ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第137回」

2012-07-31 |   ビタペクト配布活動
 7月30日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第137回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクト3を10個、そして「放射能と栄養」のコピーを10部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は1937個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは1760部となりました。
 今回で通算148回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、1937人の子どもにビタペクトを、1760家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a



 今回はミンスク(チェルノブイリ原発から350キロ)から2家族が保養滞在していました。それぞれの家族のお母さんにお話をうかがいました。

(家族A)
 
 お母さんが7人の子どもを引率していました。この家族には5個のビタペクト3を渡しました。 
 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクト3を渡しました。
 
母親(事故発生時8歳)11ベクレル
長男(14歳)19ベクレル
次男(14歳)30ベクレル ○
三男(13歳)21ベクレル ○
長女 (9歳)36ベクレル ○
四男 (7歳)26ベクレル ○
五男 (5歳)28ベクレル ○
六男 (2歳)29ベクレル

 長男と次男は双子です。
 六男は3歳以下であるためビタペクト3を渡すことができませんでした。
 子どもたちの健康状態についてお母さんにお話をうかがいました。

 長女は幼いときからよく病気をしていましたが、だんだんよくなってきて、今は喘息だけが残っているそうです。
 三男は成長ホルモンの異常のため、身長が伸びません。そこで今はホルモン剤を定期的に服用しており、その間は身長が伸びるそうです。
 ベラルーシではこのような病気は以前は非常に珍しかったのですが、現在は患者数が増えており、1つの病院につき、この病気の子どもが必ず複数は通院していると、担当医が話しているそうです。
 しかしよいホルモン剤が今はあるので、あまりお母さんは心配していませんでした。ホルモン剤投与のおかげで今は普通の身長になっっています。

 それより私が驚いたのは長男と次男の双子です。顔がそっくりで一卵性双生児であることはまちがいないのですが、身長差がありすぎるのです。画像で言うとお母さんのすぐ隣にいるのが次男で、その隣にいるのが長男です。
 双子だから身長が全く同じでないといけないわけではありませんが、この2人は差がありすぎると思いました。(10センチは違いがあると思いました。)
 お母さんは三男にはホルモン剤をあげているのに、長男の身長のほうは心配していないようでした。

 他の子どもたちは健康だと言うことでした。
 お母さんはベラルーシの生まれではなく、チェルノブイリ原発事故当時被曝などはしていません。しかし事故が起きて2年後の10歳のときにゴメリ州ジロービン(チェルノブイリ原発から約170キロ)へ引越ししました。
 その後ミンスクで暮らしており、子どもたちもミンスク市内の生まれです。

 お母さんはミンスクで暮らしているので、六男が3歳以上になったら、ベルラド研究所へビタペクト3を買いに行きたい、と話していました。


(家族B)

 お母さんも7人の子どもを引率していました。この家族にも5個のビタペクト3を渡しました。 
 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクト3を渡しました。
 
母親(事故発生時8歳)8ベクレル
長女(12歳)44ベクレル ○
長男(10歳)23ベクレル ○
次女 (8歳)39ベクレル ○
次男 (7歳)31ベクレル ○
三男 (5歳)31ベクレル ○
四男 (3歳)26べクレル
五男 (1歳)21ベクレル

 お母さんのお話によると5歳の男の子によく分からない皮膚病ができていて、近いうちに専門病院へ行って検査するそうです。粉がふいたようになっているそうです。
 他の子どもは健康ということでした。
 このお母さんはウクライナの出身で、チェルノブイリ原発からは300キロぐらい離れた村の出身だそうです。
 長女はウクライナ生まれです。この長女は生まれたときから目の下にクマがあり、12歳になった今も一度もクマがとれたことがないそうです。
 44ベクレルと今回結果がよくなかったのも、「この子だけウクライナ生まれだから?」とお母さんは心配していましたが、おそらく関係ないでしょう。
 事故発生から26年も経っているので、子どもの被曝は食べ物によるものがほとんどなので、生まれた場所は関係ないと思います。 

 お母さんは長男を妊娠しているときにベラルーシへ引越ししました。
 そのため子どもたちは長女以外ミンスクの生まれです。
 お母さんは五男妊娠中に甲状腺の異常を医者から指摘されました。ベラルーシでは妊娠すると、いろいろな検査を受けますが、その中で甲状腺の検査も妊娠初期に行われます。
 触診のみの検査ですが、異常が発見されても、妊娠中は甲状腺の治療をするのは控えないといけないので、出産後再び詳しい検査を受けることになっています。
 しかし子育てに忙しく、まだ病院へ行っていない、というお母さんの話でした。お母さんの健康も子どもたちにとって大切なので、早めに検査するほうがいいのでは? と話をすると、「保養から帰ったら病院へ行きます。」と言っていました。
 
 子どもの健康も大事ですが、お母さん世代の健康も大事です。
 お母さんのふるさとの村ですが、ご両親がそこで暮らしています。70代のご両親は健康ですが、村民にいろんな病気の人が増えてきたそうです。一番多いのガンで、しかも若い世代で病気になる人が増えた、ということでした。
 その状況はいつ頃始まったのですか? と尋ねると
「2年前から急にです。」
ということでした。
 と言うことは事故が起きてから24年後に急に病人の人が増えた、しかも事故当時幼かったか、まだ生まれていなかった世代が病気になっている、ということです。
 これはウクライナのある村の状況です。でもやはりベラルーシと大きな差はないと感じました。

 また今回の測定結果を見て、10年前は
「ミンスク市民の平均被曝量は8ベクレルぐらい。」
というベルラド研究所のデータを思い出しました。
 それと比べると、現在はその平均も遠い昔になったと思いました。
 チェルノブイリ原発からの距離や汚染地域に指定されているかどうかは、あまり関係なく、内部被曝が広がっている、というのが私の実感です。

  画像は記念撮影の様子です。家族Bの末っ子ちゃんはお昼寝中で写っていません。
 
 子どもたちとお母さんには折り紙用の紙、折鶴、アクリルたわしなどをプレゼントしました。
 日本についてのお話など、日本の紹介もしました。特に日本語への関心が高く、質問がたくさん子どもたちのほうから出ました。
 子どもたちの名前を日本語で書いて渡すと、興味深々という感じでまたたくさん質問されました。
 日本語は難しいのですが、将来こういう子どもたちの中から、日本とベラルーシ友好のために活躍する人材が出てくるかもしれません。
 
 最後になりましたが、ビタペクト3の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙や手作りのアクリルたわしなどプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に、深くお礼申し上げます。
 多くの方々に支えられて、この活動が続いています。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

オストロベツに原発が建設されます

2012-07-29 | 放射能関連情報
 帝政ロシアの初代日本領事だったヨシフ・ゴシケーヴィチが人生最後の月日を過ごしたオストロベツ地区。
 その行政の中心にあるオストロベツ市は人口9000人の町です。
 4年後、2016年にオストロベツ市から30キロ離れたリトワニア国境に近いところにベラルーシ初の原発が建設予定です。
 10年ぐらい前からベラルーシで原発を造る話は出ていたのですが、その候補地がころころ変更し、定まっていませんでした。
 しかしとうとうオストロベツに建設が決定、今年から作業が始まりました。
 オストロベツ市内には原発作業員が将来居住する予定の団地の建設が始まり、ゴシケーヴィチの胸像を見に行く途中、その工事現場のそばを通り過ぎましたが、暗い気持ちになりました。
 原発が完成し、関係者がオストロベツ市に住むようになると、人口は3万人になると予想されています。
 市にとって経済的な効果はもちろんあると思いますが、もし事故が起きたら・・・と複雑です。

 市民の間で原発反対の運動はありません。心の中では反対、と思っている人はいるでしょうが、具体的な反対運動はありません。
 逆に国境を越えたリトアニアが反発しています。
 しかし、ベラルーシ国内で建設する原発なのですから、リトアニア人が反対しても、ベラルーシ政府はそれを聞く必要はありません。

 そもそもリトアニアにはベラルーシ国境すぐそばにイグナリナ原発がありました。やはり生態系が乱れる、などの理由でベラルーシ側の環境保護団体がリトアニア側に抗議したこともありましたが、もちろんベラルーシ人の意見をリトアニア政府がきく必要はありません。

 イグナリナ原発は70年代にソ連政府により造られた原発で、2009年には操業停止となりました。原発依存度80%の国であったため、電気料金はその後、家庭向けが30%企業向けが20%値上がりしました。

 現在は新しい原発をリトアニア政府は建設する予定です。、イグナリナ原発と全く同じ場所でヴィサギナス原発と言います。
 しかも沸騰水型軽水炉を建設するのは日本の日立の予定です。

 そんなわけで、リトアニア人がベラルーシに文句を言おうがお構いなしに、ベラルーシはベラルーシの原発を造る、ということになっています。
 ベラルーシ初の原発については日本が造る、という話もありましたが、結局ロシアが建設を開始しました。
 ロシアの最新技術を使い、安全は保障付き。絶対大丈夫、と住民には説明しているそうです。

 確かにエネルギー資源がほとんどなく、石油に天然ガスをロシアからの輸入に全面的頼っている国です。寒くなってきてそろそろ暖房がほしくなってきたなあ、と思う頃に、ロシアから石油や天然ガスの価格引き上げが通告され、政経ともに(国民の心理も)きりきり舞いになる・・・という状況がずーーっと続いているのです。
 自国内で電気を起こすことができるようになれば、ロシアにエネルギー依存しなくていいし、(ロシアとベラルーシの対外関係も変化する可能性がありますね。)こんないい話はない、というのがベラルーシ側の考えです。

 それはそれで分かるのですが、どうしても考えてしまうのは、もし原発で事故が起こったら・・・です。
 風向きによってはリトアニア領が汚染されて、ベラルーシは被害が少なかった、ああ、よかった、ということもありえます。
 でも風向きなんて、どうなるのか神のみぞ知る・・・

 ゴシケーヴィチゆかりの地が、避難地域になってしまったらどうしたらいいのか・・・。立ち入り禁止地区になったら、ゴシケーヴィチの胸像ももう見に行けないではないですか。
 美しいマリ村も無人の地になってしまうかもしれません・・・。
 ベラルーシで一番親日家の多い(と思われる)この場所が放射能に汚染されるようなことになったら・・・。

 事故が起きないことを祈るばかりです。 

函館のゴシケーヴィチの胸像についてマリジス先生にききました

2012-07-26 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 「函館のゴシケーヴィチの胸像はどこにあるの?」という記事を公開しましたが、翌日知り合いのフォトジャーナリストのところへ用事があって出かけたら、そこでベラルーシ文化研究所のマリジス先生にお会いしました!
 何というタイミング・・・!
 そこでマリジス先生に函館を訪問したときのお話を伺いました。

 それによると高田嘉七さんに案内された資料館の2階にゴシケーヴィチの胸像があったそうです。
 でも高田屋嘉兵衛の子孫が運営している私立博物館は「北方歴史資料館」と「箱館高田屋嘉兵衛資料館」の二つあるので、どちらですか? と質問したのですが、訪問したのが2001年なので、はっきり覚えていないようでした。
 でもその資料館の壁は白壁だった、というお話でしたので、箱館高田屋嘉兵衛資料館のほうらしい、と分かってきました。

 その2階に胸像があったのですが、マリジス先生はわざわざゴシケーヴィチが住んでいたオストロベツで職人さんが手作りした刺繍入りの長い布を持参して、胸像の肩に斜めがけしてきたそうです。

 今でもそのような状態で胸像が設置されているのかどうか分かりません。
 高田嘉七さんはマラジス先生に
「将来は全身像をつくり、函館市内の屋外に設置したい。銅像の傍らにはゴシケーヴィチが乗ってきた船の像も設置する予定です。」
と話したそうです。しかしこれは実現していません。

 とにかく胸像がどこにあるのかだけでも確認したいと思っています。
 近いうちに箱館高田屋嘉兵衛資料館に連絡を取りたいと思っていますので、無事函館のゴシケーヴィチの胸像が見つかりましたら、このブログ上でご報告いたします。
 

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 追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。  
 

函館のゴシケーヴィチの胸像はどこにあるの?

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ここまでベラルーシにあるゴシケーヴィチの記念碑を見てきましたが、日本にもあるのです。
 それは1989年5月に函館に建てられました。(ロシアの彫刻家オレグ・コモフ製作)
 画像はロシアで発行された雑誌「今日の日本 Япония сегодня」1998年6月号の写真です。
 盛大に除幕式が行われたようです。参列したのは当時のソ連大使や彫刻家、高田嘉七さんも参列した(はずです。)
 
 今回スモリク先生とゴシケーヴィチの記事を書くことになり、できたら函館にあるほうのゴシケーヴィチの胸像の写真も掲載したい、ベラルーシの読者は感動するだろう・・・ということで、函館のゴシケーヴィチの胸像がどこにあるのか調べてみました。
 しかし、ネットで検索しても全く見つかりません・・・(土方歳三の銅像はすぐにヒットするけど。)
 
 この除幕式の写真ではきれいに掲載されないだろうし、だいたいロシアの雑誌に掲載された写真を使用するのもよくないので、何とかして自力で探し出して、函館側の協力を仰ごうと思っていたのですが、どこにあるかも分かりませんでした・・・。

 その後、この胸像は函館市内の広場にどーんと飾られているのではなく、高田屋嘉兵衛の子孫が運営している私立博物館の内部にある、ということがマラジス先生の記事を読んでいて気がつきました。
 ベラルーシ文化研究所のマラジス先生は2001年に来日していて、高田嘉七さんにもお会いしており、そのときゴシケーヴィチの胸像を見せてもらった、とあります。

 ということは、「北方歴史資料館」か「箱館高田屋嘉兵衛資料館」の中にゴシケーヴィチの胸像がある、ということになります。
 どなたか、ご存知の方はいませんか?
(それにしても高田嘉七さんが亡くなられたのが非常に残念です。) 

 函館のブログなども検索したのですが分かりませんでした。もし私の友達や親戚が函館に住んでいたら、ちょっと見に行ってもらうところなのですが、そのような知人がおりません・・・。

 結局、記事の締め切りは過ぎてしまったので、今回函館のゴシケーヴィチの胸像の写真掲載は見送りました。
 でも2年後には生誕200年ということで、来年からさまざまなプロジェクトが発進すると思います。出生地とお墓の場所を確定するための学術的調査も始まるでしょうし、当然函館の胸像のことも話題になると思うのですが、日本人の私が今ある場所も分からないのです。

 もし、このブログをご覧になった方で、ゴシケーヴィチの函館の胸像について、設置している場所などをご存知の方、ベラルーシのTまでどうかご一報ください。



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 私も近いうちに上記の資料館に何とか問い合わせしてみようと思っています。
 (私が今日本に住んでいたら、もっと簡単に事が進むのですが、1万キロも離れたベラルーシに住んでいるので、なかなか大変です。)


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 追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。  

マリへの旅 7

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 マリ村のバス停です。これもゴシケーヴィチの記念碑のすぐそばにありました。
 マリ村についにやってきたなあ、と思いました。そしてこんなに日本とゆかりのある場所がベラルーシにあったとは、ととてもうれしくなりました。
 またゆっくり訪問したいです。
 日本文化情報センターとしてもこれから協力していきたいと考えています。

マリへの旅 6

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 そしていよいよマリ学校のすぐ裏手にあるゴシケーヴィチの記念碑へ・・・!
 本当に学校のすぐそばにありました。
 これが高田嘉七さんが除幕式に参列したというマリ村にあるゴシケーヴィチの記念碑です。
 ゴシケーヴィチの横顔のレリーフが岩に組み込まれています。
 両脇のも石がありますが、左側の石には
「マリ村に生き、そしてこの世を去ったロシア初代日本領事であり、学者であり、啓蒙家であったヨシフ・ゴシケーヴィチ」とあります。
 右側の石には彫刻家の名前。
「R.グルーシャ。マリ村に寄贈。」
とあります。

 この記念碑を毎日見ながら登下校する子どももいるのですね。
 ゴシケーヴィチが余生を過ごした家は現在は残っていませんが、その基礎部分は残っていることが最近の研究で分かりました。
 またゴシケーヴィチが「日本語の起源」を執筆していたことを考えると、日本語に関する資料文献を持っていたのは間違いありません。
 その貴重な資料は息子が譲り受けたのですが、その後ロシア科学アカデミー東洋学研究所が息子から買い取り、現在もペテルブルグの書庫で保管されています。

 

マリへの旅 5

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 記念室には「マリ村の七不思議」という展示もありました。
 その3番目がゴシケヴィチでした・・・。
 お話をしてくれた先生は、数年前調査団がマリ村に来てゴシケーヴィチの墓を調べに来たそうです。
 ウイキペディアなどではリトアニアのビリニュスに埋葬された、ということになっていますが、これもはっきりしていません。
 ゴシケーヴィチはマリ村で亡くなったのは間違いなく、この村の教会墓地に埋葬されたのですが、その後息子が当時自分が住んでいたビリニュスへお墓を変えたそうです。
 どうしてお墓を移したのかと言うと、「自分が住んでいる町にお墓があるほうが墓参りしやすい。」と思ったか、あるいは
「父はロシアの初代日本領事にまでなったのに、死後村の人と同じ墓地に眠るのは、かわいそうだ。ビリニュスに身分の高い人たちの墓地があるから立派な墓を建てよう。」と思ったか・・・でしょう。
 
 江戸時代の日本のようにロシアにも身分制度があったのです。ゴシケーヴィチとその妻は日本からの帰国後、功績が認められ、身分が上がりました。
 以前は無名の神父の息子、ということで、身分が低かったのですが、日本での働きにより、貴族の身分になったのです。
 それが小さい村の墓地に他の村人といっしょに葬られている、ということが息子はいやだったのかもしれません。

 この息子(名前は同じヨシフ)も学者となり、リトアニアで本を出版しています。父親の「日本語の起源」を出版するために尽力したのも息子でしょう。

 ではビリニュスのどこにゴシケーヴィチの墓はあるのでしょうか?
 息子の墓は今でもリトアニアのリポフカというところにあるロシア正教徒が眠る墓地にあります。ということは父親の墓も同じ墓地内にあるのではないか、と思われます。
 しかし、今のところどこにもありません。

 ということは、もしかすると息子は墓を移したかったができず、今でもゴシケーヴィチの墓はマリ村にあるのではないか? という推測もできます。
 そこで数年前、ベラルーシの調査団がマリ村にやってきて発掘調査をしました。
 ゴシケーヴィチのものと思われる墓を開けたのです。
 すると中身は空っぽ・・・。お棺すらありませんでした。
 
 マリ村の住民が自分のご先祖の墓を開けて、中身をどこかへ持っていく、ということは考えにくいので、やはりこの墓はゴシケーヴィチの墓であり、息子がビリニュスへ墓を移した、というのも真実であろう・・・という結論に達しました。

 というお話をマリ学校の先生から伺いました。
 やっぱりゴシケーヴィチは今ビリニュスのどこかに眠っているはず・・・それはどこなのか、とスモリク先生は考えてしまいました。
 スモリク先生はリトアニアまで探しに行きたいと話していましたが、なぜかベラルーシ人はリトアニアの入国にビザが必要なのです。それに闇雲にリトアニア中の墓地を探し回るわけにもいかないので、リトアニア人の強力も必要です。
 でももし見つかったら、リトアニアまで行ってみたいです。(私は日本人なので、リトアニアのビザはいりません。何だか変な感じですよね。)

マリへの旅 4

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 そしてこの学校の中にも狭いのですが、記念室がありました。学校の歴史や第二次世界大戦下のマリ村などの展示がありました。そしてやはりここにもゴシケーヴィチがいました!

マリへの旅 3

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 このようにスライドでゴシケーヴィチのことを紹介しています。
 地元の人たちの誇りなのですね。
 そして学校へお客さんが来るとこのスライドを見せて、一生懸命語っているわけです。
 生徒さんたちへの教育としてもすばらしいですよね。

マリへの旅 2

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 やはりこの学校でも生徒さんが学校の紹介などをしてくれるのです。そしてとても慣れています。
 もちろんゴシケーヴィチのことも紹介してくれました。 
 日本人だからというだけでこんなに歓迎してくれて、かえって恐縮です。でもいつかまたこの学校へ行きたいです。

マリへの旅 1

2012-07-22 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 次はいよいよマリ村へ行きます。
 オストロベツ市からマリ村へは車で5分ぐらいで到着しました。
 人口600人の村だそうです。ここには学校が一つあります。学校と幼稚園が併設されており、園児、小中高生合わせて100人の子どもが通っているそうです。
 まずその学校へ行くことになったのですが、ここでも夏休み中であるにもかかわらず、生徒さんが大歓迎してくれました。
 画像は伝統的なお客様を迎える儀式「パンと塩」です。
 とてもうれしかったです。
 こちらはこの学校のHPです。

http://mali-sch.narod.ru/


 珍しく校長先生が男性でしかも若い。(後ろに写っているオレンジ色の服の人。)
 こんな人が校長先生だったらみんな大喜びで毎日学校に通いそうですね。

オストロベツへの旅 9

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 さらにこの胸像の後ろの部分にはリトアニア語の表記もありました。
 でもこの胸像を作った彫刻家の名前「ヴァレリアン・ヤヌシュケヴィチ」と「1993年」「ブロンズ」というところしか分かりませんでした。
 明らかにベラルーシ語と日本語の文のリトアニア語訳ではありません。
 
 ゴシケーヴィチがこの地に住んでいたころ、このあたり一帯はベラルーシ領ではなく、リトアニア領でした。
 そのため現在でもリトアニア系の住民が多く住んでいます。
 学校でもリトアニア系の子弟が通う学校があり、ほとんどの科目をリトアニア語で教えているそうです。
 このような背景があるため、ゴシケーヴィチの胸像にもリトアニア語が刻まれているのでしょう。

オストロベツへの旅 8

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ゴシケーヴィチの胸像を近くで見るとこんな感じです。
 当然気になるのが、胸像の下の部分にある日本語の文章!
 何が書いてあるのでしょうか?
 首を伸ばして読もうとしたのですが、私は背が低いのでうまく読めず、手を伸ばしてカメラで撮影して、後から画像で読みました。
 ベラルーシ語とその日本語訳である文が胸像の下の部分をぐるっと取り囲むように、2列に並んでいます。
 その日本語部分はこうなっていました。
「ベラルーシが生んだ偉大なる息子、学者であり、日本研究者であり、一番最初の日本駐在ロシア総領事。イオシフ・ゴシュケーヴィチ」
 そして生年と没年も刻んでありました。
 胸像の土台の部分にも生没年が刻んでありましたが、生年は1815年になっていました。

 生まれた年は1814年説と1815年説があるのですが、後者のほうはゴシケーヴィチ没後に息子が書類に父親の生年をこのように記載しており、その書類が残っている、というのが根拠です。
 どちらが正しいのかはっきりしていません。

オストロベツへの旅 7

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これがオストロベツ市内にあるゴシケーヴィチの胸像です。
 1994年に建てられました。
 オストロベツ市の中心にあり、後ろにある赤レンガの建物は地元の新聞社「オストロベツ・プラウダ」の編集部が入っています。
 すぐ近くに映画館、結婚登録所があります。私が行ったときはちょうど土曜日だったので、新婚さんが周りにたくさんいて、みんな記念撮影をしていました。
 こんなはなやかな場所にゴシケーヴィチの胸像があるんですねえ。

オストロベツへの旅 6

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これが学校の中で飾られていた、高田嘉七さんがマリ村にあるゴシケーヴィチの記念碑除幕式に参列したときの写真です。
(写真の表面が汚れていますが・・・。それと私の写真の撮影の仕方も悪く、見づらくてすみません。)
 函館からはるばるマリ村まで来てくださってありがたいことですね。 
 しかしこのオストロベツあるいはマリ村はベラルーシで一番親日家が多いところではないか、と思いました。
 
 マリ村の記念碑を見る前にオストロベツ市にあるゴシケーヴィチの胸像をご覧ください。(次の記事です。)