ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

オストロベツへの旅 9

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 さらにこの胸像の後ろの部分にはリトアニア語の表記もありました。
 でもこの胸像を作った彫刻家の名前「ヴァレリアン・ヤヌシュケヴィチ」と「1993年」「ブロンズ」というところしか分かりませんでした。
 明らかにベラルーシ語と日本語の文のリトアニア語訳ではありません。
 
 ゴシケーヴィチがこの地に住んでいたころ、このあたり一帯はベラルーシ領ではなく、リトアニア領でした。
 そのため現在でもリトアニア系の住民が多く住んでいます。
 学校でもリトアニア系の子弟が通う学校があり、ほとんどの科目をリトアニア語で教えているそうです。
 このような背景があるため、ゴシケーヴィチの胸像にもリトアニア語が刻まれているのでしょう。

オストロベツへの旅 8

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ゴシケーヴィチの胸像を近くで見るとこんな感じです。
 当然気になるのが、胸像の下の部分にある日本語の文章!
 何が書いてあるのでしょうか?
 首を伸ばして読もうとしたのですが、私は背が低いのでうまく読めず、手を伸ばしてカメラで撮影して、後から画像で読みました。
 ベラルーシ語とその日本語訳である文が胸像の下の部分をぐるっと取り囲むように、2列に並んでいます。
 その日本語部分はこうなっていました。
「ベラルーシが生んだ偉大なる息子、学者であり、日本研究者であり、一番最初の日本駐在ロシア総領事。イオシフ・ゴシュケーヴィチ」
 そして生年と没年も刻んでありました。
 胸像の土台の部分にも生没年が刻んでありましたが、生年は1815年になっていました。

 生まれた年は1814年説と1815年説があるのですが、後者のほうはゴシケーヴィチ没後に息子が書類に父親の生年をこのように記載しており、その書類が残っている、というのが根拠です。
 どちらが正しいのかはっきりしていません。

オストロベツへの旅 7

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これがオストロベツ市内にあるゴシケーヴィチの胸像です。
 1994年に建てられました。
 オストロベツ市の中心にあり、後ろにある赤レンガの建物は地元の新聞社「オストロベツ・プラウダ」の編集部が入っています。
 すぐ近くに映画館、結婚登録所があります。私が行ったときはちょうど土曜日だったので、新婚さんが周りにたくさんいて、みんな記念撮影をしていました。
 こんなはなやかな場所にゴシケーヴィチの胸像があるんですねえ。

オストロベツへの旅 6

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これが学校の中で飾られていた、高田嘉七さんがマリ村にあるゴシケーヴィチの記念碑除幕式に参列したときの写真です。
(写真の表面が汚れていますが・・・。それと私の写真の撮影の仕方も悪く、見づらくてすみません。)
 函館からはるばるマリ村まで来てくださってありがたいことですね。 
 しかしこのオストロベツあるいはマリ村はベラルーシで一番親日家が多いところではないか、と思いました。
 
 マリ村の記念碑を見る前にオストロベツ市にあるゴシケーヴィチの胸像をご覧ください。(次の記事です。)
 

オストロベツへの旅 5

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 オストロベツの学校の記念室には、函館のパンフレットや絵葉書などが寄贈されており、それも飾ってありました。
(ゴシケーヴィチには関係なさそうな平安神宮の絵葉書もありました。でもまあ、ゴシケーヴィチをきっかけに日本文化のことも勉強しましょう、という学校側の意図は分かりますね。将来、日本文化情報センターからも日本のことが勉強になるようなものを寄贈することにしました。) 

 その中に高田嘉七さんがこの学校を以前訪問していたことが分かりました!
 高田嘉七さんは高田屋嘉兵衛から数えて7代目に当たる子孫です。
 高田屋嘉兵衛についてはこちらです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B


 高田嘉七さんがオストロベツを訪問した理由はちょうどそのときマリ村にゴシケーヴィチの記念碑が建つことになり、その除幕式に招待されたからなのです。
 この学校に展示されている日本の物も高田嘉七さんが寄贈したものが多いと思われます。
 残念なことに高田嘉七さんは昨年11月に亡くなられています。しかし今でもそして末永くこの学校で高田嘉七さんのオストロベツ、マリ村訪問のことが記憶に残ることと思います。
 

オストロベツへの旅 4

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これもやはり学校の記念室に展示してあったゴシケービッチが自分の人生の中で移動した航路などを地図で示したものです。
 地名の表記がベラルーシ語になっていますが、日本人でも理解できると思います。
 生誕地ははっきりしていませんが、ミンスクの父親がロシア正教の神父であったため、ミンスクの神学校に入学。成績優秀であったため、卒業生のうち2名しか枠がなかったロシア、サンクトペテルブルグの神学校への入学ができました。
 その後ロシア宣教師団の一員に指名され、陸路で北京へ。北京滞在中は中国語を勉強しましたが、このほかのアジア各国の言葉もかじっていたそうです。
 中国でのミッション終了後、ペテルブルグ(当時はロシア帝国の首都)に戻り、中国語ができる、ということでロシア外務省アジア局に入り、次は日本派遣使節団に中国語通訳として日本へ。
 アフリカの喜望峰を回るルートだったので、出発してから10ヶ月後にやっと日本へ到着したそうです。
 しかもゴシケーヴィチは船酔いになり、長期間の船旅にも関わらず、船の揺れに体が慣れることはなかったそうです。
 つまり船に乗るたびずっと船酔いに苦しんでいたということです。

 このときの日本への航海のようすは同乗していた作家のイワン・ゴンチャロフが紀行文『フリゲート艦パルラダ号』に記録しています。(日本語訳では『ゴンチャローフ日本渡航記』)
 そこにゴシケーヴィチも登場しますが、ゴンチャロフとゴシケーヴィチでは身分に差があったためか、ゴシケーヴィチが船酔いでいつも気分が悪かったせいか、この2人は10ヶ月の長旅にもかかわらず、あまり会話をしていません。
 しかもゴンチャロフはゴシケーヴィチのことをウクライナ人と誤解しており、紀行文『フリゲート艦パルラダ号』ではゴシケーヴィチの名前をヨシフではなく「オシプ」としています。
 オシプというのはヨシフのウクライナ表記です。
 そのため、オシプ・ゴシケーヴィチと思っている人もいるのですが、これはゴンチャロフの勘違いです。

 やっと日本に着いたと思ったら、地震による津波で載っていた船が大破したり、苦労続きの日本派遣使節団・・・。
 (詳しくはこちらをご覧ください。「戸田村(静岡県)」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E6%9D%91_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)


 戸田村の人は本当にすばらしい! 地震の被災者であったにも関わらず、沈没しかかったロシア船から乗組員を救助。さらには協力し合って船を建造するのだから、感動です。)

 この後もゴシケーヴィチはロシアへの帰路、イギリス船に拿捕され、9ヶ月も橘耕斎と船中に抑留されます。
 これはゴシケーヴィチが犯罪を犯した、ということではなく、当時、クリミア戦争が進行しており、イギリスはロシアと敵対関係にあったため、海上でロシア人を発見すると、イギリス船が捕虜にしていました。
 橘耕斎はロシア人ではなく日本人だったのですが、密航者だったので、怪しいということでイギリス船に乗せられたのです。
 しかし転んでもただでは起きないこの2人。
 ゴシケーヴィチと橘は言葉を教え合い、さらには和露事典までいっしょに作ってしまうのです。

 イギリスのせいで大変な目に合いましたが、やっとロシアに戻ってくると、今度は初代日本領事に任命されます。今回はシベリア経由で函館へ。
 任務終了後もシベリア経由でペテルブルグへ戻ります。

 しばらくペテルブルグで働いていましたが、慢性肺炎となり、気温が低く日照時間も短いペテルブルグでの生活が健康によくないから、という理由で退官。
 故郷のベラルーシへ戻ります。しかし生まれ故郷ではなく、なぜか(縁もゆかりもなさそうな)現在のオストロベツのマリ村で土地を購入し、家を建てて余生を過ごすことになります。
 どうしてゴシケーヴィチがマリ村を人生最後の場所に選んだのかはよく分かっていませんが、ゴシケーヴィチの妻がこの村の出身だったようです。
 ちなみにゴシケーヴィチの最初の妻、エリザベータは函館で亡くなっており、その墓が今でも残っています。
 マリ出身の妻というのは2番目の妻、エカテリーナです。
 
 とにかく60年の人生の中でどれだけの距離を移動しているのか・・・この地図を見ていると目が回りそうです。
 この行程を全部つなぐと、地球3周の距離になるそうです。
 
 静かなマリ村でゴシケーヴィチは「日本語の起源」という本を執筆しています。(しかし出版されたのは1899年になってから。死後24年も経っています。しかも出版されたの場所はロシアでもベラルーシでもなくリトアニア。この本はベラルーシ国立図書館で大切に保存されています。)

 それにしてもすごい人だと思います。私もゴシケーヴィチみたいな人になりたいよ・・・。(でも無理・・・。だいたい脳みそがちがうし、私にはこれだけの旅をする気力も体力もない・・・。)

 

オストロベツへの旅 3

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これも記念室のようすです。ゴシケーヴィチとともに日本へ航海したプチャーチンの写真や、橘耕斎と表した歴史初の本格的和露事典「和魯通言比考」の写真などが展示されています。
 今回スモリク先生といっしょにゴシケーヴィチの記事を書いて雑誌に掲載される予定です。共同執筆、ということになっていますが、私は日本人の氏名や地名のチェックをした程度で大したことはしていません。
 でもやはり調べて勉強しないといけないことがたくさんあったので、日本文化情報センター所属の文献を引っ張り出したり、ネットで探したりして、だいぶゴシケーヴィチのことがよく理解できるようになりました。
 
 前述のウイキペディアでもゴシケーヴィチのことを知ることができますが、私がすごいなあと思ったのは・・・
 初のロシア領事として日本へやってきて、ロシア領事館を建てた・・・というのは当然、と思うのですが、病院を作ってしかも日本人を無料で診察したり、ロシア語学校を作ったりしたことです。
 さらには子ども向けのロシア語の教科書「ロシアのいろは」の作成をバックアップして、400部(500部という説もあります)印刷して、日本人の子どもに配っています。
 また写真技術も伝え、洋服の作り方、パンの焼き方も日本人に教えています。
 昆虫の研究もしていて、サトキマダラヒカゲという蝶の学名はゴシケーヴィチに由来しています。
 さらに日本で最初(1858年)にクリスマスツリーを立てたのもゴシケーヴィチなのだそうです!

 こんなにさまざまなことを幕末の日本でしていたとは・・・!
 幕末の日本史と言うと、激動の時代でしたが、そんな中、どちらかと言うと外交面以外の分野でこのような活動をしていたベラルーシ人がいたんですね。
 もう少し日本史の勉強の中でゴシケーヴィチのことを日本の子どもにも教えてほしいものです。
(ペリーなどとちがってゴシケーヴィチのことは学校の教科書には載っていないし・・・。)
 
 確かにゴシケーヴィチは政治家でもないし、領事に選ばれたのも、言葉が分かっているからということで選ばれた(言葉の知識以外にも人柄により推薦された、という記録もありますが)ということですが、日本に来てから行ったことは、政治や外交の世界ではなく、一般人の中に溶け込むことばかりですね。
 だから一見地味に見えるのですが、ゴシケーヴィチが日本に与えた影響は実は大きいのではないでしょうか。
 日本人にももっと多くの人にゴシケーヴィチのことを知ってもらいたいです。

 そういうベラルーシでもゴシケーヴィチのことはあまり知られておらず(これも教科書に載っていない、あるいはロシアの歴史の範囲に入れられてしまうため)今回記事が掲載されるのも教育関連雑誌なのですが、これを通してまずベラルーシの教育関係者にゴシケーヴィッチの足跡を知ってもらいたいです。
 ベラルーシ出身で、しかもお金持ちの家庭に生まれたのではなく、自分の頭脳によって国際的な役割を担うことをした人がいたのだということをもっとベラルーシ人にも知ってほしいです。

 もっともこのオストロベツの学校で学んでいる子どもたちはゴシケーヴィチのことをよく知っているわけですから安心ですね。
 ゴシケーヴィチのような人がこの地からうまれてほしいです。

 (あ、ウイキペディアのゴシケーヴィチのページで「1862年9月20日(文久2年閏8月9日)にはロシア人としては初めて将軍徳川家茂に謁見を許される。」とありますが、ゴシケーヴィチはベラルーシ人なので、この表現はおかしいですね。)




 

オストロベツへの旅 2

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 オストロベツ地区にはいくつかの市と村があります。
 その中で中心地なのはオストロベツ市。そこにある学校「オストロベツ第1ギムナジア」の2階にゴシケーヴィッチ記念室がありました。
 実際には同じ部屋の中に「ゴシケーヴィッチ記念コーナー」「第二次世界大戦下のオストロベツ」「私たちの学校の歴史」といったいろいろなコーナーがありましたが、やはり一番目立っていたのはゴシケーヴィッチのコーナー。
 夏休み中にも関わらず、日本人が来ると言うのでわざわざ生徒さんが案内役をしてくれました。
 普段はベラルーシ語で展示物の説明をしてくれるのですが、私のためにロシア語でしてくれました。
 すらすらとゴシケーヴィチの生涯について話していて、とても慣れているなあと思いました。
 そしてゴシケーヴィチゆかりの地に住んでいることを誇りに思っているようでした。すばらしい!
 
 
 

オストロベツへの旅 1 

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 7月14日、ヨシフ・ゴシケーヴィチゆかりの地、マリ村へ行ってきました。
 ヨシフ・ゴシュケーヴィチは帝政ロシアの初代日本領事だった人です。
 4月にこのような記事を書き、ゴシケーヴィチの生誕地は、グロドノ州と書きましたが、間違いです。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/35cd5b2b5a7fb5f4ead9d35b4a06af9f


 ウイキペディアではミンスク郊外の生まれ、となっていますが、諸説あってはっきりしないそうです。
 生まれた年も1814年説と1815年説と二つあります。また埋葬された場所(お墓のあるところ)も確定していません。
 2014年は生誕200年に当たるため、さまざまな記念式典が開催される予定ですが、それに向けて、出身地や埋葬の地などはっきりさせようではないか、ということになり、現在ベラルーシの学者が中心に調査をしようとしています。

 ゴシケーヴィチの氏名の表記ですが、これもいろいろあります。(ゴスケウイッチとか・・・)
 ベラルーシ語表記からの転記だとヤゼプ・ガシケービッチになるのですが、ウイキペディアではヨシフ・ゴシケーヴィチとなっていますので、このブログでもこれからそのように統一します。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81


 ゴシケーヴィチが生まれたところは「ミンスク郊外(それ以上の詳細不明)」「ゴメリ州ゴシキ村」「ゴメリ州ヤキモヴァ・スロボダ村」と3つの説がありますが、まだ特定されていません。
 逆に人生最後の数年を過ごした場所ははっきり分かっています。
 それはグロドノ州オストロベツ地区マリ村というところです。
 ミンスクから車で片道2時間、ベラルーシ国立文化芸術大学の文化学の教授で、ゴシケーヴィチのことを研究しているスモリク先生のお誘いを受け、マリ村へ行くことになりました。
 まずはオストロベツへ出発です。

 これはオストロベツ地区役所の公式サイトです。

http://ostrovets.grodno-region.by/

 
 英語バージョンもありますが、ロシア語バージョンのほうが情報も多いし、画像がたくさん見られます。
 リトアニアの国境のすぐそばで、小さいけれどきれいな町でした。

 画像はオスロトベツ地区役所です。当日は雨で天気が悪かったのですが、午後は少しずつよくなっていきました。
 スモリク先生が地区役所(という表現が分かりにくいのですが、日本で言えば、この地区と言うのは郡、と表現するほうがいいかもしれません。)の文化部門担当者のナタリヤさんに事前連絡しておいてくれたので、まず地区役所に向かいました。

 ナタリアさんが地区役所のすぐ近くにあるギムナジア(11年制の学校ですが、1年と5年、10年のときに入学試験を受けて合格すると通学できる学校です。)を案内してくれました。
 この学校に前から行きたいと思っていたのです。それはこの学校内にゴシケーヴィチ記念室があるとベラルーシ文化研究所のマラジス先生(この方もオストロベツ出身で、オストロベツ地区役所発行のパンフレットに言葉を寄せていました。)から教えてもらっていたのです。