ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第69回」

2007-12-28 |   ビタペクト配布活動
 12月21日にビタペクト2と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村での第69回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクト2を8個、そして「放射能と栄養」のコピーを10部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2は合計1430個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは1070部となりました。
  
 今回で通算79回目のビタペクト2の配布となりました。
 のべ人数になりますが、現時点で1430人分のビタペクト2、そして1070家族分の「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト2配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(ビタペクト2を開発、製造、販売しているベルラド研究所のサイトはこちらです。)

http://www.belrad.nsys.by


 今回も保養のため滞在した家族にお話をうかがいました。今回は18人全員が親戚という家族。しかも全員一組の夫婦の子どもと孫という大家族でした。
 説明すると、この夫婦に15人の子どもが生まれ、そのうち9人の子どもが結婚。14人の孫が生まれました。(これからも数が増えると思うとすごいです。15人の子どもを生んで育てたお母さんは「母親英雄」の称号を与えられ、勲章を持っているそうです。)
 結婚した9人の子どものうち2人(姉妹同士)が自分の子どもや弟や妹や甥っ子、姪っ子16人を連れて来ていました。
 全部で18人中、ビタペクト2を渡したのは8人です。
 出身地は、全員ゴメリ州で、ジトコビッチ地区(チェルノブイリ原発から約190キロ)、モズィリ(約90キロ)、ジャコビッチから来ていました。

 それぞれの体内放射能値はこのとおりでした。 

母親1(姉)16ベクレル
母親2(妹)25ベクレル

母親1の長女(12歳)28ベクレル
母親1の次女 (8歳) 0ベクレル
母親2の長女 (6歳) 0ベクレル
母親2の次女(生後6ヶ月)0ベクレル

母親1と2の妹(16歳)15ベクレル
母親1と2の弟(15歳)20ベクレル
母親1と2の妹(14歳)30ベクレル
母親1と2の妹(10歳)31ベクレル
母親1と2の妹 (5歳) 0ベクレル

母親1と2の甥(11歳)47ベクレル
母親1と2の甥(10歳) 0ベクレル
母親1と2の姪(10歳) 0ベクレル
母親1と2の甥 (8歳) 0ベクレル
母親1と2の甥 (6歳) 0ベクレル
母親1と2の姪 (4歳) 0ベクレル
母親1と2の姪 (2歳) 0ベクレル

 このうち0ベクレルではなかった8人にビタペクト2を渡しました。
 子どもたちの健康状態を尋ねると母親1の長女(12歳・28ベクレル)と母親1の次女(8歳・0ベクレル)の甲状腺が腫れているそうです。長女は2年前の夏休みにドイツへ保養へ行ったそうですが、結局また放射能が蓄積されています。
 次女のほうは体内放射能はないものの、まぶたがよく痙攣するのが悩みだと話していました。
 まぶたの筋肉を鍛える運動をすれば、治るそうで、保養滞在中に専門の病院へ行って医師の指導を受けたいとお母さんは話していました。
 
 他の子どもたちには特別な持病などはないそうです。
 全員血のつながりがあるせいか、とてもみんな仲がよく、和気藹々の様子でした。
 それにしても、15人の子どものお母さん、立派です。こんなことを言っては何ですが、子どもが多いと経済的に苦しくなったり、細かいところまで子ども一人一人に目が行き届かず、それが子どもたちの服装などに出てしまうことが多いのですが、今回出会った子どもたちはみんなこざっぱりとしていて、お母さんの愛情が表れていました。 
(上記の表を作成していて気がついたのですが、このお母さんの末っ子が5歳なのに12歳の孫もいるんですよ。すごい。ある意味うらやましい。)

 今回も子ども達に折り紙や、折り紙の作り方のコピー、自分で作る竹とんぼ、お正月が近いのでお年玉袋(中身はお金が入っていなくてごめんなさい。)お母さんにはお正月用の祝い箸をプレゼントしました。
 日本ではどのようにお正月をお祝いするのか、みんな興味深々で質問してきました。

 最後になりましたが、ビタペクト2の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄付してくださった方々、またバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に、この場を借りて深くお礼申し上げます。
 多くの方々に支えられて、この活動が続いています。ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。
 今年も無事この活動を続けることができましたが、来年もまたできるかぎり続けていきたいと考えています。どうぞ来年もよろしくお願いいたします。

日本文化情報センターの活動  第2回日本文化&アニメフェスティバルに参加

2007-12-12 | 日本文化情報センター
 大変遅くなりましたが、9月の秋分の日に行われた第2回日本文化&アニメフェスティバルに日本文化情報センターが参加したことについてご報告します。
 ご報告がこんなに遅れたのは、実はこの報告を書きたくない気持ちでいっぱいだったからです。

 2006年9月秋分の日にミンスク市内で行われた第1回日本文化&アニメフェスティバルに参加したときの様子はこちらのHP「ベラルーシの部屋過去ログ 2006年9月」をご覧ください。


http://belapakoi.s1.xrea.com/logs/2006/index.html


 そして今年の第2回日本文化&アニメフェスティバルの公式サイトはこちらです。(ロシア語表記のみ。)

http://www.higan.org/


 今年は会場も広いところに変り、内容もずっと盛りだくさんになっていました。
 主催者側から、日本文化情報センターから展示品の貸し出しを依頼されたのですが、場所が広くなったので、たくさん貸してほしいという要望でした。さらに今年は日本の昔話を題材にした劇も上演するので、そのための大道具や小道具までかしてほしいと頼まれました。
 希望する展示物は全部で151点。
 あまりに多いので、無料で貸してもいいけれど、その代わりに各展示物に
「日本文化情報センター提供」
と表示することを条件にし、貸し出すことにしました。
 壊れ物の展示物などは貸し出しの際、非常に気を使うのですが、せっかくのお祭りなので、多くの人に見てもらいたい、というのと、センターの宣伝になるということで、了承しました。

 しかし、実際に当日会場へ行ってみると、どこにも日本文化情報センターが協力していることが書いてありませんでした。
 証拠写真の画像をご覧ください。
 展示物にはセンターの名称どころか、そのものについての説明もないし、せめて会場の壁に「日本文化情報センターから151点の展示品を提供」というポスターでも貼っておいてほしかったのですが、それもなし。
 上記の公式HPを見ても、センターのことは書いてありません。ほかの協力した団体名も書いてありません。
 しかも今年は会場への入場は有料だったのです。
 つまり他のところから無料で借りた展示物を並べて、自分たちはチケットを売って収益を得たわけです。

 別に収益を得てもかまいません。ただ、約束は守ってもらわないと。
「これでは話が違う。」
と主催者側に言うと
「でも時間がなくて・・・。昨日なんて夜中の1時まで準備にかかったんですよ。」 
と言い訳をし始めました。しかもそう言う人たちは侍のコスプレをしているんですよ。
 武士に二言なし。言い訳するな! と思い、
「あなたたちはかっこうだけは日本人みたいだけど、中身はからっぽです。表面は日本人になりきったつもりのようだけど、ベラルーシに住む一日本人である私と理解し合えることすらできないのはどういうことですか?」
 と言って帰りました。(言われたほうはさすがに固まっていた。)

 しかもイベント終了後すぐに展示物を返す、と言っていたのに、
「やっぱり明日でいいですかあ?」
という電話はかかってくるし、いやになりました。
「あなたたちの言うことが信用できますか? 約束どおりすぐ返してください。」
と言ったら、あわてて返しに来ました。
 まあ、展示物が無事破損・紛失することなく戻ってきてよかったです。

 このようなわけで、来年もまた第3回日本文化&アニメフェスティバルを開催するそうですが、日本文化情報センターは今後参加・協力はしないことに決定しました。
 日本の文化にベラルーシ人が興味を持ってくれることはうれしいことですが、イベントの主催者がこうだと、協力はできませんね。

ぶどう酒作り その6

2007-12-10 | ベラルーシ生活
 大きい瓶2つにぶどうを入れたものの、ぶどうの量が多すぎ、3つ瓶が必要であったと考えたS夫は友達から瓶をもらってきました。
 そして中身を移しかえている最中に悲劇は起こったのです・・・。
 S夫が大きな瓶を抱え、中身を移し、そっと床に下ろそうとしたとき、少し手が滑ってしまったのです。
 瓶の底が床に触れた瞬間、「ドン」という鈍い音がして、瓶が「爆発」しました。

 この瓶はもともと古かったところへ中に発酵するぶどうを大量に入れていたせいで、割れやすくなっていたのです。
 そこへ床に(軽く)ぶつける、という衝撃が加わり、中から外に向かって割れてしまいました。
 普通に瓶が割れたのではないことは間違いありません。なぜなら、1メートルぐらい離れた冷蔵庫の扉にもぶどうの汁が飛び散っていたからです。
 爆発音がしたとき、私はゴム手袋風船が割れたのかと思って、あわてて台所へ走って行ったのですが、そのとき目に飛び込んできた風景は、ぶどう酒の池の中で呆然と突っ立っているS夫の姿でした。(無残。) 

 その後、台所にひいていた絨毯は洗浄は不可能ということで、S夫とぐるぐる巻き(ぶどう酒を吸い込んでいてめちゃくちゃ重い。)にして、ゴミ捨て場へ捨てに行きました。
 さらに台所のあちこちに飛び散ったぶどうの汁や種や皮を半日かけてふき取りました。砂糖が大量に入っているので、にちゃにちゃにくっつき、掃除が本当に大変でした。
 ああ、もったいない・・・。

 しかし、これでぶどうが全部パーになったわけではありません。残った2つの瓶のぶどう酒をその後も熟成し続け、2ヵ月後、ゴム手袋がしぼみ始めました。
 これでぶどう酒の発酵が完了。
 その後、中身をこして、ぶどう酒と種・皮を分けます。
 さらに小さな瓶に移しかえますが、そのときのぶどう酒はにごっていますので、しばらく放置しておきます。
 すると瓶の底に細かい皮のカスなどがたまり始め、だんだん澄んできます。
 これでようやくぶどう酒の完成!

 味のほうは、砂糖をたくさん入れたにもかかわらず、酸味がやや強い辛口になっていました。
 私はおいしいと思ったけど、S夫は来年作るときはもっと砂糖を入れる、と言っていました。しかし苦労しただけあって、格別の味がしましたよ。量も30リットルぐらいできて、幸せ。(^^)
 来年は瓶を壊さないように注意したいと思っています。(^^;) 
 

ぶどう酒作り その5

2007-12-01 | ベラルーシ生活
 もう一つの蓋の仕方は、管を通す方法です。
 まずプラスチックの蓋に穴をあけて、そこに管を通します。しっかり蓋を閉め、さらに管を通している穴から空気がもれないように、隙間に粘土を塗りこんでおきます。
そして管の片方は水の入った瓶の中につけておきます。しばらくすると気泡がぶくぶくと出てきます。
 気泡が出てくるのが止まればぶどう酒の完成です。

 とまあ、ここまで書くと、我が家のぶどう酒作りは順調だったように思われますが、実はこの後とんでもないことが起こってしまいました。
 失敗の原因の一つは、瓶の中にぶどうをたくさん入れすぎてしまったこと。
 体積がどんどん増え、管の中やゴム手袋の中にもぶどうが入り込んでしまいました。それで管の中につまったぶどうなどを取り除いたりしていたのですが、その後、大変なことが・・・
(続く)