ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

函館のゴシケーヴィチの胸像はどこにあるの?

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ここまでベラルーシにあるゴシケーヴィチの記念碑を見てきましたが、日本にもあるのです。
 それは1989年5月に函館に建てられました。(ロシアの彫刻家オレグ・コモフ製作)
 画像はロシアで発行された雑誌「今日の日本 Япония сегодня」1998年6月号の写真です。
 盛大に除幕式が行われたようです。参列したのは当時のソ連大使や彫刻家、高田嘉七さんも参列した(はずです。)
 
 今回スモリク先生とゴシケーヴィチの記事を書くことになり、できたら函館にあるほうのゴシケーヴィチの胸像の写真も掲載したい、ベラルーシの読者は感動するだろう・・・ということで、函館のゴシケーヴィチの胸像がどこにあるのか調べてみました。
 しかし、ネットで検索しても全く見つかりません・・・(土方歳三の銅像はすぐにヒットするけど。)
 
 この除幕式の写真ではきれいに掲載されないだろうし、だいたいロシアの雑誌に掲載された写真を使用するのもよくないので、何とかして自力で探し出して、函館側の協力を仰ごうと思っていたのですが、どこにあるかも分かりませんでした・・・。

 その後、この胸像は函館市内の広場にどーんと飾られているのではなく、高田屋嘉兵衛の子孫が運営している私立博物館の内部にある、ということがマラジス先生の記事を読んでいて気がつきました。
 ベラルーシ文化研究所のマラジス先生は2001年に来日していて、高田嘉七さんにもお会いしており、そのときゴシケーヴィチの胸像を見せてもらった、とあります。

 ということは、「北方歴史資料館」か「箱館高田屋嘉兵衛資料館」の中にゴシケーヴィチの胸像がある、ということになります。
 どなたか、ご存知の方はいませんか?
(それにしても高田嘉七さんが亡くなられたのが非常に残念です。) 

 函館のブログなども検索したのですが分かりませんでした。もし私の友達や親戚が函館に住んでいたら、ちょっと見に行ってもらうところなのですが、そのような知人がおりません・・・。

 結局、記事の締め切りは過ぎてしまったので、今回函館のゴシケーヴィチの胸像の写真掲載は見送りました。
 でも2年後には生誕200年ということで、来年からさまざまなプロジェクトが発進すると思います。出生地とお墓の場所を確定するための学術的調査も始まるでしょうし、当然函館の胸像のことも話題になると思うのですが、日本人の私が今ある場所も分からないのです。

 もし、このブログをご覧になった方で、ゴシケーヴィチの函館の胸像について、設置している場所などをご存知の方、ベラルーシのTまでどうかご一報ください。



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 私も近いうちに上記の資料館に何とか問い合わせしてみようと思っています。
 (私が今日本に住んでいたら、もっと簡単に事が進むのですが、1万キロも離れたベラルーシに住んでいるので、なかなか大変です。)


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 追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。  

マリへの旅 7

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 マリ村のバス停です。これもゴシケーヴィチの記念碑のすぐそばにありました。
 マリ村についにやってきたなあ、と思いました。そしてこんなに日本とゆかりのある場所がベラルーシにあったとは、ととてもうれしくなりました。
 またゆっくり訪問したいです。
 日本文化情報センターとしてもこれから協力していきたいと考えています。

マリへの旅 6

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 そしていよいよマリ学校のすぐ裏手にあるゴシケーヴィチの記念碑へ・・・!
 本当に学校のすぐそばにありました。
 これが高田嘉七さんが除幕式に参列したというマリ村にあるゴシケーヴィチの記念碑です。
 ゴシケーヴィチの横顔のレリーフが岩に組み込まれています。
 両脇のも石がありますが、左側の石には
「マリ村に生き、そしてこの世を去ったロシア初代日本領事であり、学者であり、啓蒙家であったヨシフ・ゴシケーヴィチ」とあります。
 右側の石には彫刻家の名前。
「R.グルーシャ。マリ村に寄贈。」
とあります。

 この記念碑を毎日見ながら登下校する子どももいるのですね。
 ゴシケーヴィチが余生を過ごした家は現在は残っていませんが、その基礎部分は残っていることが最近の研究で分かりました。
 またゴシケーヴィチが「日本語の起源」を執筆していたことを考えると、日本語に関する資料文献を持っていたのは間違いありません。
 その貴重な資料は息子が譲り受けたのですが、その後ロシア科学アカデミー東洋学研究所が息子から買い取り、現在もペテルブルグの書庫で保管されています。

 

マリへの旅 5

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 記念室には「マリ村の七不思議」という展示もありました。
 その3番目がゴシケヴィチでした・・・。
 お話をしてくれた先生は、数年前調査団がマリ村に来てゴシケーヴィチの墓を調べに来たそうです。
 ウイキペディアなどではリトアニアのビリニュスに埋葬された、ということになっていますが、これもはっきりしていません。
 ゴシケーヴィチはマリ村で亡くなったのは間違いなく、この村の教会墓地に埋葬されたのですが、その後息子が当時自分が住んでいたビリニュスへお墓を変えたそうです。
 どうしてお墓を移したのかと言うと、「自分が住んでいる町にお墓があるほうが墓参りしやすい。」と思ったか、あるいは
「父はロシアの初代日本領事にまでなったのに、死後村の人と同じ墓地に眠るのは、かわいそうだ。ビリニュスに身分の高い人たちの墓地があるから立派な墓を建てよう。」と思ったか・・・でしょう。
 
 江戸時代の日本のようにロシアにも身分制度があったのです。ゴシケーヴィチとその妻は日本からの帰国後、功績が認められ、身分が上がりました。
 以前は無名の神父の息子、ということで、身分が低かったのですが、日本での働きにより、貴族の身分になったのです。
 それが小さい村の墓地に他の村人といっしょに葬られている、ということが息子はいやだったのかもしれません。

 この息子(名前は同じヨシフ)も学者となり、リトアニアで本を出版しています。父親の「日本語の起源」を出版するために尽力したのも息子でしょう。

 ではビリニュスのどこにゴシケーヴィチの墓はあるのでしょうか?
 息子の墓は今でもリトアニアのリポフカというところにあるロシア正教徒が眠る墓地にあります。ということは父親の墓も同じ墓地内にあるのではないか、と思われます。
 しかし、今のところどこにもありません。

 ということは、もしかすると息子は墓を移したかったができず、今でもゴシケーヴィチの墓はマリ村にあるのではないか? という推測もできます。
 そこで数年前、ベラルーシの調査団がマリ村にやってきて発掘調査をしました。
 ゴシケーヴィチのものと思われる墓を開けたのです。
 すると中身は空っぽ・・・。お棺すらありませんでした。
 
 マリ村の住民が自分のご先祖の墓を開けて、中身をどこかへ持っていく、ということは考えにくいので、やはりこの墓はゴシケーヴィチの墓であり、息子がビリニュスへ墓を移した、というのも真実であろう・・・という結論に達しました。

 というお話をマリ学校の先生から伺いました。
 やっぱりゴシケーヴィチは今ビリニュスのどこかに眠っているはず・・・それはどこなのか、とスモリク先生は考えてしまいました。
 スモリク先生はリトアニアまで探しに行きたいと話していましたが、なぜかベラルーシ人はリトアニアの入国にビザが必要なのです。それに闇雲にリトアニア中の墓地を探し回るわけにもいかないので、リトアニア人の強力も必要です。
 でももし見つかったら、リトアニアまで行ってみたいです。(私は日本人なので、リトアニアのビザはいりません。何だか変な感じですよね。)

マリへの旅 4

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 そしてこの学校の中にも狭いのですが、記念室がありました。学校の歴史や第二次世界大戦下のマリ村などの展示がありました。そしてやはりここにもゴシケーヴィチがいました!

マリへの旅 3

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 このようにスライドでゴシケーヴィチのことを紹介しています。
 地元の人たちの誇りなのですね。
 そして学校へお客さんが来るとこのスライドを見せて、一生懸命語っているわけです。
 生徒さんたちへの教育としてもすばらしいですよね。

マリへの旅 2

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 やはりこの学校でも生徒さんが学校の紹介などをしてくれるのです。そしてとても慣れています。
 もちろんゴシケーヴィチのことも紹介してくれました。 
 日本人だからというだけでこんなに歓迎してくれて、かえって恐縮です。でもいつかまたこの学校へ行きたいです。