ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第83回」

2008-11-29 |   ビタペクト配布活動
11月27日にビタペクト2と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村での第83回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。
 今回はビタペクト2を5個、そして「放射能と栄養」のコピーを10部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2は合計1550個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは1220部となりました。
  
 今回で通算93目のビタペクト2の配布となりました。
 のべ人数になりますが、現時点で1550人分のビタペクト2、そして1220家族分の「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト2配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(ビタペクト2を開発、製造、販売しているベルラド研究所のサイトはこちらです。)

http://www.belrad.nsys.by


 今回は1家族がゴメリ市(チェルノブイリ原発から約140キロ)から保養のためSOS子ども村に滞在しており、お話を伺いました。
 この家族は2002年にもSOS子ども村に保養滞在したことがありますが、そのときはビタペクト2配布活動がまだ始まっていなかったため、当時の体内放射能値は測定していません。
 
 この家族には子どもが7人いますが上の子ども2人(長男と次男)は20歳と19歳のため、保養には来ませんでした。それ以外の5人の子どもと、子どもの友だちである女の子を1人引率してきていました。
 
 それぞれの体内放射能値の結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクト2を一つずつ渡しました。(合計5個になりました。)

母親    18ベクレル
長女17歳 26ベクレル ○
次女14歳 28ベクレル ○
三女11歳 28ベクレル ○
三男 8歳 19ベクレル ○
四女 2歳 25ベクレル
女子11歳 22ベクレル ○ 

 お母さんは2歳の四女にもビタペクト2を飲ませたい、と話していましたが、対象年齢が3歳以上であるため、見合わせました。
 14歳の次女はダウン症です。
 11歳の三女は腎臓が悪く、絶対に風邪をひかないように、と言われているそうです。(でも難しいですよねえ・・・。)
 17歳の長女は最近視力が急速に落ちたそうです。
 他の子どもは健康、ということでした。
 引率してきた11歳の女の子は三女の友達、ということでしたが、自分の両親がいるのに、なぜかこの大家族と一緒に暮らしているそうで、何か理由がありそうでした。

 お母さんは45歳になりますが、末っ子は2歳で、すでに20年間も、「出産育児休暇中」で、働いていません。お父さんは建築作業重機の運転をしています。
 子どもがたくさんいて、収入源はお父さん一人なので生活が大変なのでは? と思っていたら大間違いでした。お母さんのお話によると・・・
「確かに以前は多子家庭だから、と言って特別扱いを受けることはあまりありませんでした。役所や多子家庭協会でも、大きな援助が受けられたわけではありません。
 しかし、数年前にゴメリの市長が福祉政策をたくさん実行し、すっかり状況が変わりました。末っ子を妊娠したときに病院へ行っても、上の子を妊娠したときとは大違い。医者や看護婦がとても丁寧に診てくれるようになりました。」
(私なんか「医者先生様の御回診」に辟易していました。参照↓)

http://belapakoi.s1.xrea.com/stay/child/birth/frame.xhtm


「さらには『子どもがたくさんいるけれど狭いアパートの1室で暮らしているので、もっと広い家を市から支給してください。』と申請したら、以前は何の反応もなかったのに、今回は3ヵ月後には電話がかかってきて『2DKと3DKのマンション2室が支給されます。』という返事でした。みんな大喜びで去年引越ししました。以前住んでいた狭いアパートの部屋は市に返しました。
 そして今はもう一室マンションの部屋が支給される予定です。建設中で、完成したら入居できますが、年上の子どもたちが住む予定です。40年ローンが組まれているのですが、返済するのは私たちではなく、国営銀行なのです。」
 子どもが7人いると、マンションの部屋が3室もらえる、というわけですね。これだけでも日本では考えられない話ですが、さらには・・・

「ダウン症の次女本人は障害児手当を月に(日本円に直して)9000円もらっています。
 母親の私は障害児の母ということで、医療費手当を8000円もらっています。
 18歳以下の子どもは多子家庭の子どもということで、それぞれ生活助成金を3000円もらっています。
 父親も障害児を含む多子家庭の父親、ということで、勤めている建築会社から、育児手当をもらっています。」
 現在のベラルーシ人の平均月収が約3万円です。
 すばらしい福祉政策ですね何だか夢のようです。ベラルーシにもこんなところがあったのか・・・とびっくりしました。

「でももちろん、福祉助成金を受け取るまでに審査があります。親がアル中だったり麻薬中毒だったりして、子どもの育児を放棄しているような家庭は子どもがたくさんいても、家などもらえません。
 子どもたちでも不良行為など問題を起こしたことのある子どもだと、こういった福祉政策の対象から外されます。」
 なるほど・・・
「このような政策のおかげで、ゴメリ市では今、出生率が急激に高くなり、ベビーブームが起こっています。ベラルーシで一番出生率が高い町になったのです。」

 すごい! 日本では出生率が低くなって、問題になっているのとは大違いですね。 
 日本政府もゴメリ市政を見習ってほしいです。

 またゴメリ市ではないのですが、ゴメリ州の町、ジロービンで2年前に4つ子が生まれたそうです。
 その夫婦は第2子の誕生を待っていたのですが、超音波検査で「4つ子です。」と、5人の子持ちになることを告げられました。
 帝王切開もせずに出産し、ジロービン市から双子用ベビーカー2台とマイクロバスが贈られたそうです。
 すごいですよねえ。

(一方で最近ブレスト州で4本の腕と4本の足を持った赤ちゃんが生まれたそうです。手術して、腕は2本にできるが、足のほうはできない、と医者が言ったそうです。) 
 
 ゴメリと言うと、「チェルノブイリ原発事故で有名になった町」というイメージだったのが、一変しました。
 もちろん放射能による影響は続いているのですが、一市長の市政策のおかげで、活気のある町に変化しつつあるように思えました。

 その一方で、前回の活動の報告にも書きましたが、同じベラルーシでもバブルイスク市のように、福祉政策が全く機能していないかのような町もあります。
 地方によってこんなに差があってもいいのでしょうか。あまりにも不公平だと思います。
 チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第82回」についてはこちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/9e8fc5e93ae9711827f521fddcc6ea37


 今回も子ども達に折り紙や日本人の竹細工職人の方に寄贈してもらった竹で作られた知恵の輪、写真を子どもたちにプレゼントしました。
 写真には雪の金閣寺が写っていて、
「なんてきれいなの!」
とみんな大喜びしていました。裏に子どもたち1人1人の名前を日本語で書きました。
 竹の知恵の輪はかなり早い時間で外していました・・・。
 意外と知恵の輪がベラルーシ人の子どもに人気ですね。(しかもけっこう早く外してしまいます・・・。)

 最後になりましたが、ビタペクト2の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、手作りの竹細工を寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に、この場を借りて深くお礼申し上げます。
 多くの方々に支えられて、この活動が続いています。ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

アレクシエーヴィチ「戦争は女の顔をしていない」日本語版 ご紹介と感想

2008-11-26 | ベラルーシ文化
 待ちに待っていた本「戦争は女の顔をしていない」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著)
 翻訳者である三浦みどりさんからようやく送られてきました。
 さっそく読み始めたのですが・・・本を読むのが早い私ですが、なかなか読み進むことができません。
 本当に貴重な証言の数々で、検閲で削除された箇所も掲載されたことがよかったです。アレクシエーヴィチ本人が削ってしまった部分すらあったのですね。
 
 アレクシエーヴィチの著作の日本語訳については、出版社である群像社のHPをご覧ください。
「戦争は女の顔をしていない」についてはこちらです。

http://gunzosha.com/books/ISBN4-903619-10-1.html


 アレクシエーヴィチについてはHP「ベラルーシの部屋」内「スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ情報」をご覧ください。

http://belapakoi.s1.xrea.com/aleksievich/menu.html


 また「ベラルーシの部屋」管理人であるさばさんが、ご自分のブログで、この本の紹介、感想を書かれてています。

http://d.hatena.ne.jp/saba2004/20081125/p1


・・・・・・

 さて、ようやく読み終えることができました。
 私の感想ですが・・・ソ連は戦勝国だったので、なおさら公にしない、あるいはしないほうがいい、とされる証言というのが多かったのではないか・・・ということです。
 日本は敗戦国だったので、戦争体験談などが「戦争の悲劇を風化させてはいけない。」「戦争を知らない世代に語り継ごう。」ということで、「こんな悲惨な体験をした。」とか「こんな情景を見た。」とか、語る場があると思うんです。
 それがマスコミでも取り上げられるし、本になったり、子供向け絵本になったり、「語る会」が作られたりしています。
(もっとも、戦争当時の日本軍の残酷な行為などは、隠されがちですね・・・。「原爆でこんな悲惨な目にあった。」という話は児童書にもなるけど、日本軍が人体実験をやっていた、というような事実は、あまり大きな声では語られていません・・・。)

 でもソ連の場合は、「勝利にわきかえって」しまって、逆に戦争中の体験談も、「ソ連兵の勇敢な部分」「祖国防衛のために果敢に戦った人々」といった「勝利」のイメージに合う部分は、語り継がれていても、それ以外の部分は日の当たるところに出なかったと思います。
 そういう部分を掘り起こして証言集として、出版されただけでも珍しいことです。それがこの「戦争は女の顔をしていない」なのですが、
「女の顔をしていないのなら、男の顔なのか?」などと思いながら読んでいたら、アレクシエーヴィチは「(証言をすることによって)悪魔に鏡をつきつけないといけない。」と書いていました。

 この本を読んでいると確かに、悪魔の所業としか表現できないようなことや、この世のものとは思えないような地獄絵図さながらの情景が書かれています。
 戦争は悪魔の顔をしています。
 でも、戦争なんかするのは、地球上では人間だけです。人間の中に悪魔がいる・・・と思いました。
 しかし幸い、戦争を回避するだけの知恵も人間には授けられているのも事実です。
 どうして戦争なんて始めてしまうのでしょうね?

 現在は第二次世界大戦のような大規模の戦争はないですが、ちょっとニュースを見るだけでも、テロ、内戦、といった、無実の人がどんどん死んでいく事件が毎日のように報道されています。
 戦後、何十年経っても世の中、理不尽なことだらけです。
 テロや内戦だけでなくても、無差別殺人、通り魔、放火、飲酒運転事故、ひき逃げ・・・ 本当に理不尽な理由で、何も悪いことをしていない人が、たくさん死んでいます。どうして人間はこうなのでしょうか?
 人間はやっぱり悪魔みたいになってしまうのでしょうか? それを避けることはできないんでしょうか?

 この本には森の中に潜伏したパルチザンに、農民が密かに手助けをしていた、そういった人々の協力がなければ、パルチザンも抗戦する力が続かなかった・・・といった証言が載っています。
 一方で、「祖国のためにドイツと戦っているわれわれに協力するのが当たり前だ。」と農村での食料の略奪行為が、パルチザンによって行われていました。
 同じパルチザンと言ってもいろいろです。
「味方であるパルチザンに食料のほとんどを奪われて、私のおばあちゃんは雑草を食べて生き延びた。」
という話をしてくれた人がいます。
 こういう話は大っぴらには語られません・・・。
 
 元パルチザンだった女性が集まった合唱のクラブがミンスクにあります。レパートリーは軍歌で、戦勝記念日などのステージに出るときは胸に勲章をつけています。
 合唱の練習の合間にこの女性たちはどんなおしゃべりをしているんでしょうか?
 「戦争は女の顔をしていない」に寄せられたような、悲惨な思い出話をするんでしょうか? 農村で略奪行為をした話は? 
 
 この本を読んで一番腹立たしく思ったのは、従軍した女性が戦後戻ってきて、戦争に行かなかった女性から、白眼視され、逆差別を受けた、という事実です。
 命をかけて戦って、見たくもない光景を散々目の当たりにして、やっと前線から帰ってきたかと思ったら、差別される・・・。理不尽なことばかりです。

 S夫のお父さんは激戦地だったスターリングラード攻防戦の経験者です。
 子どもが小さいときは、お父さんはよく自分の手柄話をしていましたが、同じ話を繰り返すので、そのうち子どもたちは飽きて聞かなくなってしましました。
 それで、嫁の一人(つまり私のこと)が戦争の話をしてください、と頼むと、お父さんは大喜びで話してくれます。
 スターリングラードでは、文字通り弾丸が雨あられと降ってきて、向かい合うドイツ兵の顔も見えるぐらいだったそうです。
 それでも突進していかなくてはいけない・・・お義父さんは左足を撃たれ、弾丸は貫通しました。野戦病院に運ばれて、
「このままだと腐ってしまうから、膝のところで切断する。」
と医者に言われましたが、
「この足は絶対に治るから、切らないでくれ。」
と懇願し、そのままにしておいたら奇跡的に足は腐らず、傷も治ったのです。

 足が動かせるようになったとたん、今度はケーニヒスベルグ(現在のロシア領カリーニングラード)の前線に行かされました。
 そこで、終戦。生き延びました。
 ドイツ人の大きな邸宅に乗り込むと、家族らしく10人ばかり、(老人と子どもしかいなかったそうです。)一つの部屋に固まって立ち尽くしている。
 ソ連兵に殺されると思って覚悟していたのでしょうか?

 お義父さんは他の部屋を探索し、立派な毛皮のコート2着を見つけました。それを大きな小包にして、故郷の村に郵送しました。
 村ではお義父さんの姉妹がそれを着て、見せびらかすために村中を練り歩いたそうです。
 村人たちは、「ドイツ製の高品質で垢抜けたデザインのコート」と「それを送ってくれた兄さんがいる」ということで、二人をとても羨ましがった・・・
 という話を、お義父さんはニコニコしながら、私に話してくれました。
 
 今の常識で照らし合わせると、お義父さんは泥棒をしています。窃盗容疑で逮捕されます。(それ以前に殺人もしています。)
 でも、戦争中はこういった常識が全部ひっくり返ってしまう・・・ということがよく分かりました。
 もちろん私は「お義父さん、あなたがしたことは犯罪ですよ。」と批判をする気はありません。
 でも、常識がひっくり返った異次元のような世界には私は住みたくないです。そんなふうに世界が変ってほしくない・・・と切実に思いました。

 いろいろ自分が思ったこと、ベラルーシ人から聞いた話を書きましたが、「戦争は女の顔をしていない」日本語版が出版されてよかったです。多くの日本人が読むことができますから。多くの人に読んでほしいです。

11月21日 ラジオ番組で、ベラルーシの作家アレクシエーヴィチが紹介されます。

2008-11-19 | ベラルーシ文化
 速報です!
 来日公演したこともあるベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの最新日本語訳「戦争は女の顔をしていない」を翻訳した三浦みどりさんが、11月21日にNHKのラジオに出演することになりました。

(20日出演の予定だったのですが、21日に変更されましたのでご注意ください。)

 NHK第1ラジオ「わたしも一言! 夕方ニュース」のコーナーです。
 18時28分から18時44分ぐらいの間で、生放送だそうです。 

 アレクシエーヴィチについてはHP「ベラルーシの部屋」内をぜひ!ご覧ください。

http://belapakoi.s1.xrea.com/aleksievich/menu.html


「戦争は女の顔をしていない」をはじめ、アレクシエーヴィチの著作の日本語訳については、出版社である群像社のHPをご覧ください。

http://gunzosha.com/books/ISBN4-903619-10-1.html


 NHK第1ラジオ「私も一言! 夕方ニュース」のHPはこちらです。

http://www.nhk.or.jp/hitokoto/


 NHK第1ラジオの各地の周波数はこちらで確認できます。

http://www.nhk.or.jp/res/tvres5/h50302.htm


 NHK第1ラジオはベラルーシでも聴くことができるんです。
(時差があるから番組が始まる時間の計算間違えをしないようにしなくては・・・。)
 今から三浦みどりさんの声を聴くのを楽しみにしています。
 そして、何より「戦争は女の顔をしていない」を読まなくては・・・!
 うちの図書館にも原書のロシア語版があるんですけどね・・・やっぱり日本語で読むほうが早いので・・・。(^^;)
 日本語版「戦争は女の顔をしていない」は日本文化情報センターで、来月から閲覧できるようになる予定です。

・・・・・・

 ここから先は22日にした投稿です。
 無事ベラルーシでも上記ラジオ番組を聴くことができました!!
 三浦さんのお声を久しぶりに聞きました。とてもうれしかったです。力強いメッセージでした。

 ミンスクへ送ってくださった「戦争は女の顔をしていない」日本語版は明日届く予定です。早く読みたいです!
 この放送をきっかけにアレクシエーヴィチの他の著作についても読む日本人が増えてほしいですね。

 アレクシエーヴィチの作品は現在、ほとんど日本語訳されています。テーマは戦争や原発事故などですが、一貫して感じられるのは、無視されがちな一般人の声を集めて大きなメッセージにしていることです。創作ではなく、実際に生きている人たちの声であることに意義があります。
 (この本を日本語で読む日本人の多くも、そういう「普通の人」がほとんどだと思います。)

 「戦争は女の顔をしていない」は従軍した女性の声を集めた証言集です。
 同じくアレクシエービッチの作品「ボタン穴から見た戦争」は戦争当時子どもだった人の証言集で、言葉を語っているのが子どもだけに、読んでいて辛くなる部分が多かったです。
 「戦争は女の顔をしていない」は証言した女性たちの多くは、高齢化しており、亡くなられる方がこれからどんどん出てくると思います。
 そういう意味で、証言できるうちに人々の声を集めたアレクシエーヴィチというジャーナリストがいて、本当によかった、幸運だったと思います。

 それが日本語に訳され、日本人が読めるようになったことは、貴重です。
 戦争がもたらす多くの一般人にもたらす心身への苦痛、生命の喪失の危機。これはベラルーシで起こった出来事でも、日本であった戦争でも、共通すると思います。
 無名の人々の声を読んで、何かを(特に戦争を知らない世代は)学ばないといけませんね。
 アレクシエーヴィチも「証言を集めて本にして、はい、それで終わり。」と考えて、今までの作品を発表し続けたわけではないですから。
 
 

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第82回」

2008-11-13 |   ビタペクト配布活動
 11月13日にビタペクト2と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村での第82回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。
 今回はビタペクト2を10個、そして「放射能と栄養」のコピーを20部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2は合計1545個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは1210部となりました。
  
 今回で通算92目のビタペクト2の配布となりました。
 のべ人数になりますが、現時点で1545人分のビタペクト2、そして1210家族分の「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト2配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(ビタペクト2を開発、製造、販売しているベルラド研究所のサイトはこちらです。)

http://www.belrad.nsys.by


 今回は4家族が保養のためSOS子ども村に滞在しており、お話を伺いました。


(家族A)
 ボブルイスク市(チェルノブイリ原発から約200キロ)から来たおばあちゃんと3人のお孫さん。
 この家族はSOS子ども村滞在は4回目です。

 2005年の1回目の滞在の様子は 
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第30回の(家族B)をご覧下さい。

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/2005/no30.html


 2006年の2回目の滞在の様子は
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第44回」の(家族A)をご覧下さい。

http://belapakoi.s1.xrea.com/logs/2006/004.html


 2007年の3回目の滞在の様子は
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第62回」の(家族A)をご覧下さい。


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/b1f2b646e09d44ebfd5e052b924a6e22



 この家族には1個のビタペクト2を渡しました。
 体内放射能値の測定結果についてはこのように推移しています。
(2005年→2006年→2007年→2008年の順に表記しています。)

・おばあちゃん 14ベクレル → 8ベクレル → 13ベクレル → 10ベクレル
(一度もビタペクト2を飲んでいません。)

・8歳の孫(男の子)32ベクレル → (入院したため測定なし)→25ベクレル→ 13ベクレル 
(2005年と2007年にビタペクト2を配布しました。)

・6歳の孫(女の子) 18ベクレル(2006年に初滞在)→ 24ベクレル → 18ベクレル
(2006年、2007年、2008年ビタペクト2を渡しました。)

・2歳の孫(女の子) 0ベクレル(2007年初滞在。)→ 15ベクレル
(年齢が3歳以下のため、ビタペクト2は渡していません。)

 8歳の孫の男の子は2005年の滞在のときは元気だったのに、2006年の滞在直前に悪性腫瘍が見つかり、緊急入院。重篤状態が続いていましたが、持ちこたえてその後退院し、2007年は検査を受けるためSOS子ども村に滞在していました。
 今年も詳しい検査のため、SOS子ども村に滞在していますが、C型肝炎を併発していることが分かったそうです。

 心配な状況が続いています。しかし、SOS子ども村に今年もおばあちゃんといっしょに来られてよかったですね。・・・と思ったら、おばあちゃんがこんな話をしました。
「今年も孫のため、検査に連れて行きたいので休みをください。」
と職場で頼んだら、いきなり
「契約期間が終わった。」
と言われ、解雇されてしまったそうです。おばあちゃんは現在52歳。この年齢で無職になったら再就職は難しいです。(職種にもよりますが・・・)
 また、ベラルーシでは女性は55歳で定年退職しますが、定年時に就いていた職業の給料を元にして、年金の額が決まります。もし無職だったら、最低額の年金しかもらえません。
「保養が終わって家に帰ったら、就職先を探す。孫のためにお金も必要だし・・・。」
と話していました。
 どうして、こんなに冷たいことをされなければいけないのでしょうか? 仕事を休んで遊びに行くわけではなく、孫の病気の検査のために、地方から首都の大きい病院に連れて行くために休暇の申請をしたのに・・・。何だか腹が立ってきました。
 しかし、もっと大変な状況の家族もいたのです。
 
(家族B)

 こちらもボブルイスク市から来た母親と3人の息子さん。
 この家族はSOS子ども村滞在は2回目です。前回の滞在は2005年2月です。
 2005年の滞在の様子は
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第28回」の(家族B)をご覧ください。

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/2005/index.html


 この家族には2個のビタペクト2を渡しました。この家族の放射能値の推移はこのとおりです。(2005年→2008年の順に表記しています。)

・母親 5ベクレル → 8ベクレル
(ビタペクト2は一度も渡していません。)

・長男(13歳) 11ベクレル →14ベクレル 
(ビタペクト2は一度も渡していません。) 

・次男(10歳) 20ベクレル → 21ベクレル
(2005年と2008年にビタペクト2を渡しました。)

・三男(10歳) 5ベクレル → 26ベクレル
(2008年にビタペクト2を渡しました。)

 次男と三男は双子です。長男は障害者です。(癲癇患者。知的障害もあります。)
 2005年の滞在でも、お母さんは暗くて、元気がありませんでした。今回はもっと落ち込んでいました。話を聞いてみると、3人の子どもを残して、父親が愛人の元へ行ってしまい、その後離婚。そしてこの父親ですが、現在服役中だそうです。何をしたのか知りませんが、当然子どもの養育費を払えるわけがありません。

 住む場所を確保するため、ローンを組んでマンションをお母さんは買いましたが、毎月ローンを支払わないといけないので、当然収入が減ってしまいました。
 障害者の長男のために薬を買わないといけないのですが、なかなかその薬代を出すことができず、
「家ではじゃがいもしか食べていない。」
と双子が話していました。でも双子は学校で給食を食べているからまだ恵まれています。
 長男のほうは障害児を受け入れられる条件にないから、と学校の入学を断られました。でもベラルーシにも義務教育を受ける権利があるので、教師が家庭訪問をしています。
 2年前は教師が通ってきて、文字の読み書きを教えてくれたそうです。しかし昨年は教師が家に来ても、何もせずにすぐ帰ってしまったそうです。
 私だったら、校長先生に苦情の一つも言うところですが、お母さんはこういう話をしながら、ずっとすすり泣いていて、
「どうせ言っても何も変わらない。」
と諦め切っていました。
 今は長男は、母は仕事、兄弟は学校へ行っている昼間、ずっと1人で家におり、テレビを見ているそうです。
 お母さんに「床掃除をしなさい。」と言われると、この長男はゆっくりですが、きれいに隅々まで雑巾がけをするそうで、私は専門家ではありませんが、この子の話していることを聞く限りでは、そんなに知的能力が低いようには感じませんでした。
 訓練さえすれば、単純作業でも就職できる可能性もあると思いました。そのあたりの訓練を学校側がちゃんとすればいいのに、放置されています。
 
 ボブルイスク市には障害児協会があり、それに登録していますが、だからと言って、薬がもらえる、古着がもらえる、といった得をするようなことが全くないそうです。
 幸いこの協会を通じて、SOS子ども村に滞在でき、子どもたちもキーウイとかの果物を食べて喜んでいる、ということが、入会してよかった、とも思える唯一の点です。
 しかし、SOS子ども村に来たとき、11月なのに子どもたちは夏用のサンダルしか履いていませんでした。
「これしか靴がない。」
と言うのを聞いて、一緒に保養にきていた(家族D)のお母さんが長男の古い靴を取りに行って、あげたそうです。

 金銭的に援助してくれるような祖父母や親戚もおらず、障害児協会も援助物資をくれない、3人子どもがいるのだから、障害児じゃなくて多子家庭協会に登録したほうがいいのでは? と言ったら、(家族A)のおばあちゃんが
「ミンスクの多子家庭協会だと、古着や哺乳瓶などの救援物資がもらえるけど、ボバブルイスクの多子家庭協会では何ももらえない。それどころか、多子家庭のための育児助成金ももらえず、『他の都市ならもらえても、ボブルイスクはボブルイスクで、そんな福祉策はない。』」
と言われるそうです。多子家庭の助成金については、このSOS子ども村でいろんな地域の話を聞きましたが、町によって額がバラバラで、こんな不平等でいいのか? と思っていましたが、多子家庭でしかも投薬が必要な障害児がいるのに、全く援助が得られない、なんてひどすぎると思いました。
 ボブルイスクの行政は、雪が積もっても子どもにサンダルを履けって言うんでしょうか?

 以前はこの双子のうちの弟がアメリカへ保養滞在して、アデノイドの治療を受けたことがありますが、その後は誰も外国への保養も全く行っていません。
 お母さんはモギリョフに障害児を長期入院させて治療する病院があることを知り、長男を入院させました。その後面会に行くと、同じような子どもたちがまとめて、檻のような病室に入れられていたそうです。
 長男は体のあちこちに引っかき傷や、青あざを作っていました。
 病院でどういう治療をしているんですか? と尋ねると
「あなたの子どもの病気は一生治らない。私たちは治療はしません。逃げないか見張っているだけです。」
という返事だったので、怒ってその日のうちに退院させ、家に連れて帰ったそうです。
 ひどい・・・子どもの人権とか、そういったことは考えていないのでしょうか?
 (しかし、このお母さんは優しい、まともなお母さんだから、自分の子どもをすぐ退院させたけど、親によっては体のいい厄介払い、ということで障害児をこんな病院にずっと入院させているケースもあるんじゃないか・・・と思えてきました。気分が重いです。) 

 この泣いているお母さんを見ていると、この調子で誰からの何も援助が受けられないと、お母さん自身がうつ病になるんじゃないかと、心配になってきました。
 チロ基金からビタペクト2をあげて、「食育が大事です。海草を食べましょう。」という話をするのもいいことですが、この一家にとっては、放射能や海草どころの問題ではありません。
 お母さんはそれでも「ビタペクト2、ありがとうございます。」と感謝していましたが、もっと何か別の援助(食品や靴、薬など)ができないものか・・・と考え込んでしまいました。
 

(家族C)

モズィリ市(チェルノブイリ原発から約90キロ)から来た家族。お母さんと2人の子ども、姪で、2個のビタペクト2を渡しました。
 それぞれの体内放射能値の結果はこのとおりです。○印のついた子どもにビタペクト2を渡しました。

母親    18ベクレル
長女 3歳 21ベクレル ○
次女 1歳  8ベクレル
姪 10歳 19ベクレル ○

 このお母さんは離婚訴訟中です。こんな小さい子ども二人を残して、父親が家を出て行ってしまいました。
 お母さんは子どもが小さいので仕事をすることができず、収入のない困窮家庭として認められ、生活保護を受けています。しかし月に8000円程度の手当てしかもらえないそうで、これでは生活できません。お母さんの両親が食品を買ってくれたりしているそうです。
 
 SOS子ども村に保養中は、食費が支給されているので、3週間の滞在でも、その分、食費が浮いて、大変助かる、と話していました。

 家はありますが、名義が夫婦なので、離婚すると夫が半分の面積の所有する権利を言い出して、家の中の半分の部屋しか使えなくなったりする可能性があるそうです。
 でも、子どもは夫の子どもなんだから、家を丸ごと住めるようにしてほしい、とお母さんは訴えているそうです。

 父親には養育費をちゃんと払ってほしいですよねえ。どうして、子どもを忘れてしまったようにできるのでしょう?
 ベラルーシの法律では、別れた夫が公務員で、子どもが母親に引き取られた場合、父親の給料から養育費が自動的に天引きされます。
 でもそうでない職業の場合もあるし、夫が無職だったり刑務所に入れられていたりしていた場合、養育費が支払われません。
 こういうことになってしまうと、本当に生活が大変苦しくなってしまいます。

 引率してきた姪っこの両親も全く同じ状況だそうです。(こんな孫を3人も抱えたおじいちゃん、おばあちゃんも大変です・・・。)

 お母さんは
「家にいたときは、精神的にも辛く感じていましたが、SOS子ども村に来て、他の病気や障害児を抱えたお母さんたちの話を聞いていて、本当にいろいろな人生があると感じました。私の話も聞いてもらえて、精神的にも助けられています。ここへ来て本当によかった。」
と話していました。
 ところで、SOS子ども村での保養滞在は、普通2家族か3家族が同時に滞在しますが、どうして今回は4家族? ベッドは足りているのかしら? と思っていたら、モズィリの母子家庭協会が日にちを間違えて、このお母さんに伝えてしまい、知らずに準備して、SOS子ども村へ来てしまったそうです。
「どうしてこんなに早く来たの?」
とSOS子ども村の職員さんはびっくりしたのですが、
「来てしまったのなら仕方ないですね。このまま保養滞在してください。」
と、小さい子どもを一つのベッドに二人寝かせたりして対応したそうです。 
 全部で20人が一つ屋根の下で生活しているのですが、トラブルはなく、みんな仲良くしているそうです。
 狭くないのかなあ、と最初は心配していましたが、お母さんのお話を聞いているうちに、日にちを間違ったのも、何か縁や運命の導きだったのではないかなあ、と思えてきました。


(家族D)

 ミンスク(チェルノブイリ原発から約350キロ)から来た家族。お母さんと6人の子どもたちです。この家族には5個のビタペクト2を渡しました。
 この家族は家庭タイプ孤児院の一家です。ミンスクにある「子どもの町」から来ていました。「子どもの町」という制度について詳しくはチロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第80回」でご紹介しています。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/604dd06fec1c739a5e65f5b7939830f8


 それぞれの体内放射能値の測定結果はこのとおりです。○印のついた子どもにビタペクト2を渡しました。

母親     23ベクレル
女子 13歳 21ベクレル ○
男子 11歳 16ベクレル 
女子  9歳 19ベクレル ○
女子  7歳 30ベクレル ○
女子  5歳 31ベクレル ○
男子  4歳 42ベクレル ○

 このうち5歳と7歳の女の子2人は実の姉妹です。 
 お母さんには実子がいますが、すでに成人して独立しています。3年前に子どもの町に来て里親になることにしました。すると人手不足だったのか、いきなり12人の里子と暮らすよう頼まれたそうです。
 その結果、この3年間、食料品と衣類の買い物以外、外出できなかった、という子育て生活を送ったそうです。しかし、里子も何人かは18歳以上に成長してそれぞれ自立していき、今は6人が残っているそうです。
 こんなに懇親的に子どもたちの世話をしているのに、小さい子どもから「お母さん」と呼ばれるのはいやだそうで、「おばさん」と呼ぶように教えているそうです。
 その里子たちの本当の両親は、アルコール中毒、麻薬中毒で育児は不可能で、孤児院に収容されたり、あるいは生後すぐ親権放棄された子どもたちばかりだそうです。

 4歳の男の子は体重が10キロしかなく、2歳児並の体格です。生まれたときすでに体重が少なかったのですが、その後、子どもの町に引き取られるまでの間、まともな食事をしてなかったそうです。
 9歳と5歳の女の子は弱視。(親がアルコール中毒だと弱視の子どもが生まれることが多いです。それだけが原因ではもちろんありませんが。)
  こういう子どもたちに出会うたびに、かわいそう、という気持ちと、でもいい養母に恵まれて、運がよかったなあ、という気持ちの二つが心に起こります。
 もうちょっとしっかりした責任感ある「生みの親」が増えてほしい、とも思うんですが。
 下がる一方だったベラルーシの出生率が最近上がっています。それはそれでとても喜ばしいことですが、生まれる子どもの数が増えても、育児放棄されてしまう子どもが増えたら悲しいなあ、と思います。 

 今回も子ども達に折り紙や日本人の竹細工職人の方に寄贈してもらった竹で作られた知恵の輪、絵葉書を子どもたちにプレゼントしました。
 絵葉書は室生寺の絵葉書で、ベラルーシ人の小さい子どもが古いお寺に興味なんか持つんだろうか、と思っていましたが、実際には
「これは何? 何の写真? 何の建物? どんな意味があるの?」
と質問攻めにあいました。とても賢い子どもたちばかりに見えましたよ。
 知恵の輪も「こんな難しいの、面倒くさい。」と敬遠されるかと思っていたら、全く正反対の反応でした。

 最後になりましたが、ビタペクト2の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、手作りの竹細工を寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に、この場を借りて深くお礼申し上げます。
 多くの方々に支えられて、この活動が続いています。ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

T家の放射能再測定結果 

2008-11-12 | チロ基金
 8月29日にベルラド研究所で、家族そろって体内放射能値の測定をしました。(詳しくはこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/9781c2b52d5dc459d2395085eaf8c881


 このときの結果は、私が22ベクレル、娘のY子が20ベクレルでした。
 私の両親(父16ベクレル、母22ベクレル)とその後ビタペクト2を飲んでいましたが、もちろん全部飲まないまま両親は日本へ帰国。
 私とY子は1日ティースプーン1杯ずつ飲み続けました。
 いつもそのようにSOS子ども村で飲み方を子どもたちに説明しているため、同じ条件にしました。
 ベルラド研究所では、大人は一日3杯ずつ、子どもは2杯ずつ摂取するように、と説明していますが、ペクチンの持つ整腸作用がききすぎて、下痢を起こす場合があるとして、SOS子ども村では1杯ずつ飲むことになっています。

 しかし、自分がそのペースで飲んでみて分かったのですが、なかなか飲み終えることができません。
 SOS子ども村での保養滞在は3週間なので、子どもたち、絶対これは滞在中に飲み終えていませんね。自宅に持って帰って、最後まで飲んでもらうよう指導しなければいけない、と思いました。
 
 さて、10月中旬になってやっと1パックのうち半分のビタペクト2を飲むことができました。
 その後はビタペクト2を飲むのを休止していましたが、11月10日に体内放射能値の再測定をしました。

 結果は私が22ベクレルから15ベクレル、Y子が20ベクレルから8ベクレルに下がっていました。万歳! (^0^)

 半分飲んだだけで効果がありましたので、1パック全部飲めば、もっと効果があったと思います。

 もう一つのカリウム値ですが、私がノルマ62グラムに対し、55グラム。
 Y子がノルマ43グラムに対し、37グラムでした。
 
 私は44グラムだったのが55グラムに上がりました。まだノルマに達していませんが、改善しましたよ。ありがとう、干しぶどう! (^^;)
 Y子は体重が増えた分、ノルマの値も上がり、それに比べるとカリウム値が以前より不足気味・・・ということになってしまいました。
 これからもいっしょの干しぶどうを食べようね。

 ビタペクト2に効果があると分かり、また放射能値が減少して、うれしいです!
 心が軽くなりました。
 
 わが一家の放射能値ですが、また測定することになりましたら、ブログ上でご報告いたします。

(画像は再測定中のY子。背もたれに背中をぴたっとくっつけないと、正しい測定ができないので、ふんぞりかえっています。)


(チロ基金が行っているビタペクト2配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(ビタペクト2を開発、製造、販売しているベルラド研究所のサイトはこちらです。)

http://www.belrad.nsys.by


第17回世界パズル選手権がミンスクで開催されました

2008-11-10 | ベラルーシ生活
 10月27 日~11月1日にベラルーシ・ミンスクにて「第17回世界パズル選手権(17th World Puzzle Championship)」が開催されました。
 もちろんベラルーシでは初開催です。
 実はこういうパズルの世界選手権というものがある、ということすら私は全然知りませんでした。でももうすでに17回目の開催なんですねえ。
 参加した日本チームは22か国中、2年連続の団体準優勝をおさめました。すごいですねえ。
 (このパズルの問題、どれも私は全然できないと思います。)(^^;)
 
 画像満載の詳細レポートは日本チームの代表者を決定する「日本パズル選手権」を主催している出版社「世界文化社」のHPから見ることができます。ぜひご覧ください。

http://jpc.puzzler.ne.jp/

(話はそれるのですが、日本チームを引率し、このレポートを書いた世界文化社のHさんは、宿泊先のホテルのロビーで財布を落としたそうです。最悪。ホテルの従業員は「このホテルには物を盗むような人間は働いていません。」とホテルの従業員が拾って懐に入れたことは否定。そりゃそうですよね。しかし、ホテルには不特定多数の人間が出入りできます。明らかに泥酔状態の人間は入り口で追い返されますが。だから、悪者がいないわけではないので、ホテルと言えど、ベラルーシでは落とした財布は見つからない、と考えて注意してください。)

 「世界パズル選手権」の公式サイト(英語)からは成績の結果一覧が見られます。開催国のベラルーシの選手ももちろん参加しています。ベラルーシでもこんなパズル選手がいるとは・・・全く知りませんでした。

http://wpc2008.org/results


 9月のクレー射撃ワールドカップ(詳細はこちら。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/e2ff1b7a797dc9b88c6f7eb35afe9d30


といい、今回の世界パズル選手権といい、国際大会がミンスクで開催されると、
「ああ、ミンスクも一国の首都らしく、知名度が上がってきたか・・・。」
と感慨深いものがありますねえ。(^^;)
 この間もサッカーでベラルーシとイギリスがミンスクのスタジアムで試合をして、イギリス人サポーターがどっとやってきて、警察が走り回っておりました。
 ミンスクでこんなに大勢のイギリス人がまとめてやってくること自体が、初めてですからねえ。

 この調子で、ベラルーシも世界的に知名度を上げて、
「ベラルーシ? ミンスク? どこそれ?」
と言われなくなる日が早く来てほしいものです。
 ちなみに日本人だけではなく、他のヨーロッパの国の人でも、ベラルーシのことを知らない人がいっぱいいます。隣の隣のドイツでも知名度が低くて、ロシアのどこかだと思っている人が多いそうです。

 しかし、このようなパズル選手権に出場した多くの国の選手のみなさんは一生、ミンスクに行ったことを忘れないでしょうね。
 

今年もまたぶどう酒作り

2008-11-08 | ベラルーシ生活
 昨年2007年11月21日の記事「ぶどう酒作り」

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/08e16ee689642ef98bd332427c99859d


 今年もまたぶどう酒作りに挑戦しています! 
 ぶどうを栽培しているというベラルーシ人の多くから
「今年はうまく熟さなかった。」「熟す前に腐ってしまった。」
という話をきいたのですが、なぜかS夫の両親のダーチャではぶどうが大豊作!
 それをもらって自宅でぶどう酒を作っています。今年は去年の3倍ぐらいの収穫量でたくさんぶどう酒ができそうです。
 (瓶を割らないように注意しなくては・・・)(^^;)

 完成したらブログでご報告します。
 新年はこのぶどう酒で乾杯したいものですねえ。
 親戚からも「上手にできたら一瓶分けて。」と言われているので、責任重大です。
 画像でご覧のように、「皆さん」幸い
「はーい、うまく熟成進んでます!」
という手の上げ具合なので、大丈夫でしょう。(^^)
(2名ほど手を上げていない人がいますが、これは手を上げている人の中身と混ぜ合わせたところ、その後は手を上げてくれました。)(^^;)

 

日本文化情報センターの活動 書道体験会  第2回

2008-11-02 | 日本文化情報センター
 2008年11月2日「第2回 書道体験会」を行いました。
 昨年は日本文化情報センター創立8周年記念イベントとして第1回書道体験会を行ったのですが、好評につき、今年も行う運びとなりました。
(第1回書道体験会についてはこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/31e927509d06142fecc1ec906d8a0c11


 昨年9月にこのブログ上で「チロ基金から日本人の皆様へ寄贈のお願いです」という記事を投稿しました。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/efbdbd2a81fd7417892ef0acc6a9bfe3


 その後、日本人の協力者の方から書道の道具が寄贈されました。
 おかげさまで今年は一度に5、6名が書道を体験することができました。
 1日で33人の参加者が書道を体験することができました。
 筆や墨汁、書道用半紙を寄贈してくださった方々に厚くお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 この画像を撮影したときは午前中で、まだ人が少なかったのですが、午後になると順番待ちの状態になり、一つの硯を二人や三人で使うぐらい盛況でした。
 順番を待っている間は、会場で上映した書道入門のビデオや、日本の小学生の書道の作品展を見たりしていただきました。
 
 参加費無料、入場自由、書いた作品は、記念に参加者に持って帰ってもらいました。家で掛け軸にでもしてるかもしれません。
「毎週、書道会をしてください。」
とも言われたのですが、さすがにそれは難しいので、1年に1回、11月3日の文化の日の前後に開催しようと思っています。

(ちなみに今年の参加者が書いた漢字の中で、一番「?」だったのは「夜警」でした。(^^;) でも、やっぱり人気がある漢字は「愛」とか「幸」ですね。)

 来年の開催に向けて、半紙や筆などの書道用品の寄贈を引き続き、お願いいたします。できるかぎり続けて書道体験会を実施したいと考えています。
 お問い合わせは、メールアドレス nbjc@mail.goo.ne.jp まで。 
 

日本テレビから日本文化情報センターに寄贈された絵本

2008-11-01 | 日本文化情報センター
 やっと・・・この「日本テレビ」関連記事の投稿、これで最後になりそうです。
 10月29日、ようやく日本の絵本を手にすることができました!
 このブログでご報告している「日本テレビの対応そしてベラルーシの郵便事情」については以下の投稿記事をご覧ください・・・。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/cd9167e72836cf2ba5886716f8dc1c7e


 一度はベラルーシに送られた絵本は結局、日本に送り返され、その後EMSで再びベラルーシへ発送されました。 
 絵本の画像を添付します。(証拠写真として・・・)
 日本テレビから寄贈された絵本は、日本文化情報センターで閲覧できるようにし、少しずつになりますが、ロシア語あるいはベラルーシ語に翻訳していきます。
(「はらぺこあおむし」や「3びきのやぎのがらがらどん」はもともと日本のお話ではありませんが・・・寄贈していただけたのはうれしいです!)

 不愉快な思い、がっかりしたことなど、いろいろなことがありましたが、(全部カットされけれど)日本テレビに取材協力してよかったと今では思えるようになりました。
 関係者の皆様、ありがとうございました。取材協力したベラルーシ人の方々にも絵本が届いたことを必ず伝えます。
 この絵本をベラルーシ人の子どもたちが手にとって、楽しく読んでくれる日が早くくるよう、翻訳作業を進めたいと思っています。

 (日本文化情報センターの絵本翻訳活動について詳しくはHP「ベラルーシの部屋」をご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no1/no1.html