ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ゴシケーヴィチが寄贈した晴雨計について

2014-11-28 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 函館奉行所の備船だったという亀田丸にゴシケーヴィチが寄贈したロシア製の晴雨計。
 亀田丸が廃船となったときに晴雨計も処分された可能性が高いのですが、当時外国製の晴雨計というのは非常に貴重なものだったので、簡単に捨てたりしなかったのではないかという希望のもと、晴雨計の行方を探してみることにしました。

 阿部論文を送ってくださった方が、北海道立文書館に「旧亀田丸属品不用ニ付室蘭勧工課ヘ無代金引纏方ノ件」という古文書が保管されているものの、内容はネット上では閲覧できないことになっていると教えていただきました。

 これを読んで「室蘭?」と思いました。この古文書が作成されたのが明治8年なので、そのころまでには亀田丸は廃船となったようで、その付属品は不要につき、室蘭勧工課へ引き取られたようなのです。
 そのため、晴雨計もいっしょに室蘭へ行った可能性が出てきたため、室蘭市民族資料館に問い合わせのメールを送ってみることにしました。
 結果は「当館、室蘭市で記録なども見つからなかった」ということでした。
 室蘭市民族資料館にはお手数をおかけしました。室蘭中調べてくださったようなので・・・
 本当にありがとうございます。

 次に北海道立文書館にも、「旧亀田丸属品不用ニ付室蘭勧工課ヘ無代金引纏方ノ件」の内容はどうなっているのか、教えてほしいとお願いしたところ、ご丁寧な返信がきました。
 この文書はネット非公開なので、通常は文書館を訪問して閲覧しないといけないところ、遠方にお住まいで難しいでしょうから、とわざわざ内容を書き起こして、メールで送ってくださいました。本当にご親切にありがとうございます。
 そして内容なのですが、亀田丸の不用品について細かく記載があったものの、その中に晴雨計はありませんでした・・・
 
 ということは、亀田丸が廃船になったとき、その備品だった晴雨計は函館で取り外され、室蘭には引き渡さなかったということになります。だから室蘭では探してもなかったのです。
 もし晴雨計が現存するとしたら、函館のどこかにある可能性のほうが高いですね。
 どこにあるんだろう・・・やっぱり捨てられてしまったのかなあ?

 この晴雨計はロシア製のはずなので、もし現存していれば、晴雨計のどこかにロシア語で何か書いてあると思います。(情報求ム・・・)

阿部正巳の著書に見るゴシケーヴィチ

2014-11-26 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 阿部正巳が書いた「歴史地理」36巻4号 凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ――(下) (大正9年、1920年)にゴシケーヴィチと晴雨計と常夜灯についての記述があるのですが、その部分を調べてくださった方が画像スキャンして送ってくれました。

 本当にありがとうございます! ベラルーシに住んでいるとこういうこともなかなかできないのですが、プリントアウトして手にとって、じっくり読むことができました!
 晴雨計と常夜灯以外にもおもしろいことがいろいろ書いてあります。

 それによると、文久3年(1863年)8月京都から、攘夷親征の知らせが函館に届き、市民はもうすぐ外国人打ち払いの戦争が始まると驚いて、避難しようと家財道具を運び出したりしていたところ、ゴシケーヴィチは左右の手を広げて「戦いない。心配するな。」と叫びながら市内を回り、人々の騒ぎを鎮めた・・・そうです。

 その後間もなく幕府から攘夷を取り消したという知らせが入り、函館市民も落ち着いたそうですが、この状況を想像すると光景が目に浮かびますね。
 当然ですが、外国人であるゴシケーヴィチはすごく目立っていたと思います。
 たぶん当時の日本人と比べ身長なども高かったと思いますし、函館の人々が「もうすぐ日本人対外国人の戦いが始まる。やばい!」とあわてているところ、その外国人が「戦いない。」と言って回っているわけですから、かなり宣伝効果(?)があったと思います。

 ゴシケーヴィチが見せる態度は、常に「日本とは仲良くやりたいです。」という基本姿勢があって、調べるベラルーシの研究者からすると、気分がよいのではありますが、別の意味では弱腰外交で、黒船に乗って大砲を打ったりする欧米の帝国主義的な外交と比べると、地味(^^;)ですね。

 個人的には友好的な外交関係を結ぼうとするゴシケーヴィチに大賛成なのですが、地味なので、歴史の教科書では取り上げられません。
 だから、知名度が低いんですね。でも知名度が低い人にもスポットライトを当てて見なくては、と歴史を学ぶときによく思います。
 
 他にも前述の論文によれば、ゴシケーヴィチはロシア帝国政府からの命により、日本とロシアの国境を定めましょうと提案し、(ロシア側の提案は樺太と蝦夷の間の海峡なので、今の宗谷海峡ですね。)さらには「隣国和親の好みを永遠に持続せんと欲す(漢字の旧字体は改めました。)」とも発言しており、それを決定するために日本政府からロシアに使節団を送ってほしい、その使節団が乗る船は函館港に泊めてあるロシアの軍艦を使ってもいいですよ、とまで言っています。
 江戸幕府はこれに対して、承諾したと返事をしたのですが、その後幕末の時世の混乱の中、うやむやとなり、明治維新前夜の慶応2年に函館奉行がロシアの首都ペテルブルグに行ったのですが、話し合いは不調のまま終わったとあります。

 ロシア側からすれば、国境の制定の話がしたいのに、なんで一国の役人ではなく、函館(地方行政)の奉行を寄こしてきたのだろう、と変に思ったでしょうね。
 国境の制定ができなかったのも当然ですね。

 またこの論文には石炭採掘の話も載っています。
 当時のエネルギー資源として、日本(樺太や蝦夷地の)石炭はロシア人にとって大変な魅力(特に軍艦の燃料として)だったようで、ゴシケーヴィチが領事として日本へ趣いたときも、ロシア政府から、日本の石炭のことはよく調査するよう命令されています。

 そして、江戸時代末期には樺太に進出してきたロシア人が石炭を採掘して、売りさばいている、とアメリカ領事のライスが函館奉行所に密告。
 奉行所はどうしたらいいものかと、幕府に報告・相談。
 幕府が出した結論は、ロシア人が南樺太で石炭を掘るのは禁止しないが、第三国に売ったことで、国際問題が発生するのは心配なので、掘った石炭は全て、函館奉行所に売ること。つまり日本側が買い上げるからと通達しました。
ロシア側からしたら買い手をいちいち探さなくても、日本側が買ってくれて、現金収入(当時は銀貨)になったので、いい話だったと思います。

 次に問題になったのは、函館奉行が購入した石炭を樺太から船で運搬するのに、函館港に保管する場所の確保でした。こういうことは石炭を買うほうの日本人が解決する問題である気もするのですが、ゴシケーヴィチは海岸近くの土地を保管場所にするから、1000坪貸してほしいと函館奉行所に請求しています。
 一度は「そんな場所ない」と断った函館奉行所ですが、再請求されて、埋立地690坪を貸してもいいと、ゴシケーヴィチに提案。しかしその周囲の海が浅くて、船が停泊できないと分かるとゴシケーヴィチは、代替案として、そこから海の深いところまで伸びる波止場をロシア側の予算で建設することを提示しました。

 しかし外国人が波止場を日本国内に建設するのを好まなかった当時の日本人は、ロシア側にお金があるのなら、それで埋立地をさらに増やして、できた土地合計880坪を買い上げたらよかろうと言い出しました。
 これに対しゴシケーヴィチは条約の規定により、埋め立て費用や土地の買い上げをすることはできませんと断り、土地を貸してくださいという請求も引っ込めてしまいました。

 昔の記録を読むのって本当におもしろいですねえ。
 当たり前だけど会ったこともない昔の人のことが身近に感じられます。
 こうして見るとゴシケーヴィチ領事は相当忙しかっただろうなあ・・・

 鎖国政策のせいで、外国人の扱いに慣れていない(というかどうしたらいいのかよく分からず困惑気味の)函館奉行を相手にさまざまな交渉をしないといけないし、本国のほうにもしょっちゅう報告書を送らないといけない。
 しかも当時はパソコンもコピー機もないうえ、郵便が全部船任せで、しかも郵便物を積んだ船が沈没することもあったので、常に報告書の控えを2、3通手書きで複製しないといけなかったから、大変です。

 さらに領事館の運営、働いている人たちへも気配りしないといけないし、さらにはロシア病院、教会、ロシア語学校などの運営もしないといけない、函館に来てすぐのころは通訳の数が足りなかったので、領事自ら医者の通訳をしたり、連れてきた奥さんは結核患者で病弱(函館で死去)、血が繋がっていない息子の養育もしないといけないし、さらには日露友好のためのイベントも企画、当時の日本では珍しかった写真撮影会をしたり、クリスマスパーティーをしたりして日本人を喜ばしていますが、目の回るような忙しさです。
 
 こんなに忙しいのに、趣味の昆虫採集をやって、蝶の研究までしていたんだから、すごく能力が高い人だったと思います。

 ゴシケーヴィチは領事として友好外交路線を進んでいたのですが、日本に進出してきたロシアの軍艦、つまり軍人は政治家としての領事を当時は軽んじているところがあって、あまり領事の言うことを聞かず、自分たちのやりたいことをやろうとしていた風潮があり、こちらのほうでもゴシケーヴィチさんは手を焼いていたようです。
 ストレスたまっていただろうなあ。

 そもそもゴシケーヴィチはロシア人ではなくベラルーシ人で、それだけでロシアでは人種差別されていたようで、しかも田舎の村にある教会の司祭の息子という出自。
 勤めていたロシア帝国外務省の上司や同僚はロシア貴族だらけ、軍人もそう、という環境の中で、たぶん職場いじめ(^^;)にあってたと思います。

 それが日本語できるから、と言う理由で領事に出世したわけです。(見方を変えれば、日本なんて未知で未開の国の初代領事なんて大変すぎていやだから、なり手が他にいなかったのかも。)

 貴族とちがい、庶民感覚、聖職者感覚の人間だったゴシケーヴィチが、函館へ来て強行タカ派外交なんてするわけないですね。

 でも一生懸命建てた領事館の建物が、隣のイギリス領事館から出た火事の火がが飛び火して全焼していまうと、さすがのゴシケーヴィチも完全に落胆してしまい、長年異国の地で働きすぎて、すっかり老け込んでしまい・・・つまり、疲れて燃え尽き症候群になりかかっているので、そろそろ本国に戻りたいんですけど、次の領事決めてください、という願い書をロシア帝国外務省に出しています。

 当時の国際郵便は船便なので、手紙の片道が数ヶ月もかかり、帰国命令が来るまで大変な時間が必要でした。やっとペテルブルグへ戻るまでの間も結局、仕事漬けだったゴシケーヴィチ。

 戻った後、ようやくそれまでの業績が認められて、身分が貴族になりました。
(手柄を立てるとご褒美として身分が変わる、というのがすごい。)

 その頃ロシア学校でロシア語を勉強していた日本人の生徒たちを手助けしてペテルブルグへ留学させていたのですが、その生徒に対してゴシケーヴィチはあまり面倒をみていません。
 慢性肺炎になって体調が悪化してしまったことが理由ですが、退職を決めて、再婚した奥さんの故郷ベラルーシのマリ村へ。

 ちなみに貴族にもなり、外務省で働いていたゴシケーヴィチがもらっていた年金の額はかなり高額で、マリ村の一軒屋を買って、そこで平和なセカンドライフを始めます。

 しかし常に何かやっているゴシケーヴィチ。日本から持って帰った本のコレクションを広げて、日本語と中国語に関する本を執筆します。やっぱり学者肌なんですよねえ。

 残念ながらマリ村での穏やかな時間はそんなに長くなく、5歳の息子を残してゴシケーヴィチは死去します。

 何と言っても昔の話なので、大変な苦労がたくさんあったと思いますが、才能と努力で何とか乗り越えて、そして後世にいろいろなものを残しているので、ゴシケーヴィチはベラルーシの偉人だと思います。


アニメの聖地がベラルーシにもあった!

2014-11-22 | ベラルーシ文化
 アニメや漫画の中で、舞台となったり物語の背景となった実在の場所を「聖地」と呼んで、その作品のファンが観光(巡礼とも言う)に行ったりしますよね。
 
 ベラルーシにも日本のアニメの聖地になった町があります。
 それはスロニムという町で、登場するのはアニメ「コードギアス 亡国のアキト 第2章」です。

 日本の製作スタッフ側はどうしてまたベラルーシの町(しかも有名な観光地でもないところ)をアニメの舞台にしたのか、説明がないのですが、ベラルーシのアニメ好きな人の間で話題となり、現地ではニュースになってマスコミが取り上げるほど。

 ちなみに現地の人が撮影した街角の写真とアニメの中の風景がどれぐらい似ているのか、比較しているサイトがあるので、見たい方はこちらをクリックしてください。
(記事自体はロシア語です。)

 教会なんてそっくりそのままですね。
 橋のたもとにキリル文字の看板のようなものが見えますが、そのまま「スロニム」と書いてあります。
 実際にはこの橋はあるものの、そこに町の名前は書いていないとのことです。

 このアニメを見たのですが、建物を見ていると、「本当にベラルーシの町だわ・・・」と思えます。
 かなり忠実に再現されています。

 スロニムという町の名称の由来は調べても分からなかったのですが、ロシア語で象のことを「スロン」というのをこのアニメを制作したスタッフは分かっているようで、実際にはない象の彫刻をアニメの町のほうでは描いています。

 でも実際にはスロニムと象は無関係で、街の紋章には金色のライオンが描かれている「ライオンがシンボルマークの街」だそうです。
 その前は狐が紋章に使われていたのですが、中世にライオンに変更されました。

 どちらにせよ、アニメの中でかなり忠実に町並みが描かれていて、もし私がスロニムの住民だったら、このアニメを見て、うれしくなると思います。
(アニメの中のスロニムには住民が全く登場しませんが。)(^^;)

 ちなみにベラルーシのマスコミが「コードギアス 亡国のアキト」の原作者やアニメ監督にメールで
「どうしてスロニムを舞台にしたんですか?」
と質問したそうなのですが、今のところ誰からも返信がなく、謎のままになっています。

  
「コードギアス 亡国のアキト」ファンの皆様、アニメ聖地としてはちと行きにくいですが、ぜひベラルーシの街、スロニムへ巡礼に来てください。(^^)



 

ゴシケーヴィチ関連情報 シンケイ丸について 

2014-11-19 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 以前からこのブログ上で、今年生誕200年を迎えたゴシケーヴィチ情報を探していました。
 おかげさまで、いろいろなことが判明しました。

 そんな中で、ゴシケーヴィチが寄贈したという常夜灯とバロメータ(晴雨計)のことが気になっていたのですが、日本に住んでいないので、私自身が調べることができないままでいました。

 しかし日本に住んでいる方が代わりにちゃんと詳しく図書館で調べて下さって、教えてくださいました。本当に感謝しています!

 そもそも私は常夜灯のことはロシア側のゴシケーヴィチに関する文献や論文の「参考文献」のところに
 阿部正己著「歴史地理」(1920年発行)の141-146ページにある「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」
 ・・・という文献が表記されているところから知ったのですが、ベラルーシ人のゴシケーヴィチ研究家から
「このバロメータは今でも日本のどこかにあるの? シンケイ丸って漢字でどう書くの?」
ときかれても答えられず、「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」という本が読みたいなあ、でもネット上では読めないし、困ったなと思っていたのです。

 今回代わりに読んできてくださった形となったのですが、この文献にちゃんとゴシケーヴィチが常夜灯を寄贈した、と記述されていたのです。

 さらに詳しく引用された文献をご紹介すると「歴史地理」36巻4号 凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ――(下) / 阿部正巳(大正9年、1920年)であり、この「凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ」上中下とシリーズになっています。
 上中下はすべて36巻に書かれていて、上は2号、中は3号、下は4号に収録されていました。

 それを分かりやすく要約すると・・・
 
 アメリカ領事ライスによって水先案内が設置されたが、ゴシケーヴィチがこれは不便なので、1861年常夜灯を寄贈することを約束した。
 1862年8月常夜灯が到着したので、ゴシケーヴィチは函館奉行所に持って行った。
 それを初め陸上に設置したが、1865年8月信敬丸と言う船に取り付けて、弁天岬沖の港口に停泊させるようにした。
 同年10月23日に常夜灯に点火し、その後水先案内人は廃止した。

 ・・・上記のうち、陸上とあるのは弁天台のことですね。
 
 ちなみにこの常夜灯のことは函館市史通説編第1巻 3編5章4節にも記述があります。
 
 それによると・・・

「外国船の水先案内については、去る安政5年2月ライスからの申出により、水夫11人を常雇として昼夜遠見番所に詰めさせておいたが(案内料は5月までは7ドル、6月以降は5ドルの定め)、万延元年になってライスおよびロシア領事ゴスケウィッチから、日本の水先案内は役に立たないといって外国人を推薦してきた。
しかし奉行津田正路は常夜灯を設置中だから、それができあがれば水先案内は不必要だろうといってこれを拒絶した。
箱館港口の常夜灯は、安政3年5月弁天町の庄蔵なる者の願いにより弁天岬に設置されたが、翌4年台場建築のために移転を命じられ、文久元年新しい箇所に竣工した。」

 ・・・となっており、ゴシケーヴィチが常夜灯を寄贈した、とはっきり書いていないのです。
 
 阿部正己の著書にしろ、函館市史にしろ、こういう情報の元ネタ(^^;)は函館奉行所のが残した公文書だと思うのですが、結局どっちが正しい(あるいは詳しい)の? ということになります。
 
 次に亀田丸という船にゴシケーヴィチが寄贈した晴雨計のことは、元木省吾著「北方渡来」(1961年発行)の59-61ページに記述かあるとして、ロシア人研究者は自分の論文の参考文献に記しているのですが、これについても上記阿部正己の論文に記述があったそうです。

 それによると・・・

 1859年11月、函館奉行の竹内奉行と津田奉行は新しく製造した船、亀田丸に晴雨計を設置しようと思った。
 その購入方法をゴシケーヴィチに相談したところ、函館港に停泊していた軍艦ジキット号に設置されていた晴雨計を寄贈してくれた。

 ちなみにジキット号というのはロシア帝国の軍艦で、ゴシケーヴィチが領事として函館に赴任してきたときもこの船に乗って函館に入港しています。

 よく考えたら、自分の船でもないのに、軍人たちと交渉して、一つ晴雨計を譲ってもらい、
「晴雨計っていくらぐらいするのかなあ。高いのかなあ。」
なんて心配していた函館のお役人に
「あげますよ。これで買わなくてもいいでしょ。よかったね。日露友好!」
と言う感じでゴシケーヴィチはプレゼントしたんだろうなあと想像できます。

 こうして晴雨計は亀田丸に設置され、使用されていたはずですが、その後のこの晴雨計の行方は分かりません。

 さらに船としての信敬丸と亀田丸についても調べたことを教えていただきました。

 「函館市史」通説編1 3編5章8節-1~5によると、どちらも函館奉行所の備船で、信敬丸は君沢形というタイプの船で、亀田丸はスクーネル型という船なのだそうです。
 と言っても船に明るくない私には違いが分からないのですが、どちらも西洋タイプの船だけれど、建造されたのは日本国内という船で、亀田丸はロシアとの貿易に使われていたそうです。

 信敬丸は「函館市史」通説編2 4編7章1節5-2 - 函館市中央図書館によると、1872年小林重吉と言う人物が信敬丸の払い下げを運上所に出願し1873年3月許可を得て、修繕、改造をして虎久丸と改名したそうです。
 虎久丸は74トン、安政元(1854)年製造のもので・・・とあるので、信敬丸は1854年に建造された船だったと分かります。

 信敬丸が虎久丸に改造された時点(1873年)には、常夜灯は取り外されてしまったものと思われます。
 やはりその後の常夜灯の行方は分かりません。

 函館のどこかに常夜灯も晴雨計も保管されているかもしれませんが・・・


 ともかくこんなに詳しくゴシケーヴィチ情報が集まるとは今年の初めには思ってもいませんでした。
 天国にいるゴシケーヴィチに言いたいぐらいですよ。(^^;)

 調べてくださった方、本当にありがとうございます!
 

 

 


メールアドレス

2014-11-16 | リンク&お問い合わせ
 ベラルーシのTのメールアドレスはこちらです。

nbjc19990909☆yahoo.co.jp

 お手数ですが☆を@に変更してください。

 セキュリティー面から見知らぬ人(メールアドレス)からのメールで件名が「はじめまして」「こんにちは」といった内容に具体性のないもの、添付ファイルがあるものは開かず削除しています。ご了承ください。
 初めてメールを送られる方はメールの内容を反映した具体性のある件名をつけて送信してください。
 

取材を申し込みたいという日本のテレビ局へ

2014-11-14 | リンク&お問い合わせ
 たまにですが、日本のテレビ局から、取材の申し込みが来ます。
 内容が「ベラルーシの自然」とかそういうのだったら、まだいいのですが、大概「あなたがベラルーシというあまり日本で知られていない国でどんなふうに生活してんの?」というのを知りたがっています。

 このような取材はお断りしています。
 テレビ局の下請けのリサーチ会社なんだろうけど、初めてもらうメールがほとんどこんな感じです。

・・・・・・・・・・・・・

突然のメールで誠に恐縮ですが、

Tさんはベラルーシの方と結婚されていないでしょうか?


もし結婚されている場合、現在企画の段階ではありますが、
番組出演の可能性と、下記質問にお答えいただければ幸いです。

1)Tさんの年齢・仕事の具体的な内容をお教え下さい。

2)家族構成をお教えください(ご主人の両親・親戚などは近くにお住まいですか?)

3)ご主人の年齢・職業をお教え下さい。

4)電気・ガス・水道はございますか?停電・断水は起こりますか?

5)どのような家に住んでいらっしゃいますか?
  
6)平日&休日のタイムスケジュールできるだけ詳しく教えて頂けますでしょうか?
  (起床から、朝食、出勤、仕事、寝るまで)

7)ボランティア活動など、地域のために行っている活動はなにかございますか?

8)取材が決定した際には、12月もしくは1月頃で3日間程の撮影を予定しておりますが、
 その時期で何かイベントはございますか?(地域のお祭り・家族行事など)

9)電話番号をお教えいただけますでしょうか?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 全く面識のない人から、いきなりこれだけ質問されるんですよ。
 まじめに答えたとしても、結局本当に取材されるのかどうかも分からないのに。

 4)の質問なんてふざけている。電気がない国だったら、こうやってメールの送受信もできないでしょうが。

 本当に気持ち悪いですよ。5)とか6)の質問に答えたら、犯罪に悪用されるんじゃないかと心配になります。
 というか、これ本当にテレビ局からのメール? 個人情報を集めて売ったりしている組織がテレビ局の名前を語っているだけじゃないの? とまで勘ぐってしまいます。

 このようなわけですので、テレビ局からの取材、特にこういうプライベートなことをきかないと制作できないというような番組からの取材はお断りしております。

  

第7回 体調と対策メモ  記憶

2014-11-11 |   体調と対策メモ
 体調と対策メモの続報が届きました!
 長い期間をかけて、対策方法を講じている方からの貴重な情報です。
 ぜひご覧ください。
 この方がただ体にいいと思われることを片端から試しているのではなく、とても論理的に考えたうえで対策をしていることに注目していただきたいです。

 今までの体調と対策メモはこちらにまとめてあります。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんにちは、以前、「体調と対策メモ」をお送りしたものです。
 その後、試した健康対策をご報告します。


○記憶力の減退について

 震災後、しばらくして、わたしは一時期、突然、本が読めなくなりました。
 本を読んでも、字や文章がまったく頭に入ってこなくなったのです。
 これは、本当にあわてました。

 何が原因かわからないまま、まずは絵本のような字の大きい本から、「本を読む練習」を始めました。
 詩集、エッセイ、ビジネス書と、だんだん字の小さい本が読めるようになり、半年で以前よりゆっくりな速度ですが、なんとか本が読めるようになりました。
 しかし、それでも小説を読むとなかなか読めません。これは、どうしてだろう、どうしたものかと思っていました。

 やがて、わたしは、自分の能力のなかで何が衰えたのか、理解しました。
 短期記憶です。
 短期記憶が衰えているので、小説を読み進めながら2ページ前、3ページ前に何が書いてあったかを忘れてしまうから頭の中で文章を繋げることができなくて、何度も何度もページを戻らないと読めなくなってしまっているのだと気が付きました。

 それで、短期記憶をつかさどっているものは何かと調べたところ、脳内の海馬という部分があり、そこで重要な役目を担っているミネラルは亜鉛だと知りました。
 そこで、亜鉛を含んだ食品を積極的に摂取することにしました。

 亜鉛を含んだ安全な食品は、ココアとビール酵母です。
 ココアは、亜鉛に加えて、鉄分やペクチンも含まれています。
 ビール酵母もさまざまなミネラル、ビタミンを含んでおり、さまざまな効能があります。食品で摂取するならこのふたつがおすすめです。

 わたしは、亜鉛のサプリメントも摂取するようにしました。
 しかし、亜鉛は過剰症がありますから、摂りすぎは禁物です。一日の摂取量は守らないといけません。
 また、能率的な摂取も必要です。亜鉛は、鉄と体内で拮抗するため、サプリメントとして同時に亜鉛と鉄を摂取するとじゅうぶんな効果が得られないと知りました。
 それで、亜鉛サプリは朝、鉄サプリは夜、というふうにサプリメントの摂取時間を変更しました。

 亜鉛サプリを毎日飲み、本を読む練習を続けていると、本を読む速度もかなり上がってきました。
 まだ、細かい字の本は読めませんが、かなり回復してきたことを喜んでいます。

 亜鉛は、人間の免疫力などにも重要な役割があるようです。
 また、味覚を正常に保つ効果があり、味覚が感じられなくなっている時は、亜鉛が不足しているサインであることが多いようです。
 その他にも、成長促進効果、抜け毛予防、ホルモンの調整や血糖値を下げる効果、生殖機能維持、血圧降下、アルコール分解作用などがあるようです。

参考 http://www.wakasanohimitsu.jp/seibun/zinc-zn/


○シナモンについて

 初期の報告でも、シナモンの効果についてご報告しましたが、はやり、手がしびれたり、神経の痛みにはとても効果があります。
 ココアなどにたっぷりシナモンをいれて飲むと、軽い神経の痛みやしびれには、すぐに効果が感じられます。
 また、血糖値を下げたり、毛細血管を修復して心筋梗塞などの予防にもなるようです。クエン酸に蜂蜜を加え、レモネード風ドリンクをつくるときに、シナモンを加えてもおいしいです。
(シナモンはチャイナシナモンよりセイロンシナモンのほうが、肝臓に負担がかからないようです。たくさん摂取したい方は、ぜひセイロンシナモンをさがしてください)


 今回の報告は以上です。
 体調との付き合いは、いつも一進一退と言う感じですが、体調対策を生活のなかに取り入れつつ、毎日こつこつとがんばっています。おなじような症状で悩んでいるのお役にたてれば、嬉しく思います。これからもがんばります。

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第169回」

2014-11-10 |   ビタペクト配布活動
 11月10日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第169回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクト3を6個、そして「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーを10部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2273個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2060部となりました。
 今回で通算184回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2273人の子どもにビタペクトを、2060家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a



(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80



 今回も2家族がSOS子ども村に保養に来ていました。
 それぞれの家族にお話を伺いました。


(家族A)
  
 グロドノ市(チェルノブイリ原発から約400キロ)から母さんが8人の養子と1人の子どもを引率していました。家庭タイプの孤児院とベラルーシで言われる家族です。この家族には5個のビタペクト3を渡しました。
 この家族は2008年、2011年、2012年にも保養に来たことがあります。
 
2008年の保養滞在のようすはこちらをご覧ください。
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第81回」(家族B)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/6c2428b23895a02787fe67d908faf93a


 2011年の保養滞在のようすはこちらをご覧ください。
 チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第125回」(家族A)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/f3ca7b747528f104915448e904e47992


 2012年の保養滞在のようすはこちらをご覧ください。チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第142回」(家族A)

 以前の測定結果と今回の結果はこのとおりです。
 2008年、2011年、2012年、2014年の結果を順番に表記してあります。
 ○印の子どもにビタペクトT(2008年はビタペクト2)を渡しました。
 
母親(事故発生時16歳)19ベクレル → 6ベクレル → 10ベクレル → 12ベクレル
女子(15歳)(2014年初測定)18ベクレル
女子(13歳)(2014年初測定) 0ベクレル
男子(14歳) 7ベクレル → 29ベクレル ○ → 0ベクレル → 0ベクレル
女子(13歳) 7ベクレル → 12ベクレル → 25ベクレル ○ → 22ベクレル ○
男子(12歳)40ベクレル ○ → 28ベクレル ○ → 26ベクレル ○ → 26ベクレル ○
男子(12歳)54ベクレル ○ → 30ベクレル ○ → 22ベクレル ○ → 27ベクレル ○ 
女子(12歳)(2011年初測定)33ベクレル ○ → 30ベクレル ○ → 0ベクレル
男子 (8歳)(2014年初測定)22ベクレル ○
男子 (6歳)(2011年初測定)30ベクレル ○ → 21ベクレル → 25ベクレル ○

 今回初測定だった15歳と13歳の女の子は実の姉妹です。12歳の男の子2人は双子です。
 3人養子が増えていますね。この家族は家庭タイプ孤児院の一家なのですが、それにしても育てているお母さんには本当に頭が下がります。

 お母さんとゆっくり話がしたかったのですが、8歳の男の子が元気がないことに気がつき、発熱していることが分かったので、病院へ連れて行ってしまいました。

 以前話を聞くことができた子どもたちについては上記の過去ログを参照にしてください。


(家族B)

 ミンスク(チェルノブイリ原発から約350キロ)から来た一家です。
 このお母さんには7人の子どもがいるのですが、そのうち5人の子どもを保養に連れて来ていました。
 しかし保養に来るなりお母さんも風邪をひいてしまい、3人の子どもだけが測定を受けました。この一家には1個のビタペクト3を渡しました。
 それぞれの測定結果はこのとおりです。

男子(13歳)17ベクレル
男子 (9歳) 0ベクレル
男子 (7歳)23ベクレル ○ 

 お母さんは子どもたちは比較的健康、と話していました。

 さて、SOS子ども村に保養に来ている家族はほとんど「保養に来てよかった。」「久しぶりにゆっくりできた。」など大変喜んでいます。
 ところが、このお母さんは珍しく、保養滞在に不満があり、早く家に帰りたいとこぼしていました。
 何が気に入らないのかと言えば、自宅に比べて保養滞在している宿泊施設が狭い。よその家の家族に気を使ってしまう。子どもの数が多すぎて疲れる。自然の多い田舎に魅力を感じられない。不便だ・・・ということでした。

 よく話を聞くと、このお母さんはミンスク生まれのミンスク育ちという都会人。最初の子どもが生まれて育休に入り、それから現在に至るまで、ずっと育休中で仕事をしていない。当然ほとんどずっと自宅で過ごしていて、とにかくインドア生活を続けている。自分で自分のことを「温室植物」と言っているぐらいでした。
 そういう人が急に他人である一家としばらくいっしょに暮らせ、と言われるとストレスを感じるかもしれません。
 二つの家の子どもたちは仲良く遊んでいましたし、お母さん同士も仲良く話してたりしていましたが・・・

 保養に行きませんか、と所属している多子家庭協会から声がかかったときは、こうなると予測していなかったんでしょうね。

 少し残念なケースですが、日本での保養プログラムを考える際の参考になるかもしれないと思って、ご紹介しておきます。 

今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、折り鶴の作り方(千羽鶴プロジェクト)、日本語で子どもの名前を書いた絵葉書、お母さんたちには着物の端切れから作った巾着袋などをプレゼントしました。  
 いつものことながら、絵葉書に子どもたちは大喜びです。

 画像は記念撮影したものですが、1人の男の子が恥ずかしがって、隣の部屋に逃げて行ってしまい、写っていません。

 最後になりましたが、ビタペクト3の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙や絵葉書、巾着袋など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。