ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 8

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 最後にカンファレンスのプログラムをロシア語ですが投稿しておきます。
 本当に私、講演しましたよ、の証拠ということで。(笑)

 チェルノブイリ原発事故のせいで、人口減少、地元経済の衰退・・・を憂う声を地元の方から聞きましたが、生誕地の人々が、ゴシケーヴィチのことを誇りに思ってほしいですね。
 またホイニキを訪問したいです。

 

 
 

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 7

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 私にできることと言えば、ホイニキ市内にある郷土資料館内で同日行われたコンファレンスで登壇して、イオシフ・ゴシケーヴィチの日本での業績をロシア語で地元の方々に伝えることですね。
 コンファレンスではまずオブホワ先生が登壇し、ゴシケーヴィチについての最新著作の内容に沿って、講演されました。
 オブホワ先生はゴシケーヴィチ研究の中でも、特にゴシケーヴィチが正教の宣教師として中国に滞在していたおよそ10年間についてをテーマにしており、ベラルーシでこのテーマについては第一人者です。
 画像はオブホワ先生の講演のようすです。

 私もちゃんと講演しましたよ。しかし、いつものことながら自分で自分を撮影できないので、私の画像(ちゃんと仕事をしてきましたよ、の証拠写真)がなくてすみません。
 でも本当にオブホワ先生の後に登壇して、ゴシケーヴィチが函館に建てたロシア病院について、そしてベラルーシ人の間では知名度が低い新島襄とゴシケーヴィチとの関わりについて、また新島襄が出てきたら、外せないニコライ・ヤポンスキーについてもお話ししました。
 また、ロシア病院の初代医師だったミハイル・アリブレフトについても少し詳しくお話ししました。
 講演の中の登場人物が多くて、ゴシケーヴィチから離れた部分もありましたが、何とかロシア語で講演できたと思います。

 ホイニキ地区はチェルノブイリ原発事故の後、汚染地域に指定されており、人口が減少した地域です。ストレリチェヴォ村はウクライナの国境に近く、つまりチェルノブイリ原発にも近いです。
 (それにしても、ゴシケーヴィチが生まれた場所が放射能に汚染され、人生最後の日々を送った場所のすぐそばに新しく原発が建設されている、というこの運命の組み合わせが何とも・・・。)

 私がロシア病院を大事なテーマにしたのは、やはりロシア病院と言いながら、日本人に無料で治療や投薬をしていて、ロシア帝国の権威を高めるという隠れた目的がゴシケーヴィチにあったとは思いますが、それでも人助けをしていた(しかもロシア人からしたら、異国の人間。)のが、ヒューマニズムにあふれていたと思うのです。
 人種を超えて、命の助け合いをする、というのは本当に大事なことですね。現代だったら、そんなに難しいことではないですが、150年前の幕末の日本ですでにこんなことを実行していたゴシケーヴィチはどうして、このような考えに行き着いたのかなあ、と想像しています。
 そもそも神父の息子に生まれて、村の普通の身分の人たちの間で暮らし、神学校に通って、教会がすぐそばにある環境で成長してきた、という背景があったからではないでしょうか。
 

 

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 6

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 画像の右端に塀が写っていますが、これが現在ある教会の塀です。
 写っているのは、ゴシケーヴィチ研究をされているナタリヤ・オブホワ先生、隣村の教会のムスチラフ神父(教会で保存されている記録を調べたら、ご自分のひいひいひいおばあさんの洗礼をイオシフ・ゴシケーヴィチのお父さんがしていたことが分かったそうです。)、ホイニキ市内の学校で歴史の先生をしているスモリスキー先生です。
 オブホワ先生が誘ってくださったのと、スモリスキー先生がいろいろ手配してくださったおかげで、今回の除幕式に参加することができました。
 お二人には感謝の気持ちでいっぱいです。

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 5

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 教会の塀の外側に沿って小道があり、その右手は広々とした野原がずっと続いていました。
 「何もない」という光景といえばそうなのですが、200年前にはこの場所にミハイロフスキー教会があって、イオシフ・ゴシケーヴィチの父が神父をしており、村人たちがミサに訪れていたのでしょうね。
 神父の息子は神父になるのが当たり前、という時代だったので、イオシフはミンスク神学校に入学しました。
 ちなみにこの神学校はミンスク、という名称なので、ずっとミンスクにあったような気がしますが、所在地がベラルーシ国内のあちらこちらに変わっており、イオシフ・ゴシケーヴィチが入学したときは、スルーツクにありました。その神学校に入学して以来、イオシフ・ゴシケーヴィチがこの故郷に戻ったはっきりした記録はないです。

 ただ、イオシフの妹、アンナはヤコブ・ズモロヴィチという神父と結婚していますが、このズモロヴィチ神父はイオシフ・ゴシケーヴィチの父が病死した後、ミハイロフスキー教会の神父に選ばれた人です。
 前の神父様が亡くなったので、次の神父様が配属されて、前の神父様の娘と結婚した、ということですね。
 ズモロヴィチ神父とその妻、アンナ、そしてその間に生まれた子どもたちは、教会の横の神父一家用住居で暮らしていました。つまりゴシケーヴィチ神父一家が住んでいた家に住んでいたということです。
 ゴシケーヴィチ神父一家の息子たちは、神学校に入学して、村を離れて、その後神父になって、他の地域の教会の神父に(わかりやすく言えば)派遣されて、ばらばらになっていますね。イオシフは遠く日本にまで行ってしまうし・・・。
 こうして考えるとアンナだけは生まれ故郷のストレリチェヴォ村でずっと暮らしていたということになりますね。
 その母親も夫の死後、娘のアンナのそばにいたと思われ、つまりストレリチェヴォ村で亡くなった可能性が高いです。
 教会の記録をくまなく探したら、お葬式の記録など出てきそうですね。

 ちなみに画像に小さく写っているのは、ヤギの放牧をしていた地元の方です。
 200年前もこんな光景がこの村にあったでしょうね。
 
 
 
 
 

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 4

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 この教会の周りは塀に囲まれているのですが、教会の建物と門の間に大きな木の切り株がありました。
 おそらく枯れてしまって切り倒され、今は切り株だけ残ったのでしょう。この大きさからして、きっとイオシフ・ゴシケーヴィチがこの敷地内にあった家で暮らしていたときにはこの木はあったにちがいない、と思いました。
 きっと高い木で弟たちと登ったりして遊んでいたのではないでしょうか。
 といろいろ想像しました。

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 3

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 残念なことにイオシフ・ゴシケーヴィチの父が神父をしていたミハイロフスキー教会は残っていません。
 18世紀末に建てられたその場所は野原になっています。
 ところで神父とその家族は教会のそばに建てた家屋で暮らすことが多かったのですが、その家自体も残っていません。しかし、この家屋があった場所に現在、別の名前の教会が建てられています。
 建物自体は20世紀初頭に建てられたそうなのですでに築100年は経過していますね。
 画像はその教会の写真なのですが、かなり古くて、ボランティアでいいからペンキ塗りをさせてください、と言いそうになりました。
 ストレリチェヴォ村の人口が800人ぐらいに減少しており、常に教会に神父様がいるわけではなく、隣村の教会の神父様が定期的にミサをしに回ってきてくれているそうです。教会には堂守りの方が数人おられて、教会の敷地内の庭仕事や教会所有の畑仕事をしていました。
 ここでゴシケーヴィチ神父一家が200年前につつましく暮らしていたのか、と想像すると感慨深いものがありました。
 

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 2

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 除幕式のようすは、ゴメリ州のニュースサイトからも取材を受けました。
 ロシア語ですが、画像付きで報道されていますので、リンク先を貼っておきます。
 「プラウダ・ゴメリ」での記事はこちらです。
 私は日本人というだけで地元の人間でも子孫でもないのに除幕までさせていただき、大変名誉なことと感謝しております。

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 1

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 イオシフ・ゴシケーヴィチ生誕205年を記念して、生誕地であるゴメリ州ホイニキ地区ストレリチェヴォ村に顕彰銘板が設置されることになり、その除幕式に出席しました。
 除幕そのものもさせていただきました。大変名誉なことで、記念式典の主催者の皆様方に感謝申し上げます。

 ゴシケーヴィチの生誕地には諸説あでりました。ウィキペディア日本語版ではゴメリ州でもヤキモヴォ・スロボダというところが生誕地、となっていますが、誤りです。(2019年5月24日現在の記述)
 ヤキモヴォ・スロボダには、イオシフ・ゴシケーヴィチの弟が2人住んでいました。弟の1人、アンドレイはこの地の教会の神父をしており、もう1人の弟のフョードルはその手伝いをしていたのですが、1855年ごろに相次いで亡くなっています。

 イオシフ・ゴシケーヴィチとその弟や妹が生まれた場所は全員、ストレリチェヴォ村(厳密には当時はストレリチェフ村)の生まれであることが、村の教会の洗礼者の記録から正確に判明しました。
 そこで、イオシフ・ゴシケーヴィチの生誕地に銘板を設置しようという声が上がり、(でもよくある話ですが、予算があるとかないとかで時間が過ぎてゆきました。)ようやくこの度、除幕式が行われる運びとなったわけです。

 生年月日にも諸説あり、まだ定まっていません。でも今回生誕地が確定したので、生年月日も研究が進み、いつか確定することと思います。

 
 

ベラルーシ国立図書館公式サイトニュースで「手袋を買いに」が紹介されました

2019-05-20 |   新美南吉
 ベラルーシ国立図書館公式サイトでニュースとして新美南吉ベラルーシ語訳作品集「手袋を買いに」が紹介されました。
 あのベラルーシの国立図書館ですから、名誉なことですよ。
 早速、そのページをリンクしようとしたのですが、直接貼り付けることができませんでした。
 仕方ないので、そのニュース記事の最初の部分だけプリントアウトしたものを画像にして、この記事でご紹介します。
 原文はベラルーシ語です。けっこう大きく取り上げられていてうれしかったです。内容も作者の紹介もきちんとされていて詳しいものでした。
 「国立図書館で所蔵されています。読むことができますよ。」とも案内されていて、ありがたいことです。
 たぶん、ロシア語ではなくベラルーシ語への翻訳だったことに意義があり、ベラルーシ人も喜んでくれたのだろうと思います。

5月9日付 東愛知新聞

2019-05-10 |   おりづるの旅
 2019年5月9日付の東愛知新聞でも、「日本とベラルーシをつなぐこども絵画展」に出展するベラルーシ側の作品について報道されましたので、ここでご報告いたします。

 「豊橋市にベラルーシの子どもの作品を持って行ってほしい。」
と頼んだら、3人も新聞記者が待ち構えていたみたいですね。ベラルーシ人3人も何とか日本語のインタビューに答えることができたようです。

 同席していただいた、神野様、浅野様、サポートをありがとうございました。
 
 ベラルーシの3人のうち、マルガリータさんは自作の墨絵作品を出展します。
 日本で初めて自分で書いた墨絵作品が展示されるのですから、本当によい機会をいただきました。本人に代わってお礼申し上げます。
(私が墨絵を教えているわけではないのですが。)(笑)

4月22日付 東日新聞

2019-05-10 |   おりづるの旅
 2019年4月22日付 東日新聞でも、「日本とベラルーシをつなぐこども絵画展」に出展するベラルーシ側の作品について報道されました。
(正しくは、誰がベラルーシから持ってきたかのニュースですね。)

 最初は郵送するつもりだったのですが、この新聞記事を見て、日本語の生徒3人に頼んでよかったと思いました。
 そのほうが顔が見える交流ができると思うんです。
 

4月21日付 中日新聞

2019-05-10 |   おりづるの旅
 2019年4月21日付の中日新聞をご紹介します。
 6月に愛知県豊橋市で絵画交流展「日本とベラルーシをつなぐこども絵画展」が開催されます。
 主催は「日本とベラルーシを子どもの絵でつなぐ会」です。会長は豊橋市の作家、神野志保子さんです。神野さんはペンネーム、うみのしほで「おりづるの旅」の作者です。
 おりづるの旅が両国で広がっています。

 絵画展については後ほど改めてご案内いたします。
 ここでは、日本文化情報センターの日本語教室の生徒3名が、ベラルーシ側からの出展作品を直接ベラルーシから豊橋まで運んでくれた、というニュースです。

 この記事に1ヵ所間違いがあります。
 「カルポアさんは自国の日本文化情報センターで剣道などを学んでいる。」
とありますが、弊センターでは剣道は教えておりません。
 日本語はこの3人に教えていますが、剣道はミンスク市内の別の場所にある、「ミンスク剣道クラブ」で練習しています。(あるいはトレーナーをしています。)

 

「戦争は女の顔をしていない」漫画化

2019-05-09 | Weblog
 ベラルーシは今日、戦勝記念日です。75年目の解放記念日でもあります。
 もうすぐ軍事パレードが各地で始まるし、夜には花火が上げられます。
 せっかくですので、この日に漫画化された「戦争は女の顔をしていない」をご紹介します。
(教えてくださったさばさん、ありがとうございます!)

 原作者はベラルーシのノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエーヴィチです。
 ネット上でも第一話だけ読むことができます。
 リンク先はこちら

 私の第一印象ですが、絵柄がさわやかすぎて、原作を読んで得た私の印象とは相容れないものがありますね。
(ベラルーシ人がこれを見たら、どう思うのかなあ?)
 でも漫画から入って、文章の世界に入る日本人も多いと思います。
 原作は日本語訳されていますので、ぜひお読みください。

 今日もこの日は戦勝国のベラルーシ(当時ではソ連)がお祭りになりますが、敗戦国(日本)の人間からすると、いっしょに浮かれていいのか? と思うときもあります。
 もっとも現代ベラルーシにおける祝日の祝い方を知るにはよい日ですが。
 そしてまた、アレクシエーヴィチが著作の中に書いた戦争時代の人々の証言によって、現代人に見せてくる戦争の姿は、本当に深くて暗くて複雑です。 

友情の花輪:日本 8

2019-05-03 | ベラルーシ文化
 こちらは日本文化情報センターが提供したイベントではなく、ミンスクにある聖二コライ・ヤポンスキー教会の日曜学校先生と生徒のみなさんが披露した影絵劇です。
 しかも「二コライ・ヤポンスキーの人生」という劇です。
 手作りの影絵がすばらしいですね。しかも二コライ・ヤポンスキーのことがよく分かるストーリーです。
 せっかくなので、ここでご紹介させていただきました。
 他にも尺八の演奏などもあり、盛りだくさんのイベントでした。
 (私個人としては主催者側だったので、全てのプログラムを見られなかったのが残念・・・)

 ベラルーシ人に日本文化に触れてもらえる機会が得られ、本当によかったです。
 発案者のヤロツカヤ先生とバグダノヴィチ記念館の学芸員さんたちに感謝しています。

友情の花輪:日本 7

2019-05-03 | 日本文化情報センター
 こちらは着物の展示の様子です。
 バグダノヴィチ記念館にマネキンが2体あるということで、着付けしてみました。
 着物や帯を日本文化情報センターに寄贈してくださった皆様、本当にありがとうございます!
 着物の間に立って記念撮影するベラルーシ人がたくさんいました。

 他にも手作りのお手玉を寄贈してくださった方、ありがとうございました。
 折り紙用の紙も活用できました。寄贈してくださったチロ基金支援者の皆様、本当にありがとうございます!