ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

「手袋を買いに」が図書専門誌で紹介されました

2018-12-22 |   新美南吉
 ベラルーシの図書専門誌「ビブリヤテカ・プラパヌエ」2018年12月号で、新美南吉ベラルーシ語訳童話集「手袋を買いに」のプレゼンテーションについて紹介されました。
 選んでくれた編集部に感謝しています。
 この専門誌はベラルーシ全国の図書館、学校図書室で、司書の方々に読まれています。
 本の専門家が読んでくださるのでなおうれしいです。

聞き取り調査

2018-12-21 | 放射能関連情報
 1986年のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、ベラルーシの人たちはどうしていたのか、その後の健康状態はどうなのか・・・
 あくまで私の身近にいる人、偶然出会った人ですが質問してみました。
 内容は簡単ですし、対象となった人たちは医学の専門家でもありませんが、このブログでご紹介しようと思っています。

 質問事項ですが、
(A)性別 (B)事故当時の年齢 (C)事故当時住んでいた場所、現在住んでいる場所 (D)事故当時起きた症状 (E)現在の症状 (F)そのほか気がついたこと 
・・・となっています。

 この記事は回答が増えるたびに更新します。
 日本人の皆様に役立つ情報があれば、と思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。(D)なし (E)甲状腺肥大、高血圧、1年中止まらない咳 (F)高血圧と咳は遺伝によるものかもしれない。

(2)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク (D)なし (E)慢性的な頭痛。顔色がいつも悪い (F)子どもが2人いるが、甲状腺肥大で2人とも投薬治療中。

(3)(A)女性 (B)20代 (C)ナロブリャ。(チェルノブイリ原発から約60キロ)1992年にミンスクへ移住命令が出た。(D)頭痛。口だけではなく喉がとても乾いている感覚があった (E)免疫力の低下 (F)もっと早く移住したかった

(4)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故が起こった日、日光浴をした (D)なし (E)数年後から肺炎を繰り返すようになり、入退院を繰り返す。今は肺炎はおさまった。顔に血管がいつも浮き出て見えている 

(5)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし (F)妹は現在甲状腺肥大で投薬治療中。

(6)(5)の息子さん。(A)男性 (B)1歳 (C)ミンスク。事故当日、散歩をしていた。
 (D)首のリンパ腺が腫れた。暗赤色の斑点が全身にできた。医者は皮膚病と考え「何なのか分からない。」と言っていたが、後で内出血であることが分かった。その後症状はおさまる。18歳のとき兵役義務で軍隊に入ったが、その頃から体が弱くなったと感じるようになった。入隊していた軍事施設の周囲に住む住民にがん患者が多い、という話がある。今でも南風が吹くと、体調が悪くなる。

(7)(A)男性 (B)4歳 (C)ミンスク。事故のことは知らなかったが、偶然事故直後モスクワの親戚のところへ行っていた。 (D)なし (E)なし (F)ゴメリ州の食品は買わないようにしている。ベリー類は測定している。

(8)(A)女性 (B)20歳 (C) ミンスク (D)事故当日頭痛。子どもの寝つきが悪かった。(E) 子どもの免疫力低下。疲れやすい。

(9)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク。事故当時実家のあるカリンコビッチ(チェルノブイリ原発から約100キロ)へ家族全員で帰っていた。実家の畑でじゃがいもを植えて、はだしで土の上を歩いていた。5月9日ミンスクへ帰宅した。
 (D)なし (E)自分は特にないが、当時6歳だった娘は甲状腺機能に異常が出ている。今1歳の孫は健康。夫は5年前脳卒中で倒れ、現在リハビリ中。 (F)実家のある村は移住の対象にはなっていない、しかし人口が減り、特に若い人が減った。村の周りの森は測定されたが、場所によって線量にばらつきがあった。この森でとれたキノコを瓶詰めにして、ポーランドへ輸出しているのを見た。

(10)(A)女性 (B)38歳 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。風がきつかった記憶がある (D)なし (E)なし 
 (F)物理学研究所で働いていたので、5月中ごろ測定してもらった。事故当時来ていた服を着てくるよう言われたので、そうしたら、測定後に「その服は汚染されているのですぐ捨てなさい。」と言われ、全部捨てた。 

(11)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故当日一日中外出していた (D)なし (E)事故から8年後甲状腺の摘出手術を受けた

(12)(A)女性 (B)14歳 (C)ペトリコフ(チェルノブイリ原発から約130キロ) 事故当日おばあちゃんの家の畑ではだしになって草刈りをしていた。 (D)耐え切れないほどの眠気におそわれた (E)なし 
 (F)事故後、登校したら校内の菜園の手入れをするよう言われ、クラス全員で草むしりなどをした。後になって地域の測定が行われたが、地域内で一番線量が高かった場所が、その学校の菜園だったことが分かった。

(13)(A)女性 (B)20歳 (C)ミンスク (D)事故当日から数日間体がぐったりし、疲労感を感じた (E)甲状腺切除の手術を受けた。今は2児の母になっているが、健康。

(14)(A)女性 (B)8歳 (C)アゼルバイジャン。2年後ベラルーシへ引っ越した (D)なし (E)なし (F)29歳だった父はチェルノブイリの事故処理作業員として呼び出しを受け、4号炉で作業をした。防護服は支給されていた。作業中は父は何も感じなかったが、いっしょに働いている人で気分の悪さを訴えている人もいた。父は今55歳だが、3回の脳卒中に倒れ、リハビリ中。障害者認定を受けている。

(15)(A)女性 (B)28歳 (C)ゴメリ。事故当日竜巻のような強風が吹いた (D)なし (E)なし (F)息子は1986年1月生まれ。ずっと体が弱く、今でもよく病気になる。甲状腺機能にも問題がある。

(16)(A)女性 (B)14歳 (C)ゴメリ。事故当日は家族そろって公園で一日中遊んでいた (D)その日の晩から胃が痛くなり、断続的な吐き気を感じた。夜中から吐き始め、朝まで眠れなかった。 (E)なし

(17)(A)女性 (B)13歳 (C)カリンコビッチ (D)なし (E)関節痛
 (F)事故から1ヵ月後、学校の生徒全員が教師引率でエストニアに保養に行った。エストニアの保養所に夏休みの3ヶ月いて、9月からカリンコビッチに戻った。保養滞在中、エストニアの人から「チェルノブイリから来た子どもたち。放射能がうつる。」と差別された。しかし子どもたちは放射能のことがよく分からず、差別発言の意味も分かっていなかった。

(18)(A)女性 (B)13歳 (C)モズィリ (D)なし (E)疲労感、倦怠感
 (F)自分の周囲で30代前半でガンを発症する人が増えており、不安

  
(19)(A)女性 (B)20代前半 (C)ミンスク (D)なし (E)胃潰瘍 
 (F)事故当日、1歳だった息子をベビーカーに乗せて外出していた。息子は一日中機嫌が悪く、むずかっていた。
 一ヵ月後、夫とその妹の夫は汚染地域へ送られた。避難した後の無人になった住宅に盗みが入らないように、見張る役だった。当時いっしょにこの監視に携わっていた人(全員若い男性)のほとんどは、現在死亡している。夫は今でも健康だが、汚染地域に行ってから急に老けてしまい、今でも実年齢より年上に見られる。
 夫は汚染地域での任務が終わった後、ロシアのレニングラード(現在のサンクト・ぺテルブルグ)にいる親戚の家へ行った。その親戚は物理学者だったが、家のドアを開けてくれず、近くのホテルに泊まるように言った。夫はそのとき初めて放射能が危険なものなのだと理解し、その後着ていた服は全て処分した。息子は現在健康。

(20)(A)女性 (B)14歳 (C)モロジェチノ (D)生まれて初めての頭痛を起こした (E)なし

(21)(A)女性 (B)12歳 (C)ブレスト (D)なし (E)なし 
 (F)私の家族は他の家族より、被爆に神経質だったので、外出は禁じられた。事故のことをマスコミが詳しいニュースにする前に学校や町で、放射能が飛んできたらしいとうわさになり、あちこちでその話を話していたが、具体的な被爆対策についての情報はなかった。

(22)(A)男性 (B)8歳 (C)ミンスク。家の前の公園で毎日遊んでいた。(D)なし (E)12歳のとき難病にかかって、1年間入院生活を送った。退院したときに身体障害者認定を受け、現在に至る。

(23)(A)男性 (B)0歳 (C)ロシア (D)なし (E)なし
 (F)チェルノブイリ原発事故が起こる3ヶ月前にベラルーシで生まれた。父がロシア人で母がベラルーシ人。両親はロシアで出会って結婚し、ロシアで暮らしていたが、母がベラルーシの実家へ里帰り出産のため戻っていた。
 自分が生まれて二ヶ月のとき、父が子どもをつれて早くロシアの家へ帰ってくるようにしきりに訴えるという夢を母が見て、胸騒ぎを感じ、予定を早めてベラルーシの実家からロシアの父の元へ帰った。直後にチェルノブイリで事故が起きたので、自分は被爆しないですんだ。
 現在自分はベラルーシで暮らしているが、WBCの結果もごくわずかな被爆にとどまっている。母の決断に感謝している。


(24)(A)女性 (B)4歳 (C)コルマ (D)なし (E)なし 
(F)コルマから7キロ離れたところにきれいな森があり、その中に小さい村があったが、事故後高い汚染が認められ、若い世代は移住していった。しかし村を離れたくないという住民は残っていたので除染をすることになり、父がその除染作業に関わった。他の人たちといっしょに森を除染したり、人工の池を掘ったりしたが、被爆しているリスクがあるから、と「手当」と称するお金を給料に上乗せされた形でもらっていた。
その結果立ち入り禁止地区だった森は現在は入ってもよくなり、この村も消えることはなかった。しかし父は現在すでに亡くなっている。被爆との関係は分からない。
コルマは移住先に選ばれ多くの人が移住してきた。コルマのもともとの住民が移住者を差別するようなことは一切なく、みんな同情していた。
子どものとき、移住者の中に女性で髪の毛が一本も生えていない人がやってきたのを見たときは驚いた。現在もこの女の人は健在でコルマに住んでおり、今ではちゃんと髪の毛が普通に生えている。


(25)(A)女性 (B)30歳 (C)スラブゴロド。事故のことは何も知らずに1歳の娘と散歩していた。
 (D)自分自身は何もなかった。夏になってから子どもを連れて、グルジアに保養に行くよう勧められ、二ヶ月滞在した後、スラブゴロドに戻った。その後、娘が急性白血病になった。
 (E)自分は良性の甲状腺種ができている。娘はモギリョフやミンスクの専門病院に入院し、現在は病弱ながらも健在。事故当時3歳だった息子は事故から7年後の10歳になった頃、乾癬を発症。今年31歳になるが完治していない。乾癬は治療方法もまだきちんと確立されていない。
 スラブゴロドの周囲にある14の村が、汚染度が高いことが分かり、家屋全部が地中に埋められた。夫はその作業に従事した。そのため5年早く55歳で年金生活に入り年金をもらっている。しかし現在はしょっちゅう体のあちこちが痛くなり、1日の終わりはぐったりしてよく横になるようになった。
 (F)事故が起きたとき、偶然近所に線量計を持っている人がいた。事故のうわさが流れてきたので、その人は自宅周辺を計測し、近所がほとんど汚染されていることを公式発表より早く教えてくれた。
 夏になってから旧ソ連の各地へ保養に行った人がたくさんいた。現在50代、60代の人で足の痛みを訴える人が自分の周りには多くいる。原因は分からない。
 「埋葬」された村に残ったりんごの木から採れた実を測定したら、ほとんど汚染されておらず、食べてよいということだったが、現在も野生の鹿やいのししの肉は汚染度が高く検査の結果、食べられないと言われることがほとんど。自分自身は子どもに牛乳をあげることをいっさいやめた。周辺の村では1986年は農作物を作ることが一切禁止された。それでもいちごを作っていた人が、検査してみると汚染されていることが分かり、泣く泣く全て廃棄処分したそうだ。
 「埋葬」された村の住民にはミンスクなど移住先が提供されたが、村ごとの移住ではなく、バラバラになってしまい、村民のコミュニティが失われてしまった。移住先の家を売ってさらにどこかへ引越しする人も多くおり、消息が分からなくなっている場合も多い。
 娘が白血病になって、ミンスクの病院に入院しているとき、医者から自主的にどこかへ移住したほうがいいと言われたが、住むところを自分で探さないといけなかったうえ、夫が反対したので移住はしなかった。現在非汚染地域であっても病気になる人は増えてきているので、どこに住んでいようが関係ないという考えを持っている。今は無理して移住しなくてよかったと思っている。
 以前すぐ近所の一戸建てに娘の同級生の一家が暮らしていた。その子は10年ぐらいその家に住んでいたと思う。その後高校を卒業し、別の町にある大学へ進学した。その頃その子の両親は自宅を売りに出すことにした。買い手候補が下見にやってきたが、その人たちは線量計を持ってきていた。そして家の周囲や中をくまなく測定したところ、非常に高い線量だったので、その人たちは家屋を除染し、家の周りの土を全部はがして、新しい土を入れた上でその家を購入し、今も住んでいる。娘の同級生は大学生になってからがんになっていることが分かり、19歳で亡くなった。生きていたら娘と同じ29歳だったはず。住んでいた家が原因で被爆しがんになったと近所の人たちは話しているが、その子の弟は今も元気に暮らしているから、結局のところ発病の原因は分からないと言わざるをえない。


(26)(A)女性 (B)15歳 (C)事故当時住んでいた場所はスルーツク、現在住んでいる場所はミンスク (D)事故のことは何も知らず日光浴をしていた。少し気分が悪かったが、熱中症かもしれない。(E)健康に問題はない。
(F)当時母が10番目の子どもを妊娠していた。事故が起きたとき、母は気分が悪いと訴えていた。子どもは生まれたが、全ての内臓の大きさが通常の2倍の大きさで、生まれて10日目に亡くなった。母にとってこれが最後の子どもだったが。上の子ども9人にはこのような異常はなく、健康に育った。


(27)(A)女性 (B)14歳 (C)ブレスト州ピンスク地区にある村 (D)なし (E)甲状腺に多数のしこりができている 
(F)事故当時、事故のことは何も知らなかった。その頃雨が降り、水溜りに黄色い膜のようなものが張っていた。さらに泡もたくさん浮いていた。花粉が大量に浮かんでいるのだろうと思ったが、不自然な感じがした。
 自分たちが住んでいた地域は比較的安全とされていた地域で、地元の牛乳がいつも店で売られていたのに、事故後ゴメリ州やモギリョフ州など汚染地域の牛乳が並ぶようになった。比較的安全と言われていた地元の牛乳はロシアへの輸出用に回されていた。
 地元のコルホーズで飼われていた牛が次々と白血病になった。病気になった牛は処分されたが、その肉は加工工場で加工されて、市場に出回った。


(28)(A)女性 (B)22歳(C)ボブルイスク (D)全身に湿疹のようなものができ、かゆくてたまらなかった。 (E)健康 (F)事故当時、妊娠初期だったので非常に心配していた。夏の間原発から離れた場所で保養するよう勧められ、サナトリウムで暮らした。生まれた子どもは健康。
 事故があった日、両親は郊外で畑仕事をしていた。頭上を変な雨雲が通過するのを見た。後から放射能雲だと分かったが、事故のことは長く知らされなかった。


(29)(A)男性 (B)13歳 (C)ミンスク (D)めまい (E)なし 
(F)事故が起きた日は同級生の誕生日で友人5人と集まってお祝いをしていた。みんなで外に出るとしばらくして小雨が降った。その後友人全員がめまいや気分の悪さを訴え、家に帰った。
 当時70代だった祖父もその日、生まれて初めてめまいを起こして自分自身驚いていた。


(30)(A)女性 (B)31歳 (C)トレスコフシナ村 (D)頭痛 (E)慢性的なせき。25年ぐらい続いていて、原因も分からず治らない。
(F)事故が起きた日は暑い日だった。日差しが尋常ではないほどまぶしかったように感じた。ちょうどその日は夫の誕生日で家に親戚が集まっていた。暑くて仕方ないので、誰も外に出たがらず、一日家にいた。親戚の多くが頭痛を訴えていた。夫は50歳代で死去。
「放射能を防ぐために白い布を頭に巻けばよい。白でないとだめ。」と言い出す人がいて、村の住人は、そんなものかと思い、白い布を実際に頭に巻いたりしていた。
 しばらくしてから村には避難者の家族が移住してきた。隣に30代の若い夫婦が幼い子どもを連れて引っ越してきたが、その男の子は、元気に成長していて兵役義務もこなしていたのに、数年前30歳になったころ急激に太り、突然急死してしまった。両親が気の毒なので、病名など詳しくはきいていない。


(31)(A)女性 (B)29歳 (C)マチュリシチ (D)発熱 (E)両足の関節、骨盤部分の痛み。心臓の弁がちゃんと閉まらない病気。 
(F)事故後すぐ熱が出て、慢性的に微熱に悩まされるようになった。平熱が37度という状態が続き、病院へ行っても原因が分からない。1990年に夫の転勤に伴い、カムチャッカへ引っ越した。そのとたん熱が下がって健康になった。3年後、故郷に戻ってくるとまた熱が出て何年もたってからようやく平熱が36度台になった。

(32)(A)女性 (B)8歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)事故が起きた日、ミンスクに放射能を含む雨が降った。その後できた水溜りを見ると、緑色をした泡が大量に表面に浮かんでいた。気持ち悪い色で今だに忘れられない。当時は放射能と言う言葉を知っている人も少なかった。何年か経ってから近所に汚染地域から移住してきた人が引っ越してきた。その人たちに、放射能ってどんなもの? ときいてみたが、ちゃんと答えられた人はいなかった。当時は多くの人が無知だった。


(33)(A)女性 (B)13歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)高血圧、心臓病、胃炎。ダイエットをしたら、改善した。 (F)事故当時はニュースにもならず、雨が降る中多くの人が外出していた。しばらくして学校へ行ったら、担任の先生が「原発で事故があり、放射能が出てしまった。」と話して初めて事故のことを知った。
 親戚が10人ほど「仕事のため」と説明してチェルノブイリ方面へ行ってしまった。約1年後全員ががんになり、時期の差はあったものの全員亡くなった。

(34)(A)女性 (B)9歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)胃潰瘍 (F)事故が起きて1ヶ月ほどして、多くの若い兵士がトラックに乗せられて、チェルノブイリへ事故処理のため移動していくのを見た。長い車列だったので、何台ぐらいになるのだろうと道端で数えていた。あまりにもトラックの数が多く、途切れないので疲れて台数を数えるのをやめた。
 しばらくして町中の店から牛乳がなくなり、売られなくなった。説明や理由はなかった。
 またしばらくして、牛乳を積み込んだ特別なトラックがやってきて、広場で量り売りを始めた。町の人たちは久しぶりに牛乳が飲めるので、喜んで容器を持って買いに行った。長蛇の列だったので、おつかいに買いに行かされた。
 弟が2人いるが、1人は事故当時生後5ヶ月で、もう1人も1年後に生まれた。妊娠中で乳児もいた母には被爆に関する情報などは何も知らされなかった。


(35)(A)女性 (B)11歳 (C)ビテプスク州ドクシツィ近くの村。ミンスク (D)なし (E)なし(F)学校では被災者のために寄付を集めることになり、おこづかいを持って行った。村から男性が事故処理作業のためチェルノブイリへ出かけていった。学校で放射能の話を先生がしていたが、ヨウ素剤を飲むような指示はいっさいなかった。ただ、天気の悪いときは外へ出ないように言われた。しばらくして汚染地域から3家族が村へ移住してきた。差別のようなことはなく、新しい住民として普通に接していた。

(36)(A)女性 (B)7歳 (C)ウクライナ北部、ゴメリ (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき、ウクライナにある祖母の家に行っていた。事故のことは何も知らずに森の中で遊んでいたら、突然強風が吹き、雨が降り出すかと思っていたが、降らなかった。しばらくして事故のことを知らされ、両親は心配してビタミン剤を買ってきて飲ませてくれた。毎年夏になると、姉妹そろって黒海沿岸地方やコーカサス地方にあるサナトリウムへ行った。

(37)(A)女性 (B)16歳 (C)ゴメリ。事故のことは何も知らず、メーデーのパレードに参加していた。とても日焼けをした。 (D)なし 
(E)事故が起きてからだいぶ時間が経ってから、事故のことを知った。母は慌ててヨウ素剤を買ってきて、飲ませてくれた。31歳のときに甲状腺の切除手術を受けた。それからホルモン剤を飲み続けている。心臓病も抱えている。
(F)事故から3年後の19歳のとき結婚し、長女が生まれた。生まれつき心臓に欠陥があり、その後卵巣にのう胞が見つかった。手術を何回か受けた。次女と三女にも持病があり、病名はばらばら。成人した長女は結婚し子どもも生まれたが、孫は健康。しかし将来病気になるのではないかと不安な気持ちは残っている。
 
(38)(A)女性 (B)10歳 (C)ピンスク。ゴメリ郊外 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき4歳だった弟は病弱。ピンスク出身の女性と結婚し、今はモスクワ郊外に住んでいるがその一人娘はアレルギー体質。弟一家は3人とも体が弱く、よく病気になっている。


(39)(A)女性 (B)7才(C)ビテプスク (D)なし (E)なし (F)事故当時妹が生後4ヶ月だった。生まれたときは健康だったが、1歳になる前、肝臓が病気になっていることが分かり、入院した。治療を受けて退院したが、今でも食事制限がある毎日を送っている。

(40)(A)男性 (B)9才 (C)ソリゴルスク、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故当時正式な発表がされる前、「原発で事故があったらしい。」という噂が流れ、母から外出しないように言われて、できる限り自宅にいるようにした。友達が遊びに誘っても断った。しばらく牛乳を飲まないようにしていた。これは数年前の話だが、伯父がミンスクから10キロ離れた森の中できのこを拾い集めた。安全な地域だったが、念のため親戚に測定をしてもらうと、針が振り切れるほどの高汚染だったので、廃棄処分した。

(41)(A)女性 (B)9才 (C)ブレスト (D)なし (E) 背中と足の慢性的な痛み 
(F)当時36歳だった父はトラック運転手として事故処理作業員となり、複数回事故現場で働いた。最後にチェルノブイリ原発へ要ったのは50才のとき。2年前63歳で腸のガンのため亡くなった。
 事故が起きてしばらくしてから汚染地域の住民がブレストに移住してきた。同じクラスの同級生だった女の子は脱毛が進み、中学3年生のときにはかつらをかぶって登校していた。移住者の子どもたちは他にも症状があったかもしれないが、心が痛む話題だったので学校内でそのことについて話すことはなかった。


(42)(A)女性 (B)15歳 (C)プレシチェ二ツィ (D)なし (E)なし 
(F)村に7家族が汚染地域から移住してきた。村民は同情しており、差別はなかった。当時35歳だった父は事故後1か月してチェルノブイリへ行った。事故処理作業員を現場から宿舎へ車両で送迎する仕事をするよう国からの命令だった。被爆を防ぐために服をこまめに交換し洗濯をするように言われていたが、それ以外の対策方法は特になかった。父はその後も病気知らずで元気だったが、56歳になってから突然腎臓病と肝臓病を同時に患い、現在に至るまで8年間闘病生活を送っている。


(43)(A)女性 (B)21歳 (C)ミンスク、プホビチ地区 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき長男を妊娠中で、非常に心配した。12月に長男は生まれたが、生まれつき心臓に雑音があり、幼少期はそれが消えることはなかった。その後雑音は消えて現在は健康に暮らしている。

(44)(A)女性 (B)15歳 (C)ウクライナのイワン・フランコフ、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故後2年目にミンスクへ移転。16歳の長男は腎臓肥大。三男はアデノイド。四男は遠視。職業は小児科医。実感として、チェルノブイリ原発事故後、子どものガン、アレルギーが増えた。特に大人には見られるけれど子どもにはなかった病気(初潮も始まっていないような年齢の女子の子宮がん、中学生男子が心臓発作、心筋梗塞を起こすなど)が起こるようになり、中高年男性の突然死も増えた。

(45)(A)女性 (B)0歳 (C)グロドノ (D)なし (E)頻脈 
(F)事故が起きたとき母は私を妊娠中だった。兄は3歳だった。母の実家はゴメリ州ブダ・コシェリョフで、祖母が1人で暮らしていた。母は祖母が48歳のときに生まれた子で、事故が起きたときは祖母は70代の高齢だった。事故が起きたと分かったのは3日後。父は事故処理作業員として呼び出された。母は祖母を心配してグロドノに引き取ることにして父が運転する車で迎えに行った。放射能に関する知識もなかったので、3歳の兄も連れて行った。
 祖母をグロドノへ避難させた後、父は事故処理作業のためチェルノブイリへ向かったが、その後書類手続きの不備で事故処理作業員であると言う証明がもらえなかったので、補償も受けられなかった。父は現在63歳で高血圧で悩んでいる。
 避難した祖母はその後胃がんになりおよそ1年後グロドノで亡くなった。
 3歳だった兄は5年後、病気になった。今年33歳になるが、心臓病、高血圧、不整脈といった病気を抱えている。免疫力が低くよく風邪を引いている。私自身は頻脈。3人の子どものうち1人は生まれつき心臓の壁に穴が二つ開いており頻脈。


(46)(A)女性 (B)8歳 (C)バラノビッチ (D)なし (E)特になし 
(F)事故当時は報道もなくしばらく普通に暮らしていたが事故のことが明るみに出て数日学校が休校になった。父は事故処理作業員として原発へ向かった。9年後17歳で結婚・妊娠した。検査をしたら胎児に脊髄がないこと、脳に腫瘍があると認められ死産になるからと中絶した。4年後妊娠し、元気な子どもが生まれた。さらに3年後再び妊娠。そのときも第1子同様、胎児に脊髄の一部がなく脳腫瘍があると言われて中絶。1年後4回目の妊娠。このときは健康な子どもが生まれた。2人の胎児に異常が出た原因は分からない。自分自身気になり遺伝子の検査を受けたことがあるが異常は見つからなかった。
 今年65歳になる父は10年前に喉に腫瘍ができたが良性で現在も健康。


(47)(A)女性 (B)21歳 (C)ブレス都市近郊の村。(D)なし (E)甲状腺がん (F)第1子を妊娠中事故が起きた。5ヵ月後出産。娘は健康でその子どもも健康。
 ブレストはポーランド国境に近い町で、さまざまな物資がブレストの駅を通る。チェルノブイリで事故が起きる前その駅の引込み線で高い線量の放射能が外国人によって偶然検出されたが、公式な原因の発表はなかった。地元住民は「ソ連からポーランド(あるいはその先にある国)にウラン鉱石が運ばれたからだ。」とうわさしたが真偽のほどは分からない。その後その引込み線は廃止され、現在は別の場所に引込み線が作られている。知らなかっただけで原発事故が起きるずっと前からいろんな場所が放射能汚染されていたのではないか。


(48)(A)女性 (B)4歳 (C)ボリシエ・ビコロビチ村(ウクライナ国境近く。チェルノブイリ原発から約220キロ) ブレスト (D)なし (E)頭痛 
(F)事故が起きてから3年後小学校に入学した。外国の支援で給食にたくさんのバナナやオレンジが出て、毎日たくさん食べていた。学校内で何回かWBCの測定を受けたことがある。ドイツやオランダ、ロシアなどに保養に子どもは集団で毎年行っている。村には80人ぐらい子どもが住んでいるが、健康な子供はほとんどいない。
 事故後40代50代の女性のガンが増えた。母も子宮がんになり手術を受けた。細胞検査の結果は「未知の種類のがん細胞。」
 父は4人の兄弟姉妹がいるが、全員ガンになった。みんな同じ村に住んでいる。
 35歳になる姉は慢性頭痛。いとこは甲状腺肥大。中年のがん、糖尿病、甲状腺の病気がとても多い。
 村でとれた牛乳は放射能の検査を受けている。基準値以下だと販売に回される。基準値以上だと正規の販売ルートでは売れないので、村のご近所さんに安く売っておりみんな基準値以上だと理解した上でそれを飲んでいる。

(49)(A)女性 (B)4歳 (C)ブレスト州ドロギチン地区、ボブルイスク(D)なし (E)なし (F)事故当時30歳だった母は同じ地区にに住み続けていた。2年前58歳にガンで亡くなった。事故前この地区でガンでなくなる人はほとんどいなかった。母がなくなった同じ年、1年間で、母の同級生4人がガンでなくなった。

(50)(A)女性 (B)18歳 (C)モギリョフ (D)なし(E)甲状腺種。関節痛。(F)当時おじが長距離トラックの運転手をしていた。事故が起こった次の日、ちょうどウクライナからベラルーシへおじが戻ってきた。すると、「原発で何かあったらしい。外出しないほうがいい。」と言われて、5月1日のメーデーの行進には行かなかった。おじさんに感謝している。政府は原発事故をすぐにニュースにして、避難は無理でも、国民全員に外出しないように言うべきだった。

(51)(A)女性 (B)9歳 (C)ゴメリ市 (D)特になし。3年後に甲状腺肥大。 (E)婦人科系の病気 (F)事故が起きたとき、外出していた。突然竜巻が起こった。黄色に濁った水溜りを見た。夏休みの間、ロシアへ3ヵ月間保養に行った。新学期が始まり、しばらくすると、学校の給食に海草が毎日のように出るようになった。
 親戚の一人が当時ブラーギン地区で道路工事作業をしていた。現在甲状腺がんと戦っている。別の親戚は当時チェルノブイリ原発の空調設備の管理をしていた。事故前日定時に帰宅し、翌朝、出勤しないように言われ、その後ロシアにある原発に配属された。その後被災者認定を受けている。健康状態はよいらしい。

(52)(A)女性 (B)11歳 (C)モギリョフ州ムィシコヴィチ (D)なし (E)血圧が安定しない。 
(F)事故が起きたことはすぐに知らされなかった。しばらくすると汚染地域に指定され、牛乳を飲むことが禁止された。その後「きれいな」牛乳が商店で売られるようになり、食肉が商店から消え、代わりに缶詰を食べることを奨励された。
 夏休みになって、母が私をロシアのエカテリンブルグに住んでいる祖母の下へ疎開させた。エカテリンブルグに到着すると、「チェルノブイリ地域から来た子ども」と言うことで、被曝していないか検査を受けた。その結果、私がはいていたサンダルは、非常に高い数値を示したので、その場で廃棄処分が決められた。祖母は急いで新しいサンダルを買ってくれた。それがおしゃれだったので気が晴れた。夏休みが終わって、家に帰ることになっても、母は、「ベラルーシに戻ってこない方がいいのでは。」とまで、言って少しでも長くエカテリンブルグにいてほしいとを話していたが、結局新学期に合わせて帰った。
 その後すぐではないが、母はがんで死去。今22歳の長男は体のあちこちに病気があり、ホルモンの状態など検査したが、異常はないと医者に言われて、特に治療を受けていない。

(53)(A)女性 (B)25歳 (C)モギリョフ州ヴェプリン村。キロフスク市 (D)なし (E)腫瘍ができ、腎臓を一つ摘出。 
(F)生まれ故郷の村は1999年に汚染地域に指定され、当時住んでいた村人、約1000人は強制移住させられた。移住先はチェリコフ市。しかしその町も汚染されていて、「希望したければ自由に出て行ける地域」とされていた。今はチェリコフ市は「きれいな」町ということになっている。自分はチェリコフ市に住んでいたが、現在はキロフスク市に一軒屋を建てたので引越しした。


(54)(A)女性 (B)7歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)私の母はゴメリ州出身。母の姉(私の伯母)はホイニキ地区に住んでいた。そこは事故後汚染地域に認定されたので、事故が起きてからほとんどすぐに伯母は自分の娘(私のいとこ)を連れて、ミンスクの母の家に避難した。(ホイニキの妹がミンスクの姉の家に身を寄せた形。)
 伯母一家は夏の間、ミンスクで暮らしていたが、仕事や学校のことなどで結局ホイニキの家に戻った。その1、2年後移住することになり、ブレスト州のコブリンに住居をもらい、伯母一家は引っ越した。しかしその後伯母は40代でがんになって亡くなった。私のいとこは結婚して、息子が生まれたが生まれつき腎臓病。16歳になったが、病気は治っておらず完治は難しそう。
 伯母のように私の母方の親戚のうち事故のときすでに生まれていた人は、このいとこ以外、全員若死にし、今は一人も残っていない。
 現在ホイニキは除染も完了し、放射能がない地域に認定されて、かつての住民に戻ってくるよう誘致している。農地も再び利用されている。私自身はこのことを懐疑的に思う。政府が安全宣言しても、住みたくないし、そこで作られている農作物などは食べたくない。しかし、ホイニキのようなかつての汚染地域で作られたもので、ミンスクで売られているものを購入して知らない間に食べていると思う。


(55)(A)女性 (B)20歳 (C)ピンスク、ブレスト (D)なし (E)なし 
(F)原発で事故があり、外に出るのは危険だといううわさを聞いたが、放射能が何なのかよく分かっておらず、同じ年の友人と2人、屋根の上に上がって日光浴をした。4月とは思えないほど暑い日で、長く日光浴はできず、2人とも屋根から下りた。数年後自分は就職を機にブレストへ引っ越したが、友人はそのままピンスクに住み続けた。事故から8年後、友人は28歳で白血病になり入院。治療を受け続け、現在は完治した。
 自分の息子は事故が起きてから13年後の生まれ。10歳のとき、脳卒中を起こして倒れ病院へ運ばれた。脳卒中は子どもに発症する病気だとは思ってもいなかったので、ショックだった。その後心臓の肥大も見つかり、体の右側に麻痺が残ったが、リハビリの結果、再び通学できるまで回復した。それでも当時は字が早く書けなかったり、記憶障害があって、同級生の顔や名前が思い出せず、学校生活を送る上で精神的ストレスを抱えていた。つらい時期もあったが、時間の流れとともに心身ともに改善して安心した。しかし今19歳になった息子の健康状態が突然不安定になるのではないかと、母親として常に健康に気遣っている。


(56)(A)女性 (B)生後2ヶ月 (C)ブレスト州ルィシチツィ村 (D)なし (E)甲状腺がんのため、甲状腺を全摘出。
(F)事故当時、事故のことも放射能のことも知らず、乳母車に乗せられて、戸外でお散歩をしていたと後から母に聞かされた。28歳のとき甲状腺がんのため、甲状腺を全て摘出。ホルモン剤とカリウムサプリを飲み続けている。障碍者認定を受けている。ベラルーシの法律では甲状腺がんで全摘出手術を受けると障害者認定を受けるが、チェルノブイリ原発事故や放射能被曝との因果関係は証明されていないし、それが認定の理由でもない。


(57)(A)女性 (B)5歳 (C)ゴメリ (D)特になし。(E)特になし 
(F)事故が起きてから4年後9歳のときに慢性肺炎になり、心配した父が医者のアドバイスを受け、ウクライナの黒海沿岸地方に一家そろって引っ越した。そこは保養地として有名なところで、庭付きの一軒屋に暮らして、野菜を家庭菜園で作って食べていた。またくるみをよく食べるようにしていた。その結果元気になった。7年間ウクライナで暮らして健康になったので、ゴメリに戻った。その後家族はみんなゴメリに暮らしているが、父は数年前がんで亡くなった。
 自分より11歳年上の兄は甲状腺肥大のためか、とても太ってしまい、性格も怒りっぽくなってしまった。兄の妻は甲状腺がんになって、最近切除手術を受けた。 

(58)(A)女性 (B)24歳 (C)ミンスク、ジェルジンスク (D)なし (E)なし (F)当時ミンスクの大学を卒業してミンスクで暮らしていた。婚約者(後の夫)が足を骨折したので、入院しており、見舞いに行った。二人で病棟の外に出て、病院の敷地内のベンチに座ってしゃべっていた。他にもそんな患者や見舞い客が大勢いた。そのうち、どこかからか「原発で事故があったんだって。」といううわさが聞こえてきた。しかしその場にいた人たちは、「ふーん。」「事故だって。」「チェルノブイリ? どのへん?」というぐらいの反応しかなく、医者からも何も注意喚起などはなかった。
 

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第235回」

2018-12-17 |   ビタペクト配布活動
 12月17日にビタペクトと「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第235回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクトを6個と、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー1部を渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2662個、セルロースの合計は150個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2197部となりました。
 今回で通算251回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2662人の子どもにビタペクトを、約143人の子どもにセルロースを、2198家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)


http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html



(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。

(家族A)

 ミンスクから25キロのところにあるトレスコフシナ村(チェルノブイリ原発から約350キロ)から来た家族。お母さんが7人の里子を引率していました。
 この家族には3個のビタペクトを渡しました。

 この家族は2014年10月にも保養滞在したことがあります。
 そのときのようすはこちらをご覧ください。
チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第168回」(家族A)

 前回と今回のそれぞれの体内被曝量はこのとおりです。○印の子どもにビタペクトを1つずつ渡しました。

母親(事故発生当時31歳) 15ベクレル → 7ベクレル
男子(15歳) 34ベクレル ○ → 17ベクレル
男子(15歳)(今回初測定)15ベクレル
男子(14歳) 25ベクレル ○ → 19ベクレル
男子(11歳)(今回初測定)20ベクレル ○
女子(11歳)(今回初測定)22ベクレル ○
女子 (9歳) 37ベクレル ○ → 23ベクレル ○
女子 (9歳) 25ベクレル ○ → 17ベクレル

 11歳の女の子と11歳の男の子は双子です。5歳の女の子2人は双子です。
 お母さんに子どもたちの健康状態についておききしました。
 子ども達は比較的健康ということでした。全員ではないですが、毎年のようにスペインに保養に行っており、内部被曝の検査も受けているそうです。

 お母さんは、長年血のつながらない子どもを大勢育て続けて、いろいろとご苦労があるだろうな、と察せられたのですが、子どもたちからエネルギーをもらっているそうで、とても元気でした。
 キノコはできるだけ食べないようにするようになった、健康番組など見て、いろいろ調べて実践している、とも話していました。(こういうお母さんとは健康ネタで会話が盛り上がりますね。) 


(家族B)

 ジェルジンスク(チェルノブイリ原発から約320キロ)から来た家族。
 お母さんが6人の里子を引率していました。この家族には3個のビタペクト3を渡しました。
 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果は以下のとおりです。○印の子どもにビタペクト3を1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時24歳)12ベクレル
男子(14歳) 16ベクレル 
男子(14歳) 23ベクレル ○
男子(14歳) 20ベクレル ○
男子(13歳) 21ベクレル ○
男子(13歳) 16ベクレル
男子(11歳) 17ベクレル 

 健康状態についてですが、結果が16ベクレルだった13歳の男の子は甲状腺肥大のため、ヨウ素剤を飲み続けているそうです。
 このお母さんは元教師ということで、食事メニューなどもいろいろ考えて作っているそうで、本当にすばらしい子育てをしているようすが伺えました。こんな里親の元で暮らせる子どもは幸せですね。

  今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、日本のシール、日本語で子どもの名前を書いたカードなどをプレゼントしました。
 もうすぐ亥年ということで、ぶたさんの折り紙も。(ベラルーシでは豚年なのです。)
   
画像は記念撮影した様子です。偶然ですが、男の子ばかりになっていますね。通学のためここには写っていない子どももいます。 
 
 この活動も今年最後になりました。おかげさまで今年も無事この活動を続けることができました。

 最後になりましたが、ビタペクトの購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

絵本「おりづるの旅」ベラルーシへ

2018-12-07 |   おりづるの旅
 チロ基金の活動「戦争と平和の絵本と子どもたちの絵」「ベラルーシの子どもたちが描いた広島の絵についてまとめと続報です」の記事でもご紹介していますが、絵本「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」(うみのしほ・作 狩野富貴子・絵 PHP研究所・出版)について、ロシア語版をベラルーシの各地にある図書館へ寄贈する活動を始めましたが、全て寄贈を終えました。

 広島県在住の新荘様、原作者のうみの様、この絵本の各国語版を手がけているANT広島様のご協力により、小部数ですが、チロ基金がお手伝いして、ベラルーシの図書館に寄贈することができました。

 寄贈先の図書館の一覧はこのとおりです。

・ミンスク市立第5児童図書館日本文化情報センター
・SOS子ども村母子ソーシャルセンター図書室(ボロブリャヌィ市)
・スベトラゴルスク市立中央児童図書館
・ビテプスク市立中央図書館
・プルジャヌィ市立中央図書館
・バラノヴィチ市立中央図書館
・モロジェチノ市立中央図書館
・グロドノ市立中央児童図書館
・保養教育センター「リーダー」内図書室
・ゴメリ州立図書館付属児童図書館「ブラチーノ」

 図書館を通じて、広島のおりづるがベラルーシの旅ができるよう、私も祈る気持ちで送り出しました。
 きっとベラルーシの人たちにも平和を願う日本人の心が伝わっていると思います。

 2018年11月16日に保養教育センター「リーダー」に「おりづるの旅」を寄贈、そして折り鶴のワークショップをしたときのようすはこのセンターのHPに掲載されています。
 ロシア語のサイトですが、画像がたくさんあります。リンク先はこちらです

 2018年12月6日にゴメリ州立図書館付属児童図書館「ブラチーノ」に寄贈をしたときの様子は、この図書館のサイトで閲覧できます。ロシア語サイトですが、画像がたくさんあります。リンク先はこちらです。

ベラルーシの大学への留学や入学・長期滞在について

2018-12-06 | ベラルーシ旅行・長期滞在・留学注意情報
<お問い合わせについて>

 ベラルーシの大学への留学や入学についての質問メールが来ることがたまにあります。
 何でもベラルーシの大学の留学についての情報はネットで検索しても見つからないので、ベラルーシのTさんにメールできいてみよう、という感覚のようです。

 このようなご質問ですが、私では回答について責任を負えません。私もベラルーシ大学に留学していましたが、もう20年も前の話なので、最近の状況が分かりません。
 見ず知らずの日本人のために代わりに調べてあげる、というような時間も義務もボランティア精神もありません。何と言っても責任が負えません。

 ロシアなど旧ソ連の大学への留学を斡旋している業者に尋ねる、ということはしないのでしょうか?
 また今は現地、つまりミンスクに駐在スタッフを置いて、留学中のトラブルにも対応してくれる企業がありますから、経験豊富な日本に本社がある企業に問い合わせるのが一番です。
 何かあったとき、留学を終えて帰った後でも日本国内で対応してくれますから。


<ベラルーシの大学の入学について>

 留学ではなく大学に入学したいという希望ですが、私が知っている限りでは、日本人の場合日本の大学や企業に入ってからベラルーシへ短期留学する人がほとんどで、高校卒業から直接ベラルーシの大学へ入学し、卒業まで5年間学ぶ、というケースは私は聞いたことがありません。だからネットで調べても情報が見つからないのです。

 ベラルーシでは本国では大学に入れない(要するに学力は低いが親はお金を持っている)中国人が、大勢入学しています。入試はあってないようなものです。全てお金で決まります。
 つまりベラルーシの大学は日本人でも中国人でも外国人はお得意さんなので、すぐに入学できるでしょう。ただし、ベラルーシ人が払う授業料と外国人学生が払う授業料は雲泥の差です。外国人と言うだけで、このような授業料の差があることを念頭においてください。

 こんな状態で簡単に入学したので、勉強もちゃんとせず、ロシア語がほとんどできないままなのに、ちゃんと卒業証書をもらって卒業していく中国人学生がたくさんいるのを見ると、卒業証書もお金で買える、言ってもいいでしょう。
(注意。ベラルーシでまじめに勉強している優秀な中国人も少数ですがいます。)

 しかしそこまでして日本人がベラルーシの大学の卒業証書を必要としているのでしょうか? その後の日本国内の就職活動に有利になるとはとても思えません。
 ベラルーシの大学はベラルーシ人の就職活動には大学側の義務もあり、対応してくれますが、外国人については就職活動については大学側には責任も義務も持たないので、自力で就職先を見つけなくてはいけません。
 日本人がベラルーシ国内で就職することも極めて困難です。ベラルーシの企業は「外国人を雇うと税金を余計に納めなくてはいけない。」という法律があるため、外国人を雇うことを敬遠します。
(こういう法律をつくることによって、国は自国民の雇用を確保しようとしているのです。それはそれで当然の話です。) 

 ベラルーシの大学は普通5年間通学しますから、短期留学ではなく入学することを考える場合、人生の若い時期の5年間が無駄にならないかどうかよく検討するほうがいいです。
(追記。現在のベラルーシの大学のほとんどが4年制に移行しました。)
 
 それから私にメールで「大学の授業料はいくらぐらいなんですか?」と質問されるより、先に希望する大学に問い合わせてみてください。ロシア語ができなくても英語なら通じます。
 また大学のHPで授業料を公開しているところがほとんどですので、それを参考にしてください。


<情報収集について>

 ベラルーシへ留学を希望している日本人(全く面識なしの人)が私にメールすることにした理由について、

> ミンスクにいる友人に「Tさんはベラルーシについて詳しい日本人だよ」と言われたので、メールしようと思いました。

 ・・・と書いていましたが、このミンスクのご友人というのは日本人なのかベラルーシ人なのか私には分かりません。しかし友人がミンスクに住んでるのなら、面識のない私ではなくその友人に頼んで大学のことなど情報収集するのが普通だと思います。
 この友人も私に会ったことがある人なのかどうか、このメールの文面からでは分かりません。
 もしかしたら知り合いなのかもしれませんが、名前も分からないですし。
 私はその人のことを知らないけれど、その人は私のことを噂で聞いたことがある、程度なのかもしれません。
 それなのに人生の18歳から23歳までの学生生活をどうするのか、という重大な問題に直面しているのに、Tさんにきけばいい、と人任せにしているのが、「こんなのでこの先大丈夫かしら?」と思います。
 未成年の場合はもっとご両親と話し合いをされることを勧めます。
 
 ベラルーシの大学に入学したい、という気持ちは応援したいのですが、応援はできても責任は私には負えません。


<ベラルーシの治安について>

 「治安などを考えたら、ロシアよりベラルーシの方がいいと思うのですが、そこはどうなんでしょうか?」
 ともきかれるのですが、これについても答えようがありません。
 統計上はロシアのほうが治安が悪い、ということになっています。でもあくまで統計上のことです。
 ロシアで暮らしていたら絶対犯罪に巻き込まれる、ベラルーシに住んでいたら絶対犯罪に巻き込まれない、ということにはなりません。

 ちなみに日本で1年間に殺人の被害者となって死亡する人は1500人だそうですが、ベラルーシは1000人です。人口の違いを考慮に入れてください。ベラルーシの人口は日本の約10分の1です。
 でもベラルーシへ来たら必ず殺人事件の被害者になる、とか日本に住んでいるとそうならない、とかそういったことを議論しても無駄だと思います。
 数字だけ見れば日本のほうがベラルーシより治安がいいということになりますが、日本のほうが行き当たりばったりの無差別殺人の件数は多いですよ。
 これはどんなに注意(夜道を一人で歩かない、など)していても、防ぐことができません。
 つまり、何が言いたいのかと言うと、私から
「ロシアよりベラルーシのほうが治安がいいから安心ですよ、ベラルーシへの留学をお勧めします。」
とはとても言えない、ということです。
 (私はベラルーシへの留学の斡旋業者でもないですし・・・。)
 
 私には責任が持てないから答えられない、というのがこういった質問への答えです。


<ベラルーシへ留学に来てから>

 それからこういうこともありました。
 語学ではなくスポーツ関係での留学のためベラルーシへ行くことになった元オリンピック選手がいろいろメールで質問してきました。メールの文章はとても丁寧で、礼儀正しくさすが日本代表に選ばれるだけの人のことはある、と感心していました。
 ベラルーシに到着したら、一度ご挨拶に伺います、ということだったので、私の電話番号などを連絡していました。最後のメールには、3日後いよいよ出発です、とあったのですが、その後1年間のベラルーシの滞在中、この人は全く連絡してきませんでした。もう日本に帰国しているはずですが、いまだに何の連絡も報告もありません。
 質問に答えてあげたのだから、お礼を必ず言いに来い、というわけではありません。でもがっかりしました。礼儀正しいスポーツ選手だと思っていたので、余計に失望しました。

 別のケースでは日本文化センターへ来て、ベラルーシで留学する予定だが、生活のことについて質問してきて、それが4時間続いた、という人がいました。
 その人は日本文化情報センターのことを、
「日本人のための留学生支援センターだと思っていた。そのようにベラルーシの留学を斡旋している業者から聞いた。」
と言ったので、このような勘違いをする人が今後出ないように、その業者には私から苦情を申し入れました。
 (今更ですが、私が代表を勤めている日本文化情報センターは、ベラルーシ人に日本文化を紹介するために設立されたセンターで、ベラルーシに留学している日本人の支援センターや相談窓口ではありません。)

 その後、しばらくしてその人に会ったのですが、「あ、どうも、ご無沙汰でーす。」と軽く言われ、その後は無視されました。
 同じ日本人だから、と手助けしても、こんなていどにしか感謝されないわけです。
 その人は留学を終えて、帰国した後もたびたびベラルーシへ来ているそうですが、全く私には挨拶なしです。こういう礼儀知らずの人とは、同じ日本人でも付き合う気がないので、それでいいんですが。
 このようなことが重なると、こちらとしても「人を頼らず留学生は自分で努力してください。」と言いたくなります。


<留学生のアルバイトについて>

 日本に留学している外国人学生の多くがアルバイトをしている姿を見慣れているからでしょうか、ベラルーシでも簡単に外国人がアルバイトできると思い込んでいる日本人留学生がいます。
 ベラルーシの法律では「就労ビザ」ではなく「留学ビザ」で滞在しているので、仕事はバイトを含めできません。ベラルーシの企業は、外国人を雇ってくれません。


<自己紹介をしない日本人>

 特に最近の傾向なのですが、突然日本文化情報センターにやって来る日本人で、留学生であるかどうかは関係なく全く自分の名前を名乗らない人が多いです。
 若い人も多いですから、絶対に名刺を寄こせ、と言いたいわけではありません。しかし礼儀として、初対面の人には簡単に自己紹介するものだと思うのですが、ベラルーシに来ていることをよっぽど秘密にしたい事情でもあるのか、名前を言おうとしません。仮名でもいいから、名乗ればいいのに・・・と思います。

 中には私の顔を見て「わあ、本当にこんなとこに日本人いた。」というリアクションをして、帰っていく日本人もいます。
 このブログなどを読んでいて、私のことはよく知っている、ベラルーシのTさんの本名も知っているという人がやってくるのですが、私のほうはこの人の名前も知らないわけです。
 だから名前ぐらい名乗ってほしいのですが、言いません。
 どうしてなんでしょう? 世界の人は日本人は礼儀正しい民族だ、信用ができる、という評価をしているようですが、そうじゃない日本人今はたくさんいますよ・・・と私はベラルーシ人に言いたいです。
 正直に言って、日本人どうし日本語も通じるのに、自分の名前すらまず名乗らない人は、よっぽど後ろ暗いところがあるのだろうと判断し、こちらから積極的にお付き合いしないようにしています。

 逆にベラルーシのTさんに会うと、チロ基金に寄付金を出せ、と勧誘されるらしいと思って、私に会うのを避けている人もいるそうですが、チロ基金は本当に自由にやっているボランティア団体で、人に寄付金を強制することはありません。
 寄付するにしても一口いくら、という決まりすらありません。もし、一口1万円、と決めてしまうと、少なくとも1万円は寄付しろという強制になってしまうからです。
 このような強制はいっさいチロ基金はしないようにしています。誤解している人がいるみたいなので、ここで書いてみました。

 私がベラルーシへ来て間もない頃ですが、私は自分のことを新参者だと思っていたので、在ベラルーシの日本人に出会うと、自分はまだ若輩者で、向こうは先輩なのだから、という感覚で、こちらから挨拶しに行き、名前も名乗って自己紹介していましたが、当時10人ぐらいしかいなかった日本人のほとんどが、無反応で私(あるいは新しくやって来る日本人)を避けているような態度でした。
 そのときは変な感じに思っていましたが、今では分かります。同じ日本人だから、という感覚で頼ってきたり、甘えてきたりする人に出会ってきたのでしょう。それで親切にしても、感謝はされず、だんだん新しくベラルーシにやってくる日本人に出会うのがいやになったのだと思います。

 今ベラルーシに住んでいる日本人は30-40人に増えましたし、やってきても永住ではなく帰国する人がほとんどですから、顔ぶれは変わります。
 私は新しい日本人に出会うのはいやだとは思っていませんが、名前も名乗らないような日本人はちょっとおかしいのではないか、と思っています。

 ちなみに今のところベラルーシに日本人会はありません。

 日本大使館はありますので、治安面など情報収集したい方は、大使館のサイトや日本外務省の海外安全ホームページを参考にしてください。


<ベラルーシに長期滞在している日本人>

 ベラルーシに長く住んでいる日本人で、ベラルーシに住んでいる他の日本人の悪口や根の葉もないうわさを、ミンスクへやってくる日本人留学生に吹き込んでいる人が1人います。
「あなたはベラルーシに来たばかりで知らないだろうから、教えてあげるけれど、○○さんと言う人はね・・・」
といった「アドバイス」をしてくれるそうです。

 私以外にもこのような悪口を言われている在ベラルーシ日本人が何人もいて、本当に迷惑しています。
 ベラルーシへ留学へ来てすぐに、この日本人からベラルーシに住んでいる他の日本人の悪口やうわさを耳にすることもあるかもしれません。
 面識もない人のうわさを鵜呑みにするのかしないのかは、個人の判断によります。
 しかしやはり実際に会ってみないと、その人柄は分からないのではないでしょうか。

 もっとも、他の日本人の悪口を言う日本人は、新しくベラルーシへやってきた日本人に悪口ではなく、批評をしている感覚なのかもしれません。そしてこんな「アドバイス」をしているのは親切心からだと思っているかもしれません。
 他人のうわさや批判なんて、どこでも誰でもしていることです。
 ただ、前述の人物の場合、問題なのはありもしない嘘のうわさをわざと流していることです。

 (私を含め)ベラルーシに長く住んでいる人の言うことが絶対正しいとは限りません。
 そう思った上で新人は古株の意見を聞くほうがいいと思います。


<ベラルーシの日本人コミュニティ>

 ベラルーシには住んでいる日本人がそもそも少ないので、日本人コミュニティもすごく狭いです。
 他の外国での日本人コミュニティについての情報をネットで読んで参考にしつつ、ここで長く住んでいる私からアドバイスですが、発展途上国での日本人コミュニティは問題が多いそうです。この発展途上国の中にベラルーシが入っていると思っておいてください。
 海外で暮らしている日本人のうち、好きでその国にやってきて、順応している日本人はストレスが少ないのでいいのですが、仕事などで仕方なく、発展途上国に行かされて、日本みたいに便利でもおもしろい娯楽もないので、不自由を感じストレスを感じている日本人が、発展途上国には多いのです。
(東京で働いていた人が、上からベラルーシへ赴任するよう言われるのは、左遷や出世コースから外れたことを意味している場合があるそうです。)

 そのためストレス発散のために、日本人コミュニティの中でネガティブな愚痴、その国の制度やその国の民族性に対しての悪口が多くなり、雰囲気が悪くなりがちです。さらにはストレスのはけ口として、日本人間のいじめも起こります。
 学校のいじめと構造は同じです。海外生活のストレスからいじめっ子が生まれます。
 いじめられやすいのは、年齢的に若いので留学生(日本では年上を敬え、という考えが根強いのですが、それはそうとしても、年上の人が絶対正しく、年下の人が絶対間違っていて意見も言えない訳ではありません。)、最近ベラルーシへ来た人(現地事情に詳しくないだろうから、とカモられる。)、女性(日本は男女差別が残っています。)、学歴が低い人(学歴差別が日本では根強い。)などです。外国へ来ても日本式の考え方で、縛られます。
 言葉ができる人、経済的余裕がある人、外国へ来ても日本人同士群れず一人で行動できる人、現地人とうまく交流している人も、いじめの対象になります。
 それはいじめっ子が、そういうタイプの人になりたいと憧れているのに、できていないので、できる人がうらやましいからです。
 こういうできる人は少数派なので目立ちます。目立っている人を嫉妬から引きずり落としたくなる人、多数派は少数派をいじめてもいいんだ、と思い込んでいる人が、たくさんいます。

 それから日本人はレッテル貼りや身分差別(江戸時代の士農工商から賢くなっていません。)が好きなので、日本人コミュニティの間で階級制度を作ろうとします。そんな中で一番になっても小さいお山の対象なのですが、そうしないと落ち着かないのが日本人のようです。
 遠い外国にまで来て虚勢を張る日本人は、哀れです。来たくもなかった外国で、鬱々したものを抱えているのでしょう。不幸な海外生活を送っている日本人なのです。こんな人みたいにならないように、自分の貴重な海外生活の時間を大事にしましょう。

 日本から遠く離れたベラルーシで、少ない日本人コミュニティの中で、これまた遠くから持ってこられた日本の慣習、日本人の狭量な考えのせいで、ベラルーシに滞在する予定である日本人のあなたの精神をすり減らさないように注意してください。
 日本人コミュニティの中で得られる良い点もありますが、悪い点のほうが多いと前もって分かっておいたほうがいいです。
 そして遠い外国に来てまで、日本人の間でいじめたりいじめられたりしないように注意しましょう。こんなくだらないことをするために、ベラルーシへ来る訳ではありませんよね?
 外国へ行きますと言うと、周囲は、治安は大丈夫?などと現地人はら犯罪行為を受けるのではないかと言うことを心配しますが、他にも日本人同士の問題に翻弄され、苦労することもあることを知っておいてください。
 海外で暮らす日本人同士が苦労を分かち合い、助け合うと言う美しい光景は、昔のドラマの中の話だと思っておいたほうがいいです。
 日本人だから言うだけで、みんな仲良くできないです。それが真実なら日本国内で日本人同士のいじめは一切ないはずでしょう?
 人種関係なく、気が合う人、合わない人がいます。せっかくなので、ベラルーシ人の中で気の合う友達を作ってください。一人でもそれができたら素晴らしいことだと思います。そしてあなたがベラルーシ人の友達と仲良くしているのをやっかむ日本人がベラルーシ国内にいても、気にしない、あるいはそういう人とは日本人でも付き合わないようにするほうが、得策です。日本人特有のつまらないしがらみで縛ってくる日本人から離れるほうがいいです。
 わざわざベラルーシに来るのだから滞在を有意義なものにしましょう。