ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ゴシケーヴィチ研究の書籍について

2019-06-03 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 すでにお知らせしていましたが、ロシア語で書かれたゴシケーヴィチ研究の書籍がミンスクで出版されました。著者はミンスク州教育向上研究所のナタリヤ・オブホワ先生。
 タイトルは「イオシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ 宣教師、外交官、言語学者、東洋学者」です。
 内容について微力ながらも、私もお手伝いをしました。ロシア語で書かれたゴシケーヴィチ研究の本としては、大変詳しく、また北京在住だった頃のゴシケーヴィチについて、このような詳しい文献は他にないと思います。
 この書籍はチロ基金が購入し、ベラルーシ各地の図書館に寄贈して、ゴシケーヴィチの功績を広めていきたいと考えています。
 ゴシケーヴィチもついにベラルーシの中学の歴史教科書に取り上げられたそうで、日本とベラルーシの交流の歴史の中でのキーパーソンとして、ベラルーシの若い世代に注目されてほしいと願っています。

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 8

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 最後にカンファレンスのプログラムをロシア語ですが投稿しておきます。
 本当に私、講演しましたよ、の証拠ということで。(笑)

 チェルノブイリ原発事故のせいで、人口減少、地元経済の衰退・・・を憂う声を地元の方から聞きましたが、生誕地の人々が、ゴシケーヴィチのことを誇りに思ってほしいですね。
 またホイニキを訪問したいです。

 

 
 

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 7

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 私にできることと言えば、ホイニキ市内にある郷土資料館内で同日行われたコンファレンスで登壇して、イオシフ・ゴシケーヴィチの日本での業績をロシア語で地元の方々に伝えることですね。
 コンファレンスではまずオブホワ先生が登壇し、ゴシケーヴィチについての最新著作の内容に沿って、講演されました。
 オブホワ先生はゴシケーヴィチ研究の中でも、特にゴシケーヴィチが正教の宣教師として中国に滞在していたおよそ10年間についてをテーマにしており、ベラルーシでこのテーマについては第一人者です。
 画像はオブホワ先生の講演のようすです。

 私もちゃんと講演しましたよ。しかし、いつものことながら自分で自分を撮影できないので、私の画像(ちゃんと仕事をしてきましたよ、の証拠写真)がなくてすみません。
 でも本当にオブホワ先生の後に登壇して、ゴシケーヴィチが函館に建てたロシア病院について、そしてベラルーシ人の間では知名度が低い新島襄とゴシケーヴィチとの関わりについて、また新島襄が出てきたら、外せないニコライ・ヤポンスキーについてもお話ししました。
 また、ロシア病院の初代医師だったミハイル・アリブレフトについても少し詳しくお話ししました。
 講演の中の登場人物が多くて、ゴシケーヴィチから離れた部分もありましたが、何とかロシア語で講演できたと思います。

 ホイニキ地区はチェルノブイリ原発事故の後、汚染地域に指定されており、人口が減少した地域です。ストレリチェヴォ村はウクライナの国境に近く、つまりチェルノブイリ原発にも近いです。
 (それにしても、ゴシケーヴィチが生まれた場所が放射能に汚染され、人生最後の日々を送った場所のすぐそばに新しく原発が建設されている、というこの運命の組み合わせが何とも・・・。)

 私がロシア病院を大事なテーマにしたのは、やはりロシア病院と言いながら、日本人に無料で治療や投薬をしていて、ロシア帝国の権威を高めるという隠れた目的がゴシケーヴィチにあったとは思いますが、それでも人助けをしていた(しかもロシア人からしたら、異国の人間。)のが、ヒューマニズムにあふれていたと思うのです。
 人種を超えて、命の助け合いをする、というのは本当に大事なことですね。現代だったら、そんなに難しいことではないですが、150年前の幕末の日本ですでにこんなことを実行していたゴシケーヴィチはどうして、このような考えに行き着いたのかなあ、と想像しています。
 そもそも神父の息子に生まれて、村の普通の身分の人たちの間で暮らし、神学校に通って、教会がすぐそばにある環境で成長してきた、という背景があったからではないでしょうか。
 

 

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 6

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 画像の右端に塀が写っていますが、これが現在ある教会の塀です。
 写っているのは、ゴシケーヴィチ研究をされているナタリヤ・オブホワ先生、隣村の教会のムスチラフ神父(教会で保存されている記録を調べたら、ご自分のひいひいひいおばあさんの洗礼をイオシフ・ゴシケーヴィチのお父さんがしていたことが分かったそうです。)、ホイニキ市内の学校で歴史の先生をしているスモリスキー先生です。
 オブホワ先生が誘ってくださったのと、スモリスキー先生がいろいろ手配してくださったおかげで、今回の除幕式に参加することができました。
 お二人には感謝の気持ちでいっぱいです。

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 5

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 教会の塀の外側に沿って小道があり、その右手は広々とした野原がずっと続いていました。
 「何もない」という光景といえばそうなのですが、200年前にはこの場所にミハイロフスキー教会があって、イオシフ・ゴシケーヴィチの父が神父をしており、村人たちがミサに訪れていたのでしょうね。
 神父の息子は神父になるのが当たり前、という時代だったので、イオシフはミンスク神学校に入学しました。
 ちなみにこの神学校はミンスク、という名称なので、ずっとミンスクにあったような気がしますが、所在地がベラルーシ国内のあちらこちらに変わっており、イオシフ・ゴシケーヴィチが入学したときは、スルーツクにありました。その神学校に入学して以来、イオシフ・ゴシケーヴィチがこの故郷に戻ったはっきりした記録はないです。

 ただ、イオシフの妹、アンナはヤコブ・ズモロヴィチという神父と結婚していますが、このズモロヴィチ神父はイオシフ・ゴシケーヴィチの父が病死した後、ミハイロフスキー教会の神父に選ばれた人です。
 前の神父様が亡くなったので、次の神父様が配属されて、前の神父様の娘と結婚した、ということですね。
 ズモロヴィチ神父とその妻、アンナ、そしてその間に生まれた子どもたちは、教会の横の神父一家用住居で暮らしていました。つまりゴシケーヴィチ神父一家が住んでいた家に住んでいたということです。
 ゴシケーヴィチ神父一家の息子たちは、神学校に入学して、村を離れて、その後神父になって、他の地域の教会の神父に(わかりやすく言えば)派遣されて、ばらばらになっていますね。イオシフは遠く日本にまで行ってしまうし・・・。
 こうして考えるとアンナだけは生まれ故郷のストレリチェヴォ村でずっと暮らしていたということになりますね。
 その母親も夫の死後、娘のアンナのそばにいたと思われ、つまりストレリチェヴォ村で亡くなった可能性が高いです。
 教会の記録をくまなく探したら、お葬式の記録など出てきそうですね。

 ちなみに画像に小さく写っているのは、ヤギの放牧をしていた地元の方です。
 200年前もこんな光景がこの村にあったでしょうね。
 
 
 
 
 

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 4

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 この教会の周りは塀に囲まれているのですが、教会の建物と門の間に大きな木の切り株がありました。
 おそらく枯れてしまって切り倒され、今は切り株だけ残ったのでしょう。この大きさからして、きっとイオシフ・ゴシケーヴィチがこの敷地内にあった家で暮らしていたときにはこの木はあったにちがいない、と思いました。
 きっと高い木で弟たちと登ったりして遊んでいたのではないでしょうか。
 といろいろ想像しました。

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 3

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 残念なことにイオシフ・ゴシケーヴィチの父が神父をしていたミハイロフスキー教会は残っていません。
 18世紀末に建てられたその場所は野原になっています。
 ところで神父とその家族は教会のそばに建てた家屋で暮らすことが多かったのですが、その家自体も残っていません。しかし、この家屋があった場所に現在、別の名前の教会が建てられています。
 建物自体は20世紀初頭に建てられたそうなのですでに築100年は経過していますね。
 画像はその教会の写真なのですが、かなり古くて、ボランティアでいいからペンキ塗りをさせてください、と言いそうになりました。
 ストレリチェヴォ村の人口が800人ぐらいに減少しており、常に教会に神父様がいるわけではなく、隣村の教会の神父様が定期的にミサをしに回ってきてくれているそうです。教会には堂守りの方が数人おられて、教会の敷地内の庭仕事や教会所有の畑仕事をしていました。
 ここでゴシケーヴィチ神父一家が200年前につつましく暮らしていたのか、と想像すると感慨深いものがありました。
 

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 2

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 除幕式のようすは、ゴメリ州のニュースサイトからも取材を受けました。
 ロシア語ですが、画像付きで報道されていますので、リンク先を貼っておきます。
 「プラウダ・ゴメリ」での記事はこちらです。
 私は日本人というだけで地元の人間でも子孫でもないのに除幕までさせていただき、大変名誉なことと感謝しております。

ゴシケーヴィチ生誕地での顕彰銘板の除幕式に出席しました 1

2019-05-24 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 イオシフ・ゴシケーヴィチ生誕205年を記念して、生誕地であるゴメリ州ホイニキ地区ストレリチェヴォ村に顕彰銘板が設置されることになり、その除幕式に出席しました。
 除幕そのものもさせていただきました。大変名誉なことで、記念式典の主催者の皆様方に感謝申し上げます。

 ゴシケーヴィチの生誕地には諸説あでりました。ウィキペディア日本語版ではゴメリ州でもヤキモヴォ・スロボダというところが生誕地、となっていますが、誤りです。(2019年5月24日現在の記述)
 ヤキモヴォ・スロボダには、イオシフ・ゴシケーヴィチの弟が2人住んでいました。弟の1人、アンドレイはこの地の教会の神父をしており、もう1人の弟のフョードルはその手伝いをしていたのですが、1855年ごろに相次いで亡くなっています。

 イオシフ・ゴシケーヴィチとその弟や妹が生まれた場所は全員、ストレリチェヴォ村(厳密には当時はストレリチェフ村)の生まれであることが、村の教会の洗礼者の記録から正確に判明しました。
 そこで、イオシフ・ゴシケーヴィチの生誕地に銘板を設置しようという声が上がり、(でもよくある話ですが、予算があるとかないとかで時間が過ぎてゆきました。)ようやくこの度、除幕式が行われる運びとなったわけです。

 生年月日にも諸説あり、まだ定まっていません。でも今回生誕地が確定したので、生年月日も研究が進み、いつか確定することと思います。

 
 

ゴメリ州立図書館でゴシケーヴィチをテーマにレクチャー 

2019-04-26 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ゴメリ州立図書館のホールでイオシフ・ゴシケーヴィチについてレクチャーをしてきました。
 この図書館の公式サイトで、レクチャーの様子が報告されています。

 この画像だけだと、本当にゴシケーヴィチの話をしているのかどうかよく分かりませんが、特にゴシケーヴィチが函館に建てた通称「ロシア病院」についてお話しました。

 ちなみにゴシケーヴィチは現在のゴメリ州にある村で生まれたので、ゴメリ州立図書館にはゴシケーヴィチ関連の文献資料は他の図書館と比べて多く集められています。
 しかし、日本でどんなことをしていたのかについて詳細や、また日本人の視点から見たゴシケーヴィチ像といったものは、ロシア語に訳されていない部分が多いので、レクチャー出席者のみなさん(地元の大学関係者、図書館関係者の方々)にとっては、知らなかったことも多かったようです。
 
 「ロシア病院」には若かりし頃の新島襄が通院していたこともあり、内部の様子や病院食についての記録が日本語で残っているのですが、ロシア語に訳さないとベラルーシ人は分からないので、その研究(というより翻訳作業)を私がしたものを、今回発表できる機会を得られました。
 日本語の資料を閲覧するためにご協力くださった同志社社史資料センターの方々には深謝しております。
 
 レクチャーを聞きに来てくださったゴメリ市民の反応がとてもよかったので、もっと詳しく調べてロシア語でまとめたものを、この図書館に寄贈するのがいいように思いました。
(引き続きがんばります。私にとってライフワークのようなものになるかもしれません。)

 ゴメリ州立図書館はゴシケーヴィチに関する資料を収集していますので、チロ基金が購入した「日本文化に対するキリスト教の介入」を1冊寄贈しました。詳しくはこちらです

ジョージノでのセミナーに参加しました 3

2019-04-04 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 オブホワ先生はイオシフ・ゴシケーヴィチ生誕205年の今日、論文「イオシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ 宣教師、外交官、言語学者、東洋学者」を出版しました。
 内容について微力ながらも、私もお手伝いをしたのですが、この機会にオブホワ先生から寄贈していただいて、本当にうれしかったです。
 

ゴシケーヴィチが寄贈した晴雨計について

2014-11-28 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 函館奉行所の備船だったという亀田丸にゴシケーヴィチが寄贈したロシア製の晴雨計。
 亀田丸が廃船となったときに晴雨計も処分された可能性が高いのですが、当時外国製の晴雨計というのは非常に貴重なものだったので、簡単に捨てたりしなかったのではないかという希望のもと、晴雨計の行方を探してみることにしました。

 阿部論文を送ってくださった方が、北海道立文書館に「旧亀田丸属品不用ニ付室蘭勧工課ヘ無代金引纏方ノ件」という古文書が保管されているものの、内容はネット上では閲覧できないことになっていると教えていただきました。

 これを読んで「室蘭?」と思いました。この古文書が作成されたのが明治8年なので、そのころまでには亀田丸は廃船となったようで、その付属品は不要につき、室蘭勧工課へ引き取られたようなのです。
 そのため、晴雨計もいっしょに室蘭へ行った可能性が出てきたため、室蘭市民族資料館に問い合わせのメールを送ってみることにしました。
 結果は「当館、室蘭市で記録なども見つからなかった」ということでした。
 室蘭市民族資料館にはお手数をおかけしました。室蘭中調べてくださったようなので・・・
 本当にありがとうございます。

 次に北海道立文書館にも、「旧亀田丸属品不用ニ付室蘭勧工課ヘ無代金引纏方ノ件」の内容はどうなっているのか、教えてほしいとお願いしたところ、ご丁寧な返信がきました。
 この文書はネット非公開なので、通常は文書館を訪問して閲覧しないといけないところ、遠方にお住まいで難しいでしょうから、とわざわざ内容を書き起こして、メールで送ってくださいました。本当にご親切にありがとうございます。
 そして内容なのですが、亀田丸の不用品について細かく記載があったものの、その中に晴雨計はありませんでした・・・
 
 ということは、亀田丸が廃船になったとき、その備品だった晴雨計は函館で取り外され、室蘭には引き渡さなかったということになります。だから室蘭では探してもなかったのです。
 もし晴雨計が現存するとしたら、函館のどこかにある可能性のほうが高いですね。
 どこにあるんだろう・・・やっぱり捨てられてしまったのかなあ?

 この晴雨計はロシア製のはずなので、もし現存していれば、晴雨計のどこかにロシア語で何か書いてあると思います。(情報求ム・・・)

阿部正巳の著書に見るゴシケーヴィチ

2014-11-26 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 阿部正巳が書いた「歴史地理」36巻4号 凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ――(下) (大正9年、1920年)にゴシケーヴィチと晴雨計と常夜灯についての記述があるのですが、その部分を調べてくださった方が画像スキャンして送ってくれました。

 本当にありがとうございます! ベラルーシに住んでいるとこういうこともなかなかできないのですが、プリントアウトして手にとって、じっくり読むことができました!
 晴雨計と常夜灯以外にもおもしろいことがいろいろ書いてあります。

 それによると、文久3年(1863年)8月京都から、攘夷親征の知らせが函館に届き、市民はもうすぐ外国人打ち払いの戦争が始まると驚いて、避難しようと家財道具を運び出したりしていたところ、ゴシケーヴィチは左右の手を広げて「戦いない。心配するな。」と叫びながら市内を回り、人々の騒ぎを鎮めた・・・そうです。

 その後間もなく幕府から攘夷を取り消したという知らせが入り、函館市民も落ち着いたそうですが、この状況を想像すると光景が目に浮かびますね。
 当然ですが、外国人であるゴシケーヴィチはすごく目立っていたと思います。
 たぶん当時の日本人と比べ身長なども高かったと思いますし、函館の人々が「もうすぐ日本人対外国人の戦いが始まる。やばい!」とあわてているところ、その外国人が「戦いない。」と言って回っているわけですから、かなり宣伝効果(?)があったと思います。

 ゴシケーヴィチが見せる態度は、常に「日本とは仲良くやりたいです。」という基本姿勢があって、調べるベラルーシの研究者からすると、気分がよいのではありますが、別の意味では弱腰外交で、黒船に乗って大砲を打ったりする欧米の帝国主義的な外交と比べると、地味(^^;)ですね。

 個人的には友好的な外交関係を結ぼうとするゴシケーヴィチに大賛成なのですが、地味なので、歴史の教科書では取り上げられません。
 だから、知名度が低いんですね。でも知名度が低い人にもスポットライトを当てて見なくては、と歴史を学ぶときによく思います。
 
 他にも前述の論文によれば、ゴシケーヴィチはロシア帝国政府からの命により、日本とロシアの国境を定めましょうと提案し、(ロシア側の提案は樺太と蝦夷の間の海峡なので、今の宗谷海峡ですね。)さらには「隣国和親の好みを永遠に持続せんと欲す(漢字の旧字体は改めました。)」とも発言しており、それを決定するために日本政府からロシアに使節団を送ってほしい、その使節団が乗る船は函館港に泊めてあるロシアの軍艦を使ってもいいですよ、とまで言っています。
 江戸幕府はこれに対して、承諾したと返事をしたのですが、その後幕末の時世の混乱の中、うやむやとなり、明治維新前夜の慶応2年に函館奉行がロシアの首都ペテルブルグに行ったのですが、話し合いは不調のまま終わったとあります。

 ロシア側からすれば、国境の制定の話がしたいのに、なんで一国の役人ではなく、函館(地方行政)の奉行を寄こしてきたのだろう、と変に思ったでしょうね。
 国境の制定ができなかったのも当然ですね。

 またこの論文には石炭採掘の話も載っています。
 当時のエネルギー資源として、日本(樺太や蝦夷地の)石炭はロシア人にとって大変な魅力(特に軍艦の燃料として)だったようで、ゴシケーヴィチが領事として日本へ趣いたときも、ロシア政府から、日本の石炭のことはよく調査するよう命令されています。

 そして、江戸時代末期には樺太に進出してきたロシア人が石炭を採掘して、売りさばいている、とアメリカ領事のライスが函館奉行所に密告。
 奉行所はどうしたらいいものかと、幕府に報告・相談。
 幕府が出した結論は、ロシア人が南樺太で石炭を掘るのは禁止しないが、第三国に売ったことで、国際問題が発生するのは心配なので、掘った石炭は全て、函館奉行所に売ること。つまり日本側が買い上げるからと通達しました。
ロシア側からしたら買い手をいちいち探さなくても、日本側が買ってくれて、現金収入(当時は銀貨)になったので、いい話だったと思います。

 次に問題になったのは、函館奉行が購入した石炭を樺太から船で運搬するのに、函館港に保管する場所の確保でした。こういうことは石炭を買うほうの日本人が解決する問題である気もするのですが、ゴシケーヴィチは海岸近くの土地を保管場所にするから、1000坪貸してほしいと函館奉行所に請求しています。
 一度は「そんな場所ない」と断った函館奉行所ですが、再請求されて、埋立地690坪を貸してもいいと、ゴシケーヴィチに提案。しかしその周囲の海が浅くて、船が停泊できないと分かるとゴシケーヴィチは、代替案として、そこから海の深いところまで伸びる波止場をロシア側の予算で建設することを提示しました。

 しかし外国人が波止場を日本国内に建設するのを好まなかった当時の日本人は、ロシア側にお金があるのなら、それで埋立地をさらに増やして、できた土地合計880坪を買い上げたらよかろうと言い出しました。
 これに対しゴシケーヴィチは条約の規定により、埋め立て費用や土地の買い上げをすることはできませんと断り、土地を貸してくださいという請求も引っ込めてしまいました。

 昔の記録を読むのって本当におもしろいですねえ。
 当たり前だけど会ったこともない昔の人のことが身近に感じられます。
 こうして見るとゴシケーヴィチ領事は相当忙しかっただろうなあ・・・

 鎖国政策のせいで、外国人の扱いに慣れていない(というかどうしたらいいのかよく分からず困惑気味の)函館奉行を相手にさまざまな交渉をしないといけないし、本国のほうにもしょっちゅう報告書を送らないといけない。
 しかも当時はパソコンもコピー機もないうえ、郵便が全部船任せで、しかも郵便物を積んだ船が沈没することもあったので、常に報告書の控えを2、3通手書きで複製しないといけなかったから、大変です。

 さらに領事館の運営、働いている人たちへも気配りしないといけないし、さらにはロシア病院、教会、ロシア語学校などの運営もしないといけない、函館に来てすぐのころは通訳の数が足りなかったので、領事自ら医者の通訳をしたり、連れてきた奥さんは結核患者で病弱(函館で死去)、血が繋がっていない息子の養育もしないといけないし、さらには日露友好のためのイベントも企画、当時の日本では珍しかった写真撮影会をしたり、クリスマスパーティーをしたりして日本人を喜ばしていますが、目の回るような忙しさです。
 
 こんなに忙しいのに、趣味の昆虫採集をやって、蝶の研究までしていたんだから、すごく能力が高い人だったと思います。

 ゴシケーヴィチは領事として友好外交路線を進んでいたのですが、日本に進出してきたロシアの軍艦、つまり軍人は政治家としての領事を当時は軽んじているところがあって、あまり領事の言うことを聞かず、自分たちのやりたいことをやろうとしていた風潮があり、こちらのほうでもゴシケーヴィチさんは手を焼いていたようです。
 ストレスたまっていただろうなあ。

 そもそもゴシケーヴィチはロシア人ではなくベラルーシ人で、それだけでロシアでは人種差別されていたようで、しかも田舎の村にある教会の司祭の息子という出自。
 勤めていたロシア帝国外務省の上司や同僚はロシア貴族だらけ、軍人もそう、という環境の中で、たぶん職場いじめ(^^;)にあってたと思います。

 それが日本語できるから、と言う理由で領事に出世したわけです。(見方を変えれば、日本なんて未知で未開の国の初代領事なんて大変すぎていやだから、なり手が他にいなかったのかも。)

 貴族とちがい、庶民感覚、聖職者感覚の人間だったゴシケーヴィチが、函館へ来て強行タカ派外交なんてするわけないですね。

 でも一生懸命建てた領事館の建物が、隣のイギリス領事館から出た火事の火がが飛び火して全焼していまうと、さすがのゴシケーヴィチも完全に落胆してしまい、長年異国の地で働きすぎて、すっかり老け込んでしまい・・・つまり、疲れて燃え尽き症候群になりかかっているので、そろそろ本国に戻りたいんですけど、次の領事決めてください、という願い書をロシア帝国外務省に出しています。

 当時の国際郵便は船便なので、手紙の片道が数ヶ月もかかり、帰国命令が来るまで大変な時間が必要でした。やっとペテルブルグへ戻るまでの間も結局、仕事漬けだったゴシケーヴィチ。

 戻った後、ようやくそれまでの業績が認められて、身分が貴族になりました。
(手柄を立てるとご褒美として身分が変わる、というのがすごい。)

 その頃ロシア学校でロシア語を勉強していた日本人の生徒たちを手助けしてペテルブルグへ留学させていたのですが、その生徒に対してゴシケーヴィチはあまり面倒をみていません。
 慢性肺炎になって体調が悪化してしまったことが理由ですが、退職を決めて、再婚した奥さんの故郷ベラルーシのマリ村へ。

 ちなみに貴族にもなり、外務省で働いていたゴシケーヴィチがもらっていた年金の額はかなり高額で、マリ村の一軒屋を買って、そこで平和なセカンドライフを始めます。

 しかし常に何かやっているゴシケーヴィチ。日本から持って帰った本のコレクションを広げて、日本語と中国語に関する本を執筆します。やっぱり学者肌なんですよねえ。

 残念ながらマリ村での穏やかな時間はそんなに長くなく、5歳の息子を残してゴシケーヴィチは死去します。

 何と言っても昔の話なので、大変な苦労がたくさんあったと思いますが、才能と努力で何とか乗り越えて、そして後世にいろいろなものを残しているので、ゴシケーヴィチはベラルーシの偉人だと思います。


ゴシケーヴィチ関連情報 シンケイ丸について 

2014-11-19 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 以前からこのブログ上で、今年生誕200年を迎えたゴシケーヴィチ情報を探していました。
 おかげさまで、いろいろなことが判明しました。

 そんな中で、ゴシケーヴィチが寄贈したという常夜灯とバロメータ(晴雨計)のことが気になっていたのですが、日本に住んでいないので、私自身が調べることができないままでいました。

 しかし日本に住んでいる方が代わりにちゃんと詳しく図書館で調べて下さって、教えてくださいました。本当に感謝しています!

 そもそも私は常夜灯のことはロシア側のゴシケーヴィチに関する文献や論文の「参考文献」のところに
 阿部正己著「歴史地理」(1920年発行)の141-146ページにある「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」
 ・・・という文献が表記されているところから知ったのですが、ベラルーシ人のゴシケーヴィチ研究家から
「このバロメータは今でも日本のどこかにあるの? シンケイ丸って漢字でどう書くの?」
ときかれても答えられず、「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」という本が読みたいなあ、でもネット上では読めないし、困ったなと思っていたのです。

 今回代わりに読んできてくださった形となったのですが、この文献にちゃんとゴシケーヴィチが常夜灯を寄贈した、と記述されていたのです。

 さらに詳しく引用された文献をご紹介すると「歴史地理」36巻4号 凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ――(下) / 阿部正巳(大正9年、1920年)であり、この「凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ」上中下とシリーズになっています。
 上中下はすべて36巻に書かれていて、上は2号、中は3号、下は4号に収録されていました。

 それを分かりやすく要約すると・・・
 
 アメリカ領事ライスによって水先案内が設置されたが、ゴシケーヴィチがこれは不便なので、1861年常夜灯を寄贈することを約束した。
 1862年8月常夜灯が到着したので、ゴシケーヴィチは函館奉行所に持って行った。
 それを初め陸上に設置したが、1865年8月信敬丸と言う船に取り付けて、弁天岬沖の港口に停泊させるようにした。
 同年10月23日に常夜灯に点火し、その後水先案内人は廃止した。

 ・・・上記のうち、陸上とあるのは弁天台のことですね。
 
 ちなみにこの常夜灯のことは函館市史通説編第1巻 3編5章4節にも記述があります。
 
 それによると・・・

「外国船の水先案内については、去る安政5年2月ライスからの申出により、水夫11人を常雇として昼夜遠見番所に詰めさせておいたが(案内料は5月までは7ドル、6月以降は5ドルの定め)、万延元年になってライスおよびロシア領事ゴスケウィッチから、日本の水先案内は役に立たないといって外国人を推薦してきた。
しかし奉行津田正路は常夜灯を設置中だから、それができあがれば水先案内は不必要だろうといってこれを拒絶した。
箱館港口の常夜灯は、安政3年5月弁天町の庄蔵なる者の願いにより弁天岬に設置されたが、翌4年台場建築のために移転を命じられ、文久元年新しい箇所に竣工した。」

 ・・・となっており、ゴシケーヴィチが常夜灯を寄贈した、とはっきり書いていないのです。
 
 阿部正己の著書にしろ、函館市史にしろ、こういう情報の元ネタ(^^;)は函館奉行所のが残した公文書だと思うのですが、結局どっちが正しい(あるいは詳しい)の? ということになります。
 
 次に亀田丸という船にゴシケーヴィチが寄贈した晴雨計のことは、元木省吾著「北方渡来」(1961年発行)の59-61ページに記述かあるとして、ロシア人研究者は自分の論文の参考文献に記しているのですが、これについても上記阿部正己の論文に記述があったそうです。

 それによると・・・

 1859年11月、函館奉行の竹内奉行と津田奉行は新しく製造した船、亀田丸に晴雨計を設置しようと思った。
 その購入方法をゴシケーヴィチに相談したところ、函館港に停泊していた軍艦ジキット号に設置されていた晴雨計を寄贈してくれた。

 ちなみにジキット号というのはロシア帝国の軍艦で、ゴシケーヴィチが領事として函館に赴任してきたときもこの船に乗って函館に入港しています。

 よく考えたら、自分の船でもないのに、軍人たちと交渉して、一つ晴雨計を譲ってもらい、
「晴雨計っていくらぐらいするのかなあ。高いのかなあ。」
なんて心配していた函館のお役人に
「あげますよ。これで買わなくてもいいでしょ。よかったね。日露友好!」
と言う感じでゴシケーヴィチはプレゼントしたんだろうなあと想像できます。

 こうして晴雨計は亀田丸に設置され、使用されていたはずですが、その後のこの晴雨計の行方は分かりません。

 さらに船としての信敬丸と亀田丸についても調べたことを教えていただきました。

 「函館市史」通説編1 3編5章8節-1~5によると、どちらも函館奉行所の備船で、信敬丸は君沢形というタイプの船で、亀田丸はスクーネル型という船なのだそうです。
 と言っても船に明るくない私には違いが分からないのですが、どちらも西洋タイプの船だけれど、建造されたのは日本国内という船で、亀田丸はロシアとの貿易に使われていたそうです。

 信敬丸は「函館市史」通説編2 4編7章1節5-2 - 函館市中央図書館によると、1872年小林重吉と言う人物が信敬丸の払い下げを運上所に出願し1873年3月許可を得て、修繕、改造をして虎久丸と改名したそうです。
 虎久丸は74トン、安政元(1854)年製造のもので・・・とあるので、信敬丸は1854年に建造された船だったと分かります。

 信敬丸が虎久丸に改造された時点(1873年)には、常夜灯は取り外されてしまったものと思われます。
 やはりその後の常夜灯の行方は分かりません。

 函館のどこかに常夜灯も晴雨計も保管されているかもしれませんが・・・


 ともかくこんなに詳しくゴシケーヴィチ情報が集まるとは今年の初めには思ってもいませんでした。
 天国にいるゴシケーヴィチに言いたいぐらいですよ。(^^;)

 調べてくださった方、本当にありがとうございます!
 

 

 


ベラルーシの新聞紙上でゴシケーヴィチが撮影した湿板について掲載

2014-10-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 大変お待たせいたしました。ようやくベラルーシの新聞「ゴラス・ラジムィ」にゴシケーヴィチが撮影したガラス湿板が同志社大学で保管されていたことが記事になりました。
 このガラス湿板には同志社大学の創立者である新島襄が写っています。

 この新聞は現在ネット上で閲覧できます。詳しくはこちらをご覧ください。

 ベラルーシの新聞紙上で大きく取り上げられたこと、大変うれしく思っています。
 150年前にベラルーシ人が日本で撮影した湿板が大切に保存されていることを新聞を通じてベラルーシ人にも知ってほしいです。
 記事の内容ですが、このブログで書いてきたことと内容はほぼ同じです。湿板に行きつくまでのいきさつ、さらにベラルーシではあまり知られていない新島襄についてもきちんと説明してあります。

 新島襄が写っているガラス湿板ですが、現在同志社大学社史センター内で、新島襄が父親に宛てた手紙とともに保管されています。ガラス湿板そのものをデジタル撮影した画像を今回の記事に掲載する予定で、社史センターから許可をいただいていたのですが、結局掲載されませんでした。
 この湿板のデジタル画像を私は拝見したのですが、表面がかなり暗くて、確かに人物が写っているのが分かる程度なのです。
 これを新聞紙上で印刷しても、「何が写っているのか分からない。」と購読者から言われそう・・・と編集部のほうで判断されたらしく、掲載許可を出してもらったにも関わらず、掲載されませんでした。
 私個人の感想としてはこの点が少し残念でもあり、また一方で仕方ないという気持ちの両方です。
 1988年に同志社大学社史センターが発行した論文集「同志社談叢第8号」に掲載された桑島洋一さんの寄稿「新島襄の函館脱出時の写真について」のコピーのほうが結局掲載写真として選ばれましたが、考え方によってはこっちのほうが新聞読者にとって分かりやすいかもしれません。

 それからこの記事に人物が撮影されたガラス湿板の画像が掲載されていますが、これは林儀助という人で、これもゴシケーヴィチが撮影したとされている湿板です。

 1865年6月の撮影会でゴシケーヴィチが撮影した写真のうち現存しているのは3枚ですが、全てかなり暗く写っており、(要するにゴシケーヴィチは撮影に失敗しています。)林儀助さんの湿板も暗かったのですが、ご本人がその後、湿板を複製しており、そのときに露出を明るくするよう調整したのです。
 それが今回新聞に載った写真ですが、3枚あるうち一番きれいな写真なので、掲載採用されたようです。

 ご報告が大変遅くなってしまいましたが、この記事が出るために、同志社大学でコピーをしてくださったり、ベラルーシまで届けてくれたり、日本国内で調べてくださった方々に感謝しています。
 多くの方のご協力とご理解がなかったら、この記事は発表できませんでした。
 撮影したゴシケーヴィチ、撮影を勧めたニコライ主教、被写体となった新島襄の3人を結び付けたガラス湿板が現在を生きる私たちも結び付けてくれたことに感慨を覚えます。