭と職場で>

(1) 家族でベッドを共用しない。
(2) タオルや食器を共用しない。
(3) 服の洗濯はこまめに。
(4) 常に換気をする。
(5) トイレは別々に使う。使用するごとに毎回塩素系消毒液で消毒する。
(6) スイッチ、肘掛け椅子の肘掛け部分を消毒する。
(7) 人と人の距離をあけて、別々の部屋にいるようにする。
(8) 熱が38度以上に上がり、呼吸に問題が起きたら、病院に電話する。
(9) 自宅で隔離される期間は2週間。その間に一度でも外へ出ると、期間がリセットされて、その日からまた2週間隔離措置となります。

・・・・・
 原発事故が起きたら、換気はしないほうがいいです。窓を閉めて屋内退避です。(場所にもよります。)
 しかし、体に付着しているかもしれない放射性物質をできるだけ、体内、そして家の中に持ち込まないようにするには、コロナウイルス感染予防対策に共通するものがあります。

 このように、ベラルーシで感染が拡大する前から、このようなマニュアルをポスターにして、あちこちに掲示していましたし、今も掲示してあります。
 ベラルーシは、国境封鎖も都市封鎖も休校も(ほとんど)しないので、何もコロナウイルス対策をしていない国なのかと思われがちですが、前もって国民向けに「個人個人でこのような対策をしておいてくださいね。」と伝えてありました。
 実際にどれぐらい多くのベラルーシ人が完璧にこのマニュアルを実行しているのかと言われれば、もちろん100%ではありません。
 でも国としては、「国民のみなさん、はい、言っときましたよ。」ということです。
 日本も「さまざまな自粛要請」を出していますが、これは「はい、言っときましたよ。」というポーズを見せているのであって、実際に国民全員が守れるのかどうか追跡できるものでもないし、ある意味、「あとは自己責任で。任せましたよ。」と言っているようなものです。

 このような国民向けマニュアルを周知させようと、とっくにその努力しているベラルーシです。
 あとは一人一人の自覚が問われますよね。
 そして最近のベラルーシでの感染者数の増加を見ると、やはり完璧にマニュアルを守れない人も絶対いるし、もっと厳しい規則を作っておいたほうがよかったのでは?の反省点があぶり出されたと言っていいでしょう。

 ところで、日本人のみなさんは、上記のベラルーシ人向けマニュアルについて、
「こんなの、私全部実行している。」「もう知ってるよ。」
と思われたでしょうか。
「これは知らなかった。日本でもやってみよう。」
という人もいるかもしれません。(でも少数派では?)
 私がこのマニュアル(職場である児童図書館の正面玄関入ってすぐの掲示板に貼ってあります。)を眺めていて、
「ここが日本とベラルーシと一番違う。」
と驚いたことが一つあります。
 それは、うがいを奨励していないこと。
 手洗いの奨励は世界中で言われていますが、ベラルーシの国民向けマニュアルでは、「帰宅したら、手を洗ってうがいをしましょう。」の一文がないです・・・。

 生活習慣の違い? 我が家では全員、手洗いとうがいをコロナウイルス流行の前から常識としてしてますけどね・・・。
 外気に触れていた首の部分は洗いましょう、とありますが、うがいをしましょうとは書いていません。
 
 人口比で考えると、明らかに日本よりベラルーシのほうが感染が進んでいます。
 これはうがいをしている人の数の割合が関係している・・・かもしれません。私には分かりません。

 
 

チェルノブイリ原発近くで森林火災

2020-04-19 | 放射能関連情報
 4月4日にチェルノブイリ原発事故の近くの森で火災が発生しました。10日経った今も消火されておらず、核廃棄物貯蔵施設の近くに迫っています。
 森の中で焚き火をして、その燃えかすを枯れ草の上に捨てた地元住民が今日、逮捕されました。

 コロナウイルスも怖いのですが、核廃棄物彫像施設が火事になるのも怖いです。
 心配事が重なっています。

 やっぱりベラルーシでも自宅にいるよう促すほうがいいですね。特に子どもは。
 今、学校は春休みなので、通学はしていませんが、結局外で遊んだりしている子どももたくさんいるので、休校の意味があまりないような・・・しかし、マスクをしている子どもが増えてきたので、それは良い傾向かと思います。

 
 4月15日の書き込みです。
 森林火災が発生した地域にちょうど雨が降り、火は消えました。
 ああ、天の恵み! 助かりました。


 4月19日の書き込みです。
 雨で火事が消えたと思ったら、完全には消えておらず、また出火しました。
 今も消火活動が続いていますが、煙が風下のウクライナの首都キエフにまで到達して、大気汚染になっているそうです。
 ミンスクには煙は飛んできていませんが、これから風向きが変わったら、ここにも到達する可能性があります。
 早く消火されますように。

チェルノブイリ33年 ゴメリ州立図書館の取り組み

2019-04-26 | 放射能関連情報
 2019年4月26日、チェルノブイリ原発事故発生から33年目を迎えました。
 この日、私はゴメリ州立図書館の御招待を受けて、ゴメリへ行ってきました。
 しかし、テーマはチェルノブイリとは関係がなく、ゴメリでももう事故のことは意識になく遠い過去になりつつあるのか、と思っていました。
 私はイオシフ・ゴシケーヴィチをテーマにレクチャーをしたのですが、4月26日にチェルノブイリと全く無関係な話ばかりするわけにも・・・と思ったのでゴシケーヴィチが函館に建てた病院について詳しく話をしました。人種を越えて、助け合いましょう、ということです。
(ちなみにゴシケーヴィチは現在のゴメリ州にある村で生まれました。そのためゴメリ州立図書館にはゴメリ出身の有名人コーナーの中にゴシケーヴィチのコーナーがちゃんとあります。)

 実際訪問してみると、この日ゴメリ州立図書館ではチェルノブイリ関連のイベントがちゃんと行われていました。文学と音楽のコンサートで、「チェルノブイリを私たちの記憶の中にとどめましょう」というメッセージが込められていました。

 またゴメリ州立図書館には児童図書コーナー(分館)があり、司書の方に話をうがうと、4月25日と26日は学校から団体で次々とやってきて、司書の方々は2日で合計5回チェルノブイリのお話をしたそうです。
 毎年この時期は「チェルノブイリのお話」を子ども向けに児童図書館で行っているということでしたが、対象年齢は小学4年生前後だそうです。

 そのときにはチェルノブイリに関するドキュメント映画の上映をしたり、司書の方が作成したプレゼンテーションを使用するそうです。

 そのうち小学校1-2年生向けのプレゼンテーション資料を見せてもらいましたが、私が見た限りでは、1-2年生向けとは思えないような高度な内容で、「放射能とは何か? ヨード、セシウム、ストロンチウム・・・」から始まっていて、原発の仕組みなど、小学校低学年は本当に理解できるのかしら?とびっくりするようなレベルです。

 被曝して病気になった子どもの白黒写真や、事故処理作業員の写真なども使われており、「事故は悲劇」「リクビダートルは英雄」といったメッセージが強く感じられます。

 これもゴメリという地域性によるものかもしれません。
 原発事故から33年経過した今も、ゴメリではチェルノブイリのことを風化させないように努力を続けており、公立の児童図書館でも次世代に向けて、図書館でできることをきちんとしている印象でした、

 一言でベラルーシと言っても、地域差、温度差があるように感じた一日でした。

震災から8年

2019-03-11 | 放射能関連情報
 東日本大震災から8年が経ちました。
 犠牲になられた方々には、鎮魂・・・という言葉しか思い起こされません。
 3.11という節目の日付を迎え、日本からの情報が伝わってきていますが、やはり帰宅を許された地域への帰還者は増えていないようですね。
 戻った方の健康にはどうか手厚いケアをお願いします。
 チェルノブイリ原発事故後、汚染地域にとどまった人や戻った人の多くは高齢者(と言っても50歳以上)の方が多かったのですが、予想以上に元気に暮らしていた(いる)ようです。
 もっとも、もともと健康な人たちで、家の近くに病院がないと不安だとか高血圧の薬を常に飲んでいます、というような人はいませんでした。

 逆に子どものために汚染地域から遠く離れた人たちの決断は尊重に値します。
 事故さえなかったら、人生も大きく変わらなかったのに、という思いを抱えながら、新しい生活を築くのは本当に大変だと思います。
 福島第1原発でまだまだ事故処理作業が続いている今、安全だと思うところへ移るのはその人にとって大事なことです。 

 先日埼玉在住の方からメールをいただいて、自宅の空間線量の計測を続けているということでした。このような努力の継続が大切です。
 8年前と比べて、75%に減少しているそうです。
 8年かかって、25%減ったということですが、個人的にはもっと減っておいてほしかったと思います。
 今は土壌の計測も重要になってきていますね。
 測定して問題がなければ、そこで育てた農作物を食べてもよいと思います。
 問題がなければ、と言っても、基準値以下だったらそれでよいのかときかれると、やはりゼロ、つまり汚染されていないものを食べるのが理想としか言えません。
 
 ベラルーシではもうすぐチェルノブイリ原発事故から33年になりますが、汚染地域になったことのない首都ミンスクで事故後生まれ育った子どもでも内部被曝しています。
 日本にいる方でも、機会があればぜひ内部被曝を測定してください。
 
 

11歳100ミリシーベルト被曝の疑い 福島第一事故で

2019-01-21 | 放射能関連情報
ニュース

11歳100ミリシーベルト被曝の疑い 福島第一事故で


1/21(月) 22:02配信

朝日新聞デジタル



 東京電力福島第一原発事故直後に、11歳だった女児がのどにある甲状腺に100ミリシーベルト程度の内部被曝(ひばく)が推計されると報告されていたことが、放射線医学総合研究所(放医研)への取材でわかった。

 甲状腺に100ミリシーベルト被曝すると、がんのリスクが増えるとされる。これまで国は「100ミリシーベルト以上被曝した子どもは確認していない」としてきた。放医研は「現場から情報提供があったものを簡易的に算出し、精密に出したものではない」とし、公表してこなかったという。

 放医研などによると、除染を行っていた福島県職員の放射線技師が2011年3月17日ごろに郡山市の体育館で、双葉町から避難してきた女児の体を測定。簡易測定器を使い甲状腺周囲を測ると、5万~7万cpmと示されたという。

 記録は残っていないが、この値が応援に来ていた徳島大のチームに伝えられた。チームは放射性物質が全て甲状腺に取り込まれたとすると「十数キロベクレルの可能性がある」と試算し、放医研に報告した。放医研は職員の間で情報を共有し、100ミリシーベルト程度の被曝量が考えられるとメモに残していた。備忘録にあたり、公表を想定したものではなかった。放医研は、信頼性が低い値で正確な推定が難しかったとしている。
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朝日新聞社

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 事故から8年近く経過してからの発表ですね。
 当時11歳ということは今年19歳ですか・・・
 現在の健康状態はどうなのでしょうか? 定期的に検査を受けていればいいのですが。
 そして健康被害が出ていないことをお祈りしています。
 当時、この方のそばにいた家族も念のため、甲状腺など検査を受けることをお勧めします。

聞き取り調査

2018-12-21 | 放射能関連情報
 1986年のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、ベラルーシの人たちはどうしていたのか、その後の健康状態はどうなのか・・・
 あくまで私の身近にいる人、偶然出会った人ですが質問してみました。
 内容は簡単ですし、対象となった人たちは医学の専門家でもありませんが、このブログでご紹介しようと思っています。

 質問事項ですが、
(A)性別 (B)事故当時の年齢 (C)事故当時住んでいた場所、現在住んでいる場所 (D)事故当時起きた症状 (E)現在の症状 (F)そのほか気がついたこと 
・・・となっています。

 この記事は回答が増えるたびに更新します。
 日本人の皆様に役立つ情報があれば、と思っています。

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(1)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。(D)なし (E)甲状腺肥大、高血圧、1年中止まらない咳 (F)高血圧と咳は遺伝によるものかもしれない。

(2)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク (D)なし (E)慢性的な頭痛。顔色がいつも悪い (F)子どもが2人いるが、甲状腺肥大で2人とも投薬治療中。

(3)(A)女性 (B)20代 (C)ナロブリャ。(チェルノブイリ原発から約60キロ)1992年にミンスクへ移住命令が出た。(D)頭痛。口だけではなく喉がとても乾いている感覚があった (E)免疫力の低下 (F)もっと早く移住したかった

(4)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故が起こった日、日光浴をした (D)なし (E)数年後から肺炎を繰り返すようになり、入退院を繰り返す。今は肺炎はおさまった。顔に血管がいつも浮き出て見えている 

(5)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし (F)妹は現在甲状腺肥大で投薬治療中。

(6)(5)の息子さん。(A)男性 (B)1歳 (C)ミンスク。事故当日、散歩をしていた。
 (D)首のリンパ腺が腫れた。暗赤色の斑点が全身にできた。医者は皮膚病と考え「何なのか分からない。」と言っていたが、後で内出血であることが分かった。その後症状はおさまる。18歳のとき兵役義務で軍隊に入ったが、その頃から体が弱くなったと感じるようになった。入隊していた軍事施設の周囲に住む住民にがん患者が多い、という話がある。今でも南風が吹くと、体調が悪くなる。

(7)(A)男性 (B)4歳 (C)ミンスク。事故のことは知らなかったが、偶然事故直後モスクワの親戚のところへ行っていた。 (D)なし (E)なし (F)ゴメリ州の食品は買わないようにしている。ベリー類は測定している。

(8)(A)女性 (B)20歳 (C) ミンスク (D)事故当日頭痛。子どもの寝つきが悪かった。(E) 子どもの免疫力低下。疲れやすい。

(9)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク。事故当時実家のあるカリンコビッチ(チェルノブイリ原発から約100キロ)へ家族全員で帰っていた。実家の畑でじゃがいもを植えて、はだしで土の上を歩いていた。5月9日ミンスクへ帰宅した。
 (D)なし (E)自分は特にないが、当時6歳だった娘は甲状腺機能に異常が出ている。今1歳の孫は健康。夫は5年前脳卒中で倒れ、現在リハビリ中。 (F)実家のある村は移住の対象にはなっていない、しかし人口が減り、特に若い人が減った。村の周りの森は測定されたが、場所によって線量にばらつきがあった。この森でとれたキノコを瓶詰めにして、ポーランドへ輸出しているのを見た。

(10)(A)女性 (B)38歳 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。風がきつかった記憶がある (D)なし (E)なし 
 (F)物理学研究所で働いていたので、5月中ごろ測定してもらった。事故当時来ていた服を着てくるよう言われたので、そうしたら、測定後に「その服は汚染されているのですぐ捨てなさい。」と言われ、全部捨てた。 

(11)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故当日一日中外出していた (D)なし (E)事故から8年後甲状腺の摘出手術を受けた

(12)(A)女性 (B)14歳 (C)ペトリコフ(チェルノブイリ原発から約130キロ) 事故当日おばあちゃんの家の畑ではだしになって草刈りをしていた。 (D)耐え切れないほどの眠気におそわれた (E)なし 
 (F)事故後、登校したら校内の菜園の手入れをするよう言われ、クラス全員で草むしりなどをした。後になって地域の測定が行われたが、地域内で一番線量が高かった場所が、その学校の菜園だったことが分かった。

(13)(A)女性 (B)20歳 (C)ミンスク (D)事故当日から数日間体がぐったりし、疲労感を感じた (E)甲状腺切除の手術を受けた。今は2児の母になっているが、健康。

(14)(A)女性 (B)8歳 (C)アゼルバイジャン。2年後ベラルーシへ引っ越した (D)なし (E)なし (F)29歳だった父はチェルノブイリの事故処理作業員として呼び出しを受け、4号炉で作業をした。防護服は支給されていた。作業中は父は何も感じなかったが、いっしょに働いている人で気分の悪さを訴えている人もいた。父は今55歳だが、3回の脳卒中に倒れ、リハビリ中。障害者認定を受けている。

(15)(A)女性 (B)28歳 (C)ゴメリ。事故当日竜巻のような強風が吹いた (D)なし (E)なし (F)息子は1986年1月生まれ。ずっと体が弱く、今でもよく病気になる。甲状腺機能にも問題がある。

(16)(A)女性 (B)14歳 (C)ゴメリ。事故当日は家族そろって公園で一日中遊んでいた (D)その日の晩から胃が痛くなり、断続的な吐き気を感じた。夜中から吐き始め、朝まで眠れなかった。 (E)なし

(17)(A)女性 (B)13歳 (C)カリンコビッチ (D)なし (E)関節痛
 (F)事故から1ヵ月後、学校の生徒全員が教師引率でエストニアに保養に行った。エストニアの保養所に夏休みの3ヶ月いて、9月からカリンコビッチに戻った。保養滞在中、エストニアの人から「チェルノブイリから来た子どもたち。放射能がうつる。」と差別された。しかし子どもたちは放射能のことがよく分からず、差別発言の意味も分かっていなかった。

(18)(A)女性 (B)13歳 (C)モズィリ (D)なし (E)疲労感、倦怠感
 (F)自分の周囲で30代前半でガンを発症する人が増えており、不安

  
(19)(A)女性 (B)20代前半 (C)ミンスク (D)なし (E)胃潰瘍 
 (F)事故当日、1歳だった息子をベビーカーに乗せて外出していた。息子は一日中機嫌が悪く、むずかっていた。
 一ヵ月後、夫とその妹の夫は汚染地域へ送られた。避難した後の無人になった住宅に盗みが入らないように、見張る役だった。当時いっしょにこの監視に携わっていた人(全員若い男性)のほとんどは、現在死亡している。夫は今でも健康だが、汚染地域に行ってから急に老けてしまい、今でも実年齢より年上に見られる。
 夫は汚染地域での任務が終わった後、ロシアのレニングラード(現在のサンクト・ぺテルブルグ)にいる親戚の家へ行った。その親戚は物理学者だったが、家のドアを開けてくれず、近くのホテルに泊まるように言った。夫はそのとき初めて放射能が危険なものなのだと理解し、その後着ていた服は全て処分した。息子は現在健康。

(20)(A)女性 (B)14歳 (C)モロジェチノ (D)生まれて初めての頭痛を起こした (E)なし

(21)(A)女性 (B)12歳 (C)ブレスト (D)なし (E)なし 
 (F)私の家族は他の家族より、被爆に神経質だったので、外出は禁じられた。事故のことをマスコミが詳しいニュースにする前に学校や町で、放射能が飛んできたらしいとうわさになり、あちこちでその話を話していたが、具体的な被爆対策についての情報はなかった。

(22)(A)男性 (B)8歳 (C)ミンスク。家の前の公園で毎日遊んでいた。(D)なし (E)12歳のとき難病にかかって、1年間入院生活を送った。退院したときに身体障害者認定を受け、現在に至る。

(23)(A)男性 (B)0歳 (C)ロシア (D)なし (E)なし
 (F)チェルノブイリ原発事故が起こる3ヶ月前にベラルーシで生まれた。父がロシア人で母がベラルーシ人。両親はロシアで出会って結婚し、ロシアで暮らしていたが、母がベラルーシの実家へ里帰り出産のため戻っていた。
 自分が生まれて二ヶ月のとき、父が子どもをつれて早くロシアの家へ帰ってくるようにしきりに訴えるという夢を母が見て、胸騒ぎを感じ、予定を早めてベラルーシの実家からロシアの父の元へ帰った。直後にチェルノブイリで事故が起きたので、自分は被爆しないですんだ。
 現在自分はベラルーシで暮らしているが、WBCの結果もごくわずかな被爆にとどまっている。母の決断に感謝している。


(24)(A)女性 (B)4歳 (C)コルマ (D)なし (E)なし 
(F)コルマから7キロ離れたところにきれいな森があり、その中に小さい村があったが、事故後高い汚染が認められ、若い世代は移住していった。しかし村を離れたくないという住民は残っていたので除染をすることになり、父がその除染作業に関わった。他の人たちといっしょに森を除染したり、人工の池を掘ったりしたが、被爆しているリスクがあるから、と「手当」と称するお金を給料に上乗せされた形でもらっていた。
その結果立ち入り禁止地区だった森は現在は入ってもよくなり、この村も消えることはなかった。しかし父は現在すでに亡くなっている。被爆との関係は分からない。
コルマは移住先に選ばれ多くの人が移住してきた。コルマのもともとの住民が移住者を差別するようなことは一切なく、みんな同情していた。
子どものとき、移住者の中に女性で髪の毛が一本も生えていない人がやってきたのを見たときは驚いた。現在もこの女の人は健在でコルマに住んでおり、今ではちゃんと髪の毛が普通に生えている。


(25)(A)女性 (B)30歳 (C)スラブゴロド。事故のことは何も知らずに1歳の娘と散歩していた。
 (D)自分自身は何もなかった。夏になってから子どもを連れて、グルジアに保養に行くよう勧められ、二ヶ月滞在した後、スラブゴロドに戻った。その後、娘が急性白血病になった。
 (E)自分は良性の甲状腺種ができている。娘はモギリョフやミンスクの専門病院に入院し、現在は病弱ながらも健在。事故当時3歳だった息子は事故から7年後の10歳になった頃、乾癬を発症。今年31歳になるが完治していない。乾癬は治療方法もまだきちんと確立されていない。
 スラブゴロドの周囲にある14の村が、汚染度が高いことが分かり、家屋全部が地中に埋められた。夫はその作業に従事した。そのため5年早く55歳で年金生活に入り年金をもらっている。しかし現在はしょっちゅう体のあちこちが痛くなり、1日の終わりはぐったりしてよく横になるようになった。
 (F)事故が起きたとき、偶然近所に線量計を持っている人がいた。事故のうわさが流れてきたので、その人は自宅周辺を計測し、近所がほとんど汚染されていることを公式発表より早く教えてくれた。
 夏になってから旧ソ連の各地へ保養に行った人がたくさんいた。現在50代、60代の人で足の痛みを訴える人が自分の周りには多くいる。原因は分からない。
 「埋葬」された村に残ったりんごの木から採れた実を測定したら、ほとんど汚染されておらず、食べてよいということだったが、現在も野生の鹿やいのししの肉は汚染度が高く検査の結果、食べられないと言われることがほとんど。自分自身は子どもに牛乳をあげることをいっさいやめた。周辺の村では1986年は農作物を作ることが一切禁止された。それでもいちごを作っていた人が、検査してみると汚染されていることが分かり、泣く泣く全て廃棄処分したそうだ。
 「埋葬」された村の住民にはミンスクなど移住先が提供されたが、村ごとの移住ではなく、バラバラになってしまい、村民のコミュニティが失われてしまった。移住先の家を売ってさらにどこかへ引越しする人も多くおり、消息が分からなくなっている場合も多い。
 娘が白血病になって、ミンスクの病院に入院しているとき、医者から自主的にどこかへ移住したほうがいいと言われたが、住むところを自分で探さないといけなかったうえ、夫が反対したので移住はしなかった。現在非汚染地域であっても病気になる人は増えてきているので、どこに住んでいようが関係ないという考えを持っている。今は無理して移住しなくてよかったと思っている。
 以前すぐ近所の一戸建てに娘の同級生の一家が暮らしていた。その子は10年ぐらいその家に住んでいたと思う。その後高校を卒業し、別の町にある大学へ進学した。その頃その子の両親は自宅を売りに出すことにした。買い手候補が下見にやってきたが、その人たちは線量計を持ってきていた。そして家の周囲や中をくまなく測定したところ、非常に高い線量だったので、その人たちは家屋を除染し、家の周りの土を全部はがして、新しい土を入れた上でその家を購入し、今も住んでいる。娘の同級生は大学生になってからがんになっていることが分かり、19歳で亡くなった。生きていたら娘と同じ29歳だったはず。住んでいた家が原因で被爆しがんになったと近所の人たちは話しているが、その子の弟は今も元気に暮らしているから、結局のところ発病の原因は分からないと言わざるをえない。


(26)(A)女性 (B)15歳 (C)事故当時住んでいた場所はスルーツク、現在住んでいる場所はミンスク (D)事故のことは何も知らず日光浴をしていた。少し気分が悪かったが、熱中症かもしれない。(E)健康に問題はない。
(F)当時母が10番目の子どもを妊娠していた。事故が起きたとき、母は気分が悪いと訴えていた。子どもは生まれたが、全ての内臓の大きさが通常の2倍の大きさで、生まれて10日目に亡くなった。母にとってこれが最後の子どもだったが。上の子ども9人にはこのような異常はなく、健康に育った。


(27)(A)女性 (B)14歳 (C)ブレスト州ピンスク地区にある村 (D)なし (E)甲状腺に多数のしこりができている 
(F)事故当時、事故のことは何も知らなかった。その頃雨が降り、水溜りに黄色い膜のようなものが張っていた。さらに泡もたくさん浮いていた。花粉が大量に浮かんでいるのだろうと思ったが、不自然な感じがした。
 自分たちが住んでいた地域は比較的安全とされていた地域で、地元の牛乳がいつも店で売られていたのに、事故後ゴメリ州やモギリョフ州など汚染地域の牛乳が並ぶようになった。比較的安全と言われていた地元の牛乳はロシアへの輸出用に回されていた。
 地元のコルホーズで飼われていた牛が次々と白血病になった。病気になった牛は処分されたが、その肉は加工工場で加工されて、市場に出回った。


(28)(A)女性 (B)22歳(C)ボブルイスク (D)全身に湿疹のようなものができ、かゆくてたまらなかった。 (E)健康 (F)事故当時、妊娠初期だったので非常に心配していた。夏の間原発から離れた場所で保養するよう勧められ、サナトリウムで暮らした。生まれた子どもは健康。
 事故があった日、両親は郊外で畑仕事をしていた。頭上を変な雨雲が通過するのを見た。後から放射能雲だと分かったが、事故のことは長く知らされなかった。


(29)(A)男性 (B)13歳 (C)ミンスク (D)めまい (E)なし 
(F)事故が起きた日は同級生の誕生日で友人5人と集まってお祝いをしていた。みんなで外に出るとしばらくして小雨が降った。その後友人全員がめまいや気分の悪さを訴え、家に帰った。
 当時70代だった祖父もその日、生まれて初めてめまいを起こして自分自身驚いていた。


(30)(A)女性 (B)31歳 (C)トレスコフシナ村 (D)頭痛 (E)慢性的なせき。25年ぐらい続いていて、原因も分からず治らない。
(F)事故が起きた日は暑い日だった。日差しが尋常ではないほどまぶしかったように感じた。ちょうどその日は夫の誕生日で家に親戚が集まっていた。暑くて仕方ないので、誰も外に出たがらず、一日家にいた。親戚の多くが頭痛を訴えていた。夫は50歳代で死去。
「放射能を防ぐために白い布を頭に巻けばよい。白でないとだめ。」と言い出す人がいて、村の住人は、そんなものかと思い、白い布を実際に頭に巻いたりしていた。
 しばらくしてから村には避難者の家族が移住してきた。隣に30代の若い夫婦が幼い子どもを連れて引っ越してきたが、その男の子は、元気に成長していて兵役義務もこなしていたのに、数年前30歳になったころ急激に太り、突然急死してしまった。両親が気の毒なので、病名など詳しくはきいていない。


(31)(A)女性 (B)29歳 (C)マチュリシチ (D)発熱 (E)両足の関節、骨盤部分の痛み。心臓の弁がちゃんと閉まらない病気。 
(F)事故後すぐ熱が出て、慢性的に微熱に悩まされるようになった。平熱が37度という状態が続き、病院へ行っても原因が分からない。1990年に夫の転勤に伴い、カムチャッカへ引っ越した。そのとたん熱が下がって健康になった。3年後、故郷に戻ってくるとまた熱が出て何年もたってからようやく平熱が36度台になった。

(32)(A)女性 (B)8歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)事故が起きた日、ミンスクに放射能を含む雨が降った。その後できた水溜りを見ると、緑色をした泡が大量に表面に浮かんでいた。気持ち悪い色で今だに忘れられない。当時は放射能と言う言葉を知っている人も少なかった。何年か経ってから近所に汚染地域から移住してきた人が引っ越してきた。その人たちに、放射能ってどんなもの? ときいてみたが、ちゃんと答えられた人はいなかった。当時は多くの人が無知だった。


(33)(A)女性 (B)13歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)高血圧、心臓病、胃炎。ダイエットをしたら、改善した。 (F)事故当時はニュースにもならず、雨が降る中多くの人が外出していた。しばらくして学校へ行ったら、担任の先生が「原発で事故があり、放射能が出てしまった。」と話して初めて事故のことを知った。
 親戚が10人ほど「仕事のため」と説明してチェルノブイリ方面へ行ってしまった。約1年後全員ががんになり、時期の差はあったものの全員亡くなった。

(34)(A)女性 (B)9歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)胃潰瘍 (F)事故が起きて1ヶ月ほどして、多くの若い兵士がトラックに乗せられて、チェルノブイリへ事故処理のため移動していくのを見た。長い車列だったので、何台ぐらいになるのだろうと道端で数えていた。あまりにもトラックの数が多く、途切れないので疲れて台数を数えるのをやめた。
 しばらくして町中の店から牛乳がなくなり、売られなくなった。説明や理由はなかった。
 またしばらくして、牛乳を積み込んだ特別なトラックがやってきて、広場で量り売りを始めた。町の人たちは久しぶりに牛乳が飲めるので、喜んで容器を持って買いに行った。長蛇の列だったので、おつかいに買いに行かされた。
 弟が2人いるが、1人は事故当時生後5ヶ月で、もう1人も1年後に生まれた。妊娠中で乳児もいた母には被爆に関する情報などは何も知らされなかった。


(35)(A)女性 (B)11歳 (C)ビテプスク州ドクシツィ近くの村。ミンスク (D)なし (E)なし(F)学校では被災者のために寄付を集めることになり、おこづかいを持って行った。村から男性が事故処理作業のためチェルノブイリへ出かけていった。学校で放射能の話を先生がしていたが、ヨウ素剤を飲むような指示はいっさいなかった。ただ、天気の悪いときは外へ出ないように言われた。しばらくして汚染地域から3家族が村へ移住してきた。差別のようなことはなく、新しい住民として普通に接していた。

(36)(A)女性 (B)7歳 (C)ウクライナ北部、ゴメリ (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき、ウクライナにある祖母の家に行っていた。事故のことは何も知らずに森の中で遊んでいたら、突然強風が吹き、雨が降り出すかと思っていたが、降らなかった。しばらくして事故のことを知らされ、両親は心配してビタミン剤を買ってきて飲ませてくれた。毎年夏になると、姉妹そろって黒海沿岸地方やコーカサス地方にあるサナトリウムへ行った。

(37)(A)女性 (B)16歳 (C)ゴメリ。事故のことは何も知らず、メーデーのパレードに参加していた。とても日焼けをした。 (D)なし 
(E)事故が起きてからだいぶ時間が経ってから、事故のことを知った。母は慌ててヨウ素剤を買ってきて、飲ませてくれた。31歳のときに甲状腺の切除手術を受けた。それからホルモン剤を飲み続けている。心臓病も抱えている。
(F)事故から3年後の19歳のとき結婚し、長女が生まれた。生まれつき心臓に欠陥があり、その後卵巣にのう胞が見つかった。手術を何回か受けた。次女と三女にも持病があり、病名はばらばら。成人した長女は結婚し子どもも生まれたが、孫は健康。しかし将来病気になるのではないかと不安な気持ちは残っている。
 
(38)(A)女性 (B)10歳 (C)ピンスク。ゴメリ郊外 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき4歳だった弟は病弱。ピンスク出身の女性と結婚し、今はモスクワ郊外に住んでいるがその一人娘はアレルギー体質。弟一家は3人とも体が弱く、よく病気になっている。


(39)(A)女性 (B)7才(C)ビテプスク (D)なし (E)なし (F)事故当時妹が生後4ヶ月だった。生まれたときは健康だったが、1歳になる前、肝臓が病気になっていることが分かり、入院した。治療を受けて退院したが、今でも食事制限がある毎日を送っている。

(40)(A)男性 (B)9才 (C)ソリゴルスク、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故当時正式な発表がされる前、「原発で事故があったらしい。」という噂が流れ、母から外出しないように言われて、できる限り自宅にいるようにした。友達が遊びに誘っても断った。しばらく牛乳を飲まないようにしていた。これは数年前の話だが、伯父がミンスクから10キロ離れた森の中できのこを拾い集めた。安全な地域だったが、念のため親戚に測定をしてもらうと、針が振り切れるほどの高汚染だったので、廃棄処分した。

(41)(A)女性 (B)9才 (C)ブレスト (D)なし (E) 背中と足の慢性的な痛み 
(F)当時36歳だった父はトラック運転手として事故処理作業員となり、複数回事故現場で働いた。最後にチェルノブイリ原発へ要ったのは50才のとき。2年前63歳で腸のガンのため亡くなった。
 事故が起きてしばらくしてから汚染地域の住民がブレストに移住してきた。同じクラスの同級生だった女の子は脱毛が進み、中学3年生のときにはかつらをかぶって登校していた。移住者の子どもたちは他にも症状があったかもしれないが、心が痛む話題だったので学校内でそのことについて話すことはなかった。


(42)(A)女性 (B)15歳 (C)プレシチェ二ツィ (D)なし (E)なし 
(F)村に7家族が汚染地域から移住してきた。村民は同情しており、差別はなかった。当時35歳だった父は事故後1か月してチェルノブイリへ行った。事故処理作業員を現場から宿舎へ車両で送迎する仕事をするよう国からの命令だった。被爆を防ぐために服をこまめに交換し洗濯をするように言われていたが、それ以外の対策方法は特になかった。父はその後も病気知らずで元気だったが、56歳になってから突然腎臓病と肝臓病を同時に患い、現在に至るまで8年間闘病生活を送っている。


(43)(A)女性 (B)21歳 (C)ミンスク、プホビチ地区 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき長男を妊娠中で、非常に心配した。12月に長男は生まれたが、生まれつき心臓に雑音があり、幼少期はそれが消えることはなかった。その後雑音は消えて現在は健康に暮らしている。

(44)(A)女性 (B)15歳 (C)ウクライナのイワン・フランコフ、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故後2年目にミンスクへ移転。16歳の長男は腎臓肥大。三男はアデノイド。四男は遠視。職業は小児科医。実感として、チェルノブイリ原発事故後、子どものガン、アレルギーが増えた。特に大人には見られるけれど子どもにはなかった病気(初潮も始まっていないような年齢の女子の子宮がん、中学生男子が心臓発作、心筋梗塞を起こすなど)が起こるようになり、中高年男性の突然死も増えた。

(45)(A)女性 (B)0歳 (C)グロドノ (D)なし (E)頻脈 
(F)事故が起きたとき母は私を妊娠中だった。兄は3歳だった。母の実家はゴメリ州ブダ・コシェリョフで、祖母が1人で暮らしていた。母は祖母が48歳のときに生まれた子で、事故が起きたときは祖母は70代の高齢だった。事故が起きたと分かったのは3日後。父は事故処理作業員として呼び出された。母は祖母を心配してグロドノに引き取ることにして父が運転する車で迎えに行った。放射能に関する知識もなかったので、3歳の兄も連れて行った。
 祖母をグロドノへ避難させた後、父は事故処理作業のためチェルノブイリへ向かったが、その後書類手続きの不備で事故処理作業員であると言う証明がもらえなかったので、補償も受けられなかった。父は現在63歳で高血圧で悩んでいる。
 避難した祖母はその後胃がんになりおよそ1年後グロドノで亡くなった。
 3歳だった兄は5年後、病気になった。今年33歳になるが、心臓病、高血圧、不整脈といった病気を抱えている。免疫力が低くよく風邪を引いている。私自身は頻脈。3人の子どものうち1人は生まれつき心臓の壁に穴が二つ開いており頻脈。


(46)(A)女性 (B)8歳 (C)バラノビッチ (D)なし (E)特になし 
(F)事故当時は報道もなくしばらく普通に暮らしていたが事故のことが明るみに出て数日学校が休校になった。父は事故処理作業員として原発へ向かった。9年後17歳で結婚・妊娠した。検査をしたら胎児に脊髄がないこと、脳に腫瘍があると認められ死産になるからと中絶した。4年後妊娠し、元気な子どもが生まれた。さらに3年後再び妊娠。そのときも第1子同様、胎児に脊髄の一部がなく脳腫瘍があると言われて中絶。1年後4回目の妊娠。このときは健康な子どもが生まれた。2人の胎児に異常が出た原因は分からない。自分自身気になり遺伝子の検査を受けたことがあるが異常は見つからなかった。
 今年65歳になる父は10年前に喉に腫瘍ができたが良性で現在も健康。


(47)(A)女性 (B)21歳 (C)ブレス都市近郊の村。(D)なし (E)甲状腺がん (F)第1子を妊娠中事故が起きた。5ヵ月後出産。娘は健康でその子どもも健康。
 ブレストはポーランド国境に近い町で、さまざまな物資がブレストの駅を通る。チェルノブイリで事故が起きる前その駅の引込み線で高い線量の放射能が外国人によって偶然検出されたが、公式な原因の発表はなかった。地元住民は「ソ連からポーランド(あるいはその先にある国)にウラン鉱石が運ばれたからだ。」とうわさしたが真偽のほどは分からない。その後その引込み線は廃止され、現在は別の場所に引込み線が作られている。知らなかっただけで原発事故が起きるずっと前からいろんな場所が放射能汚染されていたのではないか。


(48)(A)女性 (B)4歳 (C)ボリシエ・ビコロビチ村(ウクライナ国境近く。チェルノブイリ原発から約220キロ) ブレスト (D)なし (E)頭痛 
(F)事故が起きてから3年後小学校に入学した。外国の支援で給食にたくさんのバナナやオレンジが出て、毎日たくさん食べていた。学校内で何回かWBCの測定を受けたことがある。ドイツやオランダ、ロシアなどに保養に子どもは集団で毎年行っている。村には80人ぐらい子どもが住んでいるが、健康な子供はほとんどいない。
 事故後40代50代の女性のガンが増えた。母も子宮がんになり手術を受けた。細胞検査の結果は「未知の種類のがん細胞。」
 父は4人の兄弟姉妹がいるが、全員ガンになった。みんな同じ村に住んでいる。
 35歳になる姉は慢性頭痛。いとこは甲状腺肥大。中年のがん、糖尿病、甲状腺の病気がとても多い。
 村でとれた牛乳は放射能の検査を受けている。基準値以下だと販売に回される。基準値以上だと正規の販売ルートでは売れないので、村のご近所さんに安く売っておりみんな基準値以上だと理解した上でそれを飲んでいる。

(49)(A)女性 (B)4歳 (C)ブレスト州ドロギチン地区、ボブルイスク(D)なし (E)なし (F)事故当時30歳だった母は同じ地区にに住み続けていた。2年前58歳にガンで亡くなった。事故前この地区でガンでなくなる人はほとんどいなかった。母がなくなった同じ年、1年間で、母の同級生4人がガンでなくなった。

(50)(A)女性 (B)18歳 (C)モギリョフ (D)なし(E)甲状腺種。関節痛。(F)当時おじが長距離トラックの運転手をしていた。事故が起こった次の日、ちょうどウクライナからベラルーシへおじが戻ってきた。すると、「原発で何かあったらしい。外出しないほうがいい。」と言われて、5月1日のメーデーの行進には行かなかった。おじさんに感謝している。政府は原発事故をすぐにニュースにして、避難は無理でも、国民全員に外出しないように言うべきだった。

(51)(A)女性 (B)9歳 (C)ゴメリ市 (D)特になし。3年後に甲状腺肥大。 (E)婦人科系の病気 (F)事故が起きたとき、外出していた。突然竜巻が起こった。黄色に濁った水溜りを見た。夏休みの間、ロシアへ3ヵ月間保養に行った。新学期が始まり、しばらくすると、学校の給食に海草が毎日のように出るようになった。
 親戚の一人が当時ブラーギン地区で道路工事作業をしていた。現在甲状腺がんと戦っている。別の親戚は当時チェルノブイリ原発の空調設備の管理をしていた。事故前日定時に帰宅し、翌朝、出勤しないように言われ、その後ロシアにある原発に配属された。その後被災者認定を受けている。健康状態はよいらしい。

(52)(A)女性 (B)11歳 (C)モギリョフ州ムィシコヴィチ (D)なし (E)血圧が安定しない。 
(F)事故が起きたことはすぐに知らされなかった。しばらくすると汚染地域に指定され、牛乳を飲むことが禁止された。その後「きれいな」牛乳が商店で売られるようになり、食肉が商店から消え、代わりに缶詰を食べることを奨励された。
 夏休みになって、母が私をロシアのエカテリンブルグに住んでいる祖母の下へ疎開させた。エカテリンブルグに到着すると、「チェルノブイリ地域から来た子ども」と言うことで、被曝していないか検査を受けた。その結果、私がはいていたサンダルは、非常に高い数値を示したので、その場で廃棄処分が決められた。祖母は急いで新しいサンダルを買ってくれた。それがおしゃれだったので気が晴れた。夏休みが終わって、家に帰ることになっても、母は、「ベラルーシに戻ってこない方がいいのでは。」とまで、言って少しでも長くエカテリンブルグにいてほしいとを話していたが、結局新学期に合わせて帰った。
 その後すぐではないが、母はがんで死去。今22歳の長男は体のあちこちに病気があり、ホルモンの状態など検査したが、異常はないと医者に言われて、特に治療を受けていない。

(53)(A)女性 (B)25歳 (C)モギリョフ州ヴェプリン村。キロフスク市 (D)なし (E)腫瘍ができ、腎臓を一つ摘出。 
(F)生まれ故郷の村は1999年に汚染地域に指定され、当時住んでいた村人、約1000人は強制移住させられた。移住先はチェリコフ市。しかしその町も汚染されていて、「希望したければ自由に出て行ける地域」とされていた。今はチェリコフ市は「きれいな」町ということになっている。自分はチェリコフ市に住んでいたが、現在はキロフスク市に一軒屋を建てたので引越しした。


(54)(A)女性 (B)7歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)私の母はゴメリ州出身。母の姉(私の伯母)はホイニキ地区に住んでいた。そこは事故後汚染地域に認定されたので、事故が起きてからほとんどすぐに伯母は自分の娘(私のいとこ)を連れて、ミンスクの母の家に避難した。(ホイニキの妹がミンスクの姉の家に身を寄せた形。)
 伯母一家は夏の間、ミンスクで暮らしていたが、仕事や学校のことなどで結局ホイニキの家に戻った。その1、2年後移住することになり、ブレスト州のコブリンに住居をもらい、伯母一家は引っ越した。しかしその後伯母は40代でがんになって亡くなった。私のいとこは結婚して、息子が生まれたが生まれつき腎臓病。16歳になったが、病気は治っておらず完治は難しそう。
 伯母のように私の母方の親戚のうち事故のときすでに生まれていた人は、このいとこ以外、全員若死にし、今は一人も残っていない。
 現在ホイニキは除染も完了し、放射能がない地域に認定されて、かつての住民に戻ってくるよう誘致している。農地も再び利用されている。私自身はこのことを懐疑的に思う。政府が安全宣言しても、住みたくないし、そこで作られている農作物などは食べたくない。しかし、ホイニキのようなかつての汚染地域で作られたもので、ミンスクで売られているものを購入して知らない間に食べていると思う。


(55)(A)女性 (B)20歳 (C)ピンスク、ブレスト (D)なし (E)なし 
(F)原発で事故があり、外に出るのは危険だといううわさを聞いたが、放射能が何なのかよく分かっておらず、同じ年の友人と2人、屋根の上に上がって日光浴をした。4月とは思えないほど暑い日で、長く日光浴はできず、2人とも屋根から下りた。数年後自分は就職を機にブレストへ引っ越したが、友人はそのままピンスクに住み続けた。事故から8年後、友人は28歳で白血病になり入院。治療を受け続け、現在は完治した。
 自分の息子は事故が起きてから13年後の生まれ。10歳のとき、脳卒中を起こして倒れ病院へ運ばれた。脳卒中は子どもに発症する病気だとは思ってもいなかったので、ショックだった。その後心臓の肥大も見つかり、体の右側に麻痺が残ったが、リハビリの結果、再び通学できるまで回復した。それでも当時は字が早く書けなかったり、記憶障害があって、同級生の顔や名前が思い出せず、学校生活を送る上で精神的ストレスを抱えていた。つらい時期もあったが、時間の流れとともに心身ともに改善して安心した。しかし今19歳になった息子の健康状態が突然不安定になるのではないかと、母親として常に健康に気遣っている。


(56)(A)女性 (B)生後2ヶ月 (C)ブレスト州ルィシチツィ村 (D)なし (E)甲状腺がんのため、甲状腺を全摘出。
(F)事故当時、事故のことも放射能のことも知らず、乳母車に乗せられて、戸外でお散歩をしていたと後から母に聞かされた。28歳のとき甲状腺がんのため、甲状腺を全て摘出。ホルモン剤とカリウムサプリを飲み続けている。障碍者認定を受けている。ベラルーシの法律では甲状腺がんで全摘出手術を受けると障害者認定を受けるが、チェルノブイリ原発事故や放射能被曝との因果関係は証明されていないし、それが認定の理由でもない。


(57)(A)女性 (B)5歳 (C)ゴメリ (D)特になし。(E)特になし 
(F)事故が起きてから4年後9歳のときに慢性肺炎になり、心配した父が医者のアドバイスを受け、ウクライナの黒海沿岸地方に一家そろって引っ越した。そこは保養地として有名なところで、庭付きの一軒屋に暮らして、野菜を家庭菜園で作って食べていた。またくるみをよく食べるようにしていた。その結果元気になった。7年間ウクライナで暮らして健康になったので、ゴメリに戻った。その後家族はみんなゴメリに暮らしているが、父は数年前がんで亡くなった。
 自分より11歳年上の兄は甲状腺肥大のためか、とても太ってしまい、性格も怒りっぽくなってしまった。兄の妻は甲状腺がんになって、最近切除手術を受けた。 

(58)(A)女性 (B)24歳 (C)ミンスク、ジェルジンスク (D)なし (E)なし (F)当時ミンスクの大学を卒業してミンスクで暮らしていた。婚約者(後の夫)が足を骨折したので、入院しており、見舞いに行った。二人で病棟の外に出て、病院の敷地内のベンチに座ってしゃべっていた。他にもそんな患者や見舞い客が大勢いた。そのうち、どこかからか「原発で事故があったんだって。」といううわさが聞こえてきた。しかしその場にいた人たちは、「ふーん。」「事故だって。」「チェルノブイリ? どのへん?」というぐらいの反応しかなく、医者からも何も注意喚起などはなかった。
 

ニュース 野生キノコ「サクラシメジ」から基準値超える放射性物質

2018-09-22 | 放射能関連情報
野生キノコ「サクラシメジ」から基準値超える放射性物質・販売施設が自主回収 山形
9/22(土) 18:47配信 さくらんぼテレビ
山形県の大江町と尾花沢市で販売された野生キノコ「サクラシメジ」から、基準値を超える放射性セシウムが検出されたことが分かった。

これは、厚生労働省が9月19日に行なった買い上げ調査で判明した。県によると、大江町の「道の駅おおえ」では、販売していた山形市産のサクラシメジから基準値の3倍にあたる1キロあたり300ベクレルの放射性セシウムが検出された。すでに1箱350グラム入りが6箱販売され、現在自主回収を進めている。

また、尾花沢市の「道の駅尾花沢」で販売していた市内産のサクラシメジからも、基準値を超える放射性セシウムが検出された。こちらの販売は、厚生労働省が調査のため買い上げたものに限られ、他への流通はないという。

県は25日以降に山形市と尾花沢市とその周辺市町から採取した検体を調べ、基準値を超えた場合、採取地の市と町に野生キノコ全てについて出荷の自粛を要請する。

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 このニュースを見て、思ったことの箇条書きです。
・測定して、結果を公表、回収や出荷の自粛を進めようとしているのはすばらしい。
・やはりキノコはセシウムなど吸収しやすいので、注意が必要。
・このキノコを採集した場所は確認できているのか? その場所の放射能を測定するほうがよい。
・福島産の食品が危ないと言われるが、福島産でなければ、安全ということにはならない。
・1キロあたり300ベクレル検出されたキノコでも、ゆでてそのゆで汁を捨てるなどして、放射能を10分の1にすることができる。
 それでも1キロあたり30ベクレル。
 このキノコを「平気、食べられる。」という人と「いや、1ベクレルでも放射能が含まれているキノコは食べられない。」という人に分かれると思う。
 どちらを選ぶかは、消費者次第です。
・別の考え方をすると、後者は理想。(個人が被爆するのを防ぐ。)
 前者は、日本の経済を考えると、手助けになっている。(いわゆる「食べて応援」。日本の景気を支える。)
 
 さまざまな考えがあると思います。
(私の立場としては、念のため定期的にペクチンサプリを飲んで、体内の放射能を排出するのが、安価で実行できる被曝対策だと考え、チロ基金の活動をベラルーシで続けているわけです。)
 
   

チェルノブイリ原発事故から32年

2018-04-26 | 放射能関連情報
 今日でチェルノブイリ原発事故から32年となりました。
 
 1年前はこんな記事を書いていましたね。

 そのときは、セシウム137の半減期がようやく過ぎたもものの、内部被曝量は減っていない・・・と書いていましたが、最近になって、ベルラド研究所が、
「平均すればベラルーシ人の内部被曝量は減少傾向に向かっている。」
と話してくれました。
 ベルラド研究所はもちろんベラルーシ人全員の内部被曝量を測定しているわけではなく、どちらかと言うとかつて汚染地域と言われていた場所の住民の追跡測定を行っています。
 半減期が過ぎてそのデータが集まってきたそうですが、その結果、全体として被曝量が減ってきており、その理由はセシウム137の半減期が過ぎたからだそうです。

 喜ばしいニュースですね。

 しかし、一方、別の見方も持たなくてはいけません。
 まず、ベルラド研究所で内部被曝を測定しているのはセシウム137とカリウム40だけです。
 (日本では半減期が2年のセシウム134も測定する方がいいです。)

 事故直後のように内部被曝量が体重1キロ当たり1000ベクレルといったようなベラルーシ人はもういないので、平均値を取ると、当然ベラルーシ人の内部被曝量が減ったように見える。
 食品からによる生体濃縮は続くので、目立つ数値の内部被曝はないものの、低被曝者はまだまだ大勢いるという予測です。

 長期間にわたる低い量の内部被曝が、どれだけ人体に悪影響を及ぼすのか、明確ではない。
 どうして明確でないかと言うと因果関係をはっきり証明できないからです。(「ガンになってしまった。それは被曝したから。」と断言できない。他の要因も考えられるため。)研究している人も少ないです。

 ベラルーシではチェルノブイリ原発事故後、子どもの1型糖尿病が増えましたが、被曝との因果関係を研究している人がいないので、「関係しているかどうか分からない。はっきりしない。だから断言できない。」という状況がずっと続いています。

 ともかくチロ基金としてはベルラド研究所とSOS子ども村の定める基準、子どもの場合、体重1キロ当たり20ベクレル以上の内部被曝はリスクがあると考え、支援活動を可能な限り続けていこうと考えています。



 
 

7年目ですね

2018-03-11 | 放射能関連情報
 東日本大震災が発生して7年になります。
 福島第一原発で事故が起きたのは3月12日で、少し早いのですが、ベラルーシに住んでいる私が思っていることを書きます。

 去年の夏、日本ベラルーシ友好派遣団に参加した高校生のWBC測定の通訳をすることができました。

 詳しくは「日本ベラルーシ友好派遣団に参加した高校生のWBC測定結果について保護者の方へ」をご覧ください。

 この記事では書きませんでしたが、この高校生は甲状腺と心臓の検査も受けており、複数名に異常が見つかりました。多くは良性だと思いますが、もし、悪性に変化したりするとよくないので、日本に帰ってから、精密検査を受けるように、とベラルーシの医師から診断書をもらって帰国したのです。
 
 その後、どうなったのか関係者にきくことができました。
 保護者が子どもを連れて、日本の医者に連れて行くと、
「それはベラルーシの基準ですよ。ベラルーシは基準が厳しいからそんなおどかすようなこと言ってるんです。日本人には日本の基準でいいんですよ。心配しないで。」
と一笑に付され、検査も治療も誰も受けていないそうです。

 保護者も「そうなんだ、ああよかった。」と一安心。
 確かに誰でも「あなたのお子さん、悪性腫瘍できてますよ。」という台詞を聞くより「何の心配もないですよ。」という台詞を聞きたいと思っています。

 こういう状況を見ていて思ったことです。
 ベラルーシの医者は「ある意味においてチェルノブイリ原発事故を経験したわれわれは甲状腺の病気に関してはエキスパートになったという自負がある。わざわざ日本から高校生がベラルーシへ甲状腺の検査に来たんだから、ちゃんと見てあげよう。アドバイスしよう。しかし経過観察には時間がかかる。続きは日本の医師にたくしてもらおう。」と思っていて、

 間に入って通訳をしている私などは、
「日本の病院の方が検査機器のレベルも高いと思いますよ。日本人にとってヨウ素剤がどれぐらい必要なのかきちんと知っているのは日本人のお医者さん。日本語も通じるし、帰国したら、病院で再検査をうけましょう。」などとアドバイス。

 日本の医者は、「ベラルーシの基準で日本人の検査結果を見たって無意味。いたずらに怖がらせないで。」と思っている。

 日本人の親は親で、自分の子どもは健康なんだと思い込みたいので、そういう言葉をかけてくれる医者の言うことには耳を貸す。自分の心の安定のため。

 ・・・このような考えの間で結局たらいまわしにされている日本人の子どもたち。甲状腺に線種やのう胞がすでにあるのに・・・

 何のためにわざわざベラルーシへ来て、WBCや甲状腺の検査を(ベラルーシ側の厚意で無料で)受けることができたのか、よく分かりません。

 チェルノブイリ原発事故からの教訓とか前例とか、日本人にとっては教訓でも前例でもないんですよ。

 ・・・とネガティブなことを書きましたが、それでも・・・と思います。
 それでも、私は私ができることをするしかありませんね。

 先日NHKスペシャル「被曝の森2018」という番組を見ましたが、特に林業の方々が、100年かけて大木に育ててきた木が、放射能汚染されていることがわかり、材木として出荷するのももう無理・・・同じ場所で放射能がぐるぐる循環しているので、今植えた木も汚染しながら生長し、この方々の子孫につなげる林業はもうできない・・・と話していました。
 本当に気の毒ですが、リグニンを吸着剤として使って、土壌から木のほうへ放射能が移行しないようにする、といった方法はないの? とも思いました。

 この方法については、このブログ上でも投稿しているし、宇都宮大学での講演でもお話したのですが、日本では実験されていないのかなあ、と思いました。
 ベラルーシでは(もしかするとこれは今のウクライナ領内の話かもしれませんが)森林の除染をリグニンの空中散布の実験をして、成功しているんです。
 ただ、汚染された森の面積が広大すぎて、実用はされませんでした。
 日本だったら、林業をやっているところだけでも・・・と思うのですが。

 まあ、チェルノブイリ原発事故からの教訓とか前例とか、日本人にとっては教訓でも前例でもないんでしょうけど。
 昔と違ってインターネットもある時代なんだから、とベラルーシから情報発信しているつもりではありますが、ときどき、幅の広い川の岸から向こう岸に向かって、「おーい、おーい。」と叫んでいるだけのような気持ちになることもあります。


日本ベラルーシ友好派遣団に参加した高校生のWBC測定結果について保護者の方へ

2017-08-06 | 放射能関連情報
 2017年7月22日から8月3日までベラルーシに滞在した日本ベラルーシ友好派遣団2017に通訳として参加しました。
 このプログラムに参加した50名の日本人高校生はベラルーシの保養施設で健康改善プログラムを受け、内部被曝量をWBCで測定しました。
 通訳としてそれに立会い、また結果についても翻訳してほしいと私は頼まれたのですが、諸事情により、「これではWBCの測定の結果がきちんと本人ならびに保護者に伝わらないだろう。」と感じました。
 そのため、ここで記事を書いてみたいと思います。

 ベラルーシ側から滞在予定のプログラムを渡されたときに、WBCで日本の高校生の内部被曝を測定する予定が、滞在のほとんど終わりの頃に予定されていることを知ったとき、ちょっとびっくりしました。
「日本人側から断る人はいませんでしたか。」
と私がきくと、ベラルーシスタッフは、
「いいえ。去年来た子どもたちも拒否することなく、普通に受けていましたよ。」
と話していました。
 私は2011年に仙台からベラルーシへ子どもたちが保養に来るとなったときの日本側の反応(測定の拒否)のことを覚えていたので、意外に思いました。
 時間が経ち、日本人側の意識も変わったのだな、と感じました。
(2011年の仙台市役所の反応についてはこちらにまとめてあります。) 

 さて、実際にWBCによる測定が始まると、日本の子どもたちの中に拒否する子や、
「両親から測定したらダメと言われている。」
などと言い出す子は一人もいませんでした。
 測定を担当したのはベラルーシ国境警備隊の移動車に積んだタイプのWBCでした。
 順番に身長体重も測定。しかし氏名は尋ねない・・・
 測定を担当した人は、
「結果はまとめて一覧表にして、ファイルにしたものを保養施設の医師に渡しときますよ。」
と言うので、ああ、個別に個人情報がもれないように封筒に入れて渡すとかしないんだな、と思いました。
 
 丸一日経過し、やっと医師がプリントアウトしたものを持ってきて、
「はい、これ訳しといて。」
と私に渡しました。しかし、それは私からすればとんでもないものでした。

(1)全員の分の結果がなかった。引率の先生も含め60人が測定したのに24人分しかない。医師に質問すると、
「私は国境警備隊の測定班からもらったデータをプリントアウトしただけだから。」
という返事。

(2)この24人の氏名が全員「MIYAGI」さんになっていた。宮城県から来た人が多かったためと思われる。確かに個人情報の流出という観点からすると、絶対にばれないです。しかし、具体的に
「せひとも私の測定結果を教えてほしい。」
という場合には結果を答えられない。
 一方、身長と体重は記載されているので、それで何とか誰の結果か判断することはできそう。ただし、身長体重が全く同じという高校生はたくさんいます。
 ちなみに性別も記載なし。性別による手がかりもないということです。
 年齢も住んでいる場所の記載もなし。
 日本の高校生を材料にしてベラルーシ側がデータ集めに利用しているのでは?といった穿った見方をする方も引率者の中にはいたようですが、そうとはとても思えないざっくりしたデータ集めです。
 ベラルーシ側に後ろ暗い目的があるとはとても思えません。

(3)測定したのはセシウム137とカリウム40だけ。セシウム134の結果は反映されていません。
 合計数でいいからセシウム被爆量を測定してほしかった。
 チェルノブイリ原発事故で30年以上経過したベラルーシではセシウム134の測定には無意味(検出されない)なので、測定もセシウム137だけ対象、になっているもよう。しかし福島第一原発事故から6年しか経過していない日本人の測定はセシウム134の測定もしてほしかったです。
 つまりここには事実より少ないセシウム被曝量が出ていると思います。
 さらには一覧表と言っても、単位が表記されていないという(科学的な見地からすると)おそまつなものでした。作成した人たちは一目で分かるんでしょうけど、一般人からするとそれぞれの数字が持つ意味が分かりません。

(4)仕方ないので、セシウム137の数値を見てみますが、一応24人それぞれの体全体の被曝量と体重1キロあたりの被曝量が記載されていました。(この点は評価できますね。)
 その結果ですが、体重1キロ当たり3.0ベクレルから3.5ベクレルの間にこの24人が収まっていました。
 つまり同じレベルということです。しかも体重1キロ当たり3ベクレル代なんて、すごく低数値で安心しました。健康被害が出るものではないです。よかった! ペクチンサプリも飲まなくていいぐらいですから。
「いや、3ベクレルでも被曝は被曝だ!」
とびっくりする日本人もいるかもしれません。
 しかし、そういう方は、こちらのベラルーシ人の内部被曝量をまず見てください。
 平均すればベラルーシの子どもたちの10分の1ぐらいです。
 もっともセシウム134の被曝量は分からないので、実際には3ベクレルより少し上の被曝量だと思いますが、だからと言って、体重1キロ当たり合計20ベクレルになるというのは考えにくいです。

(5)カリウム40の測定量も体全体と体重1キロあたりの数値が記載されていました。しかし単位がベクレルだったので、グラムでいつも判断している私の脳では換算できず、数字持つ意味が分からなかったです。(今度ベルラド研究所で換算方法をきいておきます。しかし算数が苦手な私ができるだろうか。)

(6)測定員は口頭で、
「異常のある子はいなかったよ。」
 保養施設の医師も、
「異常のある子はいませんよ。そう引率者に言っておいて。」
と気楽な感じで私(通訳)に言っていました。
 私から引率者(高校の先生方)に一覧表を見せながら、上記(1)から(5)のことを説明しましたが、先生方も、
「あ、そうですか。じゃあ、異常なしと保護者にきかれたら言っときます。」
と気楽な返事で、
「この一覧表、お渡ししましょうか。」
と私が差し出しても、
「いえ、いいです。いりません。」
 見たってどうせ分からないし、(本人や保護者に説明するやる気ゼロ?)という態度だったので、測定結果の一覧表は今、私の手元にあります。

 他人の私が見てももちろん個人を特定できませんので、別にいいのですが、もし、保護者の中で内のこの結果を教えてください!という人が出てきたときに、引率者が、
「測定結果を印刷した紙はベラルーシに置いてきました。」
と答えて大丈夫なものなんでしょうか?
 一方で、「いやあ、結果ですか? ベラルーシ側からもらってないんですよね。」などという嘘を先生がつくと、通訳である私が渡さなかったことになり、私に責任があると思われかねないので、このブログに事実を書いておきます。

 高校生のお子さんをこの保養プログラムに送り出した保護者の皆さんへ。
 私も高校生の親で、しかも2002年からチェルノブイリの子どもたちを支援するボランティアをしている人間ですから、ここに書いておきます。
 WBCの測定は全員受けました。詳細は上記のとおりです。
 残念ながら、残りの36人の結果は分かりません。しかし、60人中24人のセシウム137の測定結果が体重1キロあたり3ベクレル代ばかりであったことを考えると、残り36人の中に、一人だけ突然20ベクレルとか100ベクレルとか突出した数値が出てくるとは考えにくいです。
 つまり、60人全員体重1キロあたり3ベクレル代である可能性が非常に高いです。
 ですから、安心してください。

 どうしても自分のお子さんが測定結果が具体的に知りたいという場合、さらにお子さんがこの一覧表の24人の中に含まれている場合は、何とか身長体重で推測できるとは思います。その場合は私までメールでお問い合わせください。引率した先生方は保護者の方からの質問に答えることができません。結果の一覧表を受け取らなかったのですから。しかし、私は自分の被曝量は自分が知る権利があると考えます。
 

<被ばく>体内に総量36万ベクレルか 原子力機構事故

2017-06-08 | 放射能関連情報
<被ばく>体内に総量36万ベクレルか 原子力機構事故

日本原子力研究開発機構の大洗研究開発センター(茨城県大洗町)で放射性物質が飛散して作業員5人が被ばくした事故で、肺から2万2000ベクレルのプルトニウム239が検出された50代の男性職員について、同機構が男性の体内に取り込まれた放射性物質の総量を36万ベクレルと推定していることが8日、分かった。同機構などはさらに詳細な被ばく状況を調べている。

原子力機構によると、男性職員の肺の被ばく値から、血液や骨、臓器など体全体に取り込まれた放射性物資の総量を算出し、36万ベクレルと推定した。この数値は1年間で1.2シーベルト、50年間で12シーベルトの内部被ばくを見込む根拠になったという。

 5人は燃料研究棟の分析室で核物質の点検中、ステンレス製容器を開けた際に中に入っていたビニール袋が破裂し、粉末状の放射性物質が飛散。男性職員を含めて4人が放射性物質であるプルトニウム239やアメリシウム241を肺に吸い込み内部被ばくした。破裂した原因はわかっていない。

 5人は搬送された放射線医学総合研究所(千葉市)で放射性物質の排出を促す薬剤投与などの治療を受けているが、現時点で体調不良などの訴えはないという。原子力機構などは詳しい内部被ばく状況や健康影響などを調べている。【鈴木理之】


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 作業員の一人の方の被曝量、総量が36万ベクレル、つまり全身でそれだけの被曝量、ということです。
 チロ基金としては支援活動をしているときに、いつも体重1キロ当たりおよそどれぐらいの被曝量だったのかを目安に、ペクチンサプリを無料支給しています。
 この方の体重が分からないのですが、仮に体重100キロとしたら、体重1キロ当たりの被曝量は3万6千ベクレルですか・・・

 チロ基金では未成年は体重1キロあたり20ベクレル以上だと将来健康被害が出るリスクが高いとして、ペクチンサプリであるビタペクトを渡しています。
 成人の場合は、体重1キロあたり70ベクレルです。
 これはかつてベルラド研究所が医師と内部被爆測定と健康診断を同時に多くのベラルーシ人に対して行った時の結果を元に独自に決定したものです。
 チロ基金は子の基準を採用して支援活動を行っています。

 一方、ベラルーシ保健省が定めた基準は、未成年が体重1キロあたり200ベクレル、成人が500ベクレルです。
 これ以下の場合は、「大丈夫。普通。」というのが、ベラルーシ保健省の見解です。
 チェルノブイリ原発事故から30年以上経過した現在、ベラルーシ人は公式には全員、「大丈夫」ということになっています。

 さて、このようなベラルーシ保健省の基準に照らし合わせても、今回の被曝した作業員の方の被曝量は、「大丈夫」ではない、ということです。

 今は症状に自覚がないと言っていても、こまめにガンの検査をするとか、この方のケアをお願いします。他の四人の方もお願いします。



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このニュースの続報です。

<茨城被ばく>過大評価か 肺測定でプルトニウム検出されず


日本原子力研究開発機構大洗研究開発センター(茨城県)の被ばく事故で、原子力機構は9日、放射線医学総合研究所(放医研、千葉市)で被ばくした作業員5人の肺の放射性物質を再測定した結果、プルトニウムが検出されなかったと発表した。体の表面に付着した放射性物質を誤検出し、内部被ばく量を大幅に過大評価していた可能性があるという。

 この事故では、原子力機構が事故直後、体から出てくる放射線を計測し、肺の内部の放射性物質の量を推計した結果、50代の男性作業員から2万2000ベクレルのプルトニウム239が、この男性を含む4人の作業員からは8・5〜220ベクレルのアメリシウム241が検出されたと発表した。

 しかし原子力機構によると、この測定は体の表面の除染が不十分なまま行われ、体に付着した放射性物質から出る放射線を検出していた可能性があるという。一方、放医研は入念に除染をした後に肺を測定している。

 5人のうち3人は鼻の穴から放射性物質が検出されており、内部被ばくの恐れは依然として残るが、同機構は9日の記者会見で「最初のような大きな値の内部被ばくはないのではないか」と話した。

 放医研は今後、肺の再測定や排せつ物に含まれる放射性物質の調査などを基に、被ばく量を精査する。

 原子力機構は同日、作業をしていた室内の床に多くの黒い粒子が飛び散っていることも明らかにした。黒い粒子は放射性物質である可能性が高いという。【酒造唯、鈴木理之】


毎日新聞2017年06月09日20時57分

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 よかった・・・。被曝量は少なければ少ないほどいいですよ。
 しかし、全く被曝してないわけはないので、ぜひとも細かく測定して、対応してあげてください。お願いします。