ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

日本文化情報センターの活動 剣道体験会 第7回 その5

2014-06-24 | 日本文化情報センター
 ミンスク剣道クラブのリタさんとイローナさんには本当に感謝しています。
 ミンスク剣道クラブは現在30人が所属していますが、20人が幽霊部員(^^;)で10人が熱心に通っているそうです。
 幽霊部員の20人も怠けているわけではなく、仕事が忙しかったり、結婚して趣味に使える時間がなくなったりで練習に行けなくなってしまっているそうです。
 一生懸命練習して、上手になった人が来られなくなってしまうともったいないとリタさんは話していました。
しかしときどき海外のセミナーに参加して、他の国の剣士と交流試合をしたり、日本人の先生にも教えてもらっているそうです。
 スポーツを通じて日本人と交流しているミンスク剣道クラブの皆さんは立派ですね。

 またできるかぎり剣道体験会をミンスク剣道クラブのみなさんの協力が得られる間は続けていきたいと思っています。 

日本文化情報センターの活動 剣道体験会 第7回 その4

2014-06-24 | 日本文化情報センター
 今回も会場には剣道や武道に関する書籍の展示も行いました。またアニメ「ねこの恩返し」のエンディングテーマをうちの子が日本語で歌いました。アニメ映像を必死で見ている子のほうが多かったけど、日本語の生の歌はなかなか聴くことができないので、こういう企画もよいかなあと思いました。

日本文化情報センターの活動 剣道体験会 第7回 その3

2014-06-24 | 日本文化情報センター
 みんな大喜びです。小学生の1年生から4年生までの年齢なので、よく意味も分からずやっている子どももいると思うけど、剣道の記憶は一生残りそうですね。
 これを機会に剣道を始める子は少ないと思うけど、武道や日本文化に対するよい思い出が脳裏に残ればなあ、といつも思います。

日本文化情報センターの活動 剣道体験会 第7回 その2

2014-06-24 | 日本文化情報センター
 子どもたちは60人ぐらい来ました。ミンスク剣道クラブのお二人、リタさんとイローナさんの登場に大興奮していました。
 最初は剣道の歴史を紹介するビデオの上映、剣道のデモンストレーション、そして全員参加の体験会です。
 それにしてもこの空気の入ったビニールの竹刀、便利ですねえ。絶対痛くないし、まちがって隣の子どもをつついてしまっても大丈夫ですね。

日本文化情報センターの活動 剣道体験会 第7回 その1

2014-06-24 | 日本文化情報センター
 ベラルーシでは6月から夏休みが始まり、たくさんの子どもが図書館にやってきます。新美南吉童話朗読会も去年に引き続き行っているのですが、やはり大人気の剣道体験会を今回も行うことになりました。

 協力してくれたのはミンスク剣道クラブのみなさん。
「ミンスク剣道クラブ」のサイトはこちらです。(ただしロシア語のみです。)

 2012年3月に第1回剣道体験会を実施しました。詳しくはこちらをご覧ください。

 2012年6月に第2回剣道体験会を実施しました。詳しくはこちらをご覧ください。

 2012年11月に第3回剣道体験会を実施しました。詳しくはこちらをご覧ください。

 2013年3月に第4回剣道体験会を実施しました。詳しくはこちらをご覧ください。

 2013年6月に第5回剣道体験会を実施しました。詳しくはこちらをご覧ください。

 2014年3月に第6回剣道体験会を実施しました。詳しくはこちらをご覧ください。

チロ基金の活動が書籍の中で紹介されました

2014-06-12 | チロ基金
 2014年6月に出版されたエッラ・オリナ著の書籍「Добру вечно побеждать!」にチロ基金のことが紹介されました。
 タイトルは翻訳すると「善行は永遠に勝利する」といったところでしょうか。
 この本はチロ基金が2002年から内視鏡手術器具を寄贈しているベラルーシ国立子ども外科センター(ベラルーシ小児外科病院)で懸命に治療に当たっている医師たちの業績をジャーナリストのエッラさんが執筆しまとめたものです。
 エッラさんが若い頃この病院で秘書をしていたことは知っていたのですが、ベラルーシの医師に光を当てた本を書いているとは知らなかったので驚きました。
 この病院に支援を続けているチロ基金についても外せないということで、書籍の中で取り上げてもらったのです。
 チロ基金の支援活動がこのような形でベラルーシで紹介されることになり、大変うれしいです。
 お医者さんたちも医学の専門書ではなく医療従事者の姿をテーマにした文献が発表されるのは珍しいので大変うれしいことだと喜んでいます。
 エッラさんはベラルーシの子どもたちを影で助ける医師たちの姿を記録にして、多くの人に知ってもらいたいと思ったそうです。
 チロ基金のことも書いてくださって感謝の気持ちを告げたところ、エッラさんからはチロ基金がベラルーシの子どもたちの命を助けてくれていることに感謝していると逆にお礼を言われました。
 ベラルーシ全体からすればチロ基金の力は小さなものかもしれませんが、多くの日本人の方々の力を合わせることによって長期に渡りこの支援活動が続けられているということを改めて感じました。
 それに対して感謝を忘れないベラルーシ人がいることもありがたいことです。
 手術器具の寄贈についてご支援くださった皆様に厚くお礼申し上げるとともにご報告いたします。

ゴシケーヴィチ関連情報を探しています

2014-06-08 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 「ゴシケーヴィチの木箱」以外にも「白ロシアのオデッセイ」にはゴシケーヴィチが写真撮影したときのネガ(感光版)を手にした日本人の写真家、「クワジマ ヨウイチ」さんの写真も掲載されています。
 添付した画像をご覧ください。  

 今でもゴシケーヴィチが撮影したネガが日本で保存されているのでしょうか?
 クワジマ ヨウイチさんとは誰なのか調べてみましたが、ベラルーシに住んでいる私には調べること自体が難しくて分かりませんでした。
 この写真家について、ご存知の方はどうか教えてください。

nbjc19990909☆yahoo.co.jp(☆を@に変更してください。)
 
 今ゴシケーヴィチのネガはどこにあるのでしょう?
 クワジマさんの個人蔵なのでしょうか?
 おそらく調べても「分からない」という結果になりそうなのですが、ゴシケーヴィチ生誕200年の今年、もう少しはっきりさせておきたいと思います。

 他にもゴシケーヴィチは函館領事時代、球状の明かり(ちょうちん?ランプ?)を日本人に寄贈し、それが「ベンテンザキ」(弁天崎?)という岬で灯されていた。その後この岬の反対側に停泊していた「シンケイ丸」という名の船で使われた。

 さらに「カメダ丸」という新しい船が造られたとき、その船長にゴシケーヴィチはバロメーターをプレゼントした。

 ・・・ということになっており、ロシア側の文献ではそのように紹介されていますが、日本語の文献では少なくとも私は目にしたことがありません。
 ベラルーシ人に「この船の名前を漢字で書くとどうなるのか?」ときかれたことがありますが、カメダ丸は「亀田丸」かなあ、と予測がつくものの、「シンケイ丸」は予測できません。

 弁天崎についてもはっきりどこなのか分かりませんでした。函館市に弁天町というところがあるのは分かったのですが・・・

 この船の漢字での名称をご存知の方がいれば、教えてください。
 この明かりやバロメーターは函館のどこかで保存されているんでしょうか?

(正直言ってあまり期待してませんが・・・)

 ゴシケーヴィチに関しては「伝説」が一人歩きしている部分もあるのですが、後世の研究のためには生誕200年の節目の年に当たる今、どれが真実で、どれが詳細不明事項なのか、もう少しきちんと示すことが現在の研究者の仕事だと思います。
 しかし実際には、とにかくゴシケーヴィチに関することをかき集めている段階にあり、真偽のほどが分からないし、明確にしようとする作業も後回しになっている・・・というのが現状だと感じています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 追記です。
 あまり期待していなかったにもかかわらず、多くのことが分かりました!
 情報提供してくださった方々に感謝しています!
 
 クワジマ ヨウイチさんについてはこちら、ベンテンザキ、カメダ丸についてはこちらをご覧ください。
 

ゴシケーヴィチの木箱は存在しない?

2014-06-07 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ゴシケーヴィチに関して書かれた文献で「白ロシアのオデッセイ」という歴史小説があります。
 グザノフというロシア人が作者なのですが、この本の図版の中に「ゴシケーヴィチの木箱」というものが戸田村立造船郷土資料博物館で保存されている、という説明とともに白黒の写真が掲載されているのです。
 添付画像をご覧ください。日本文化情報センターで所蔵しているのはベラルーシ語版なので少々分かりにくいのですが「戸田村の博物館で保存されているゴシケーヴィチの木箱」と説明があります。

 今年はゴシケーヴィチ生誕200年に当たり、生涯を紹介する映像作品の制作が現在ベラルーシで進められていますが、この木箱を画像資料の一つとして使えないものかとプロデューサーから頼まれました。つまり、本来ならば日本まで行って木箱の画像を撮影したいけれど、そんな予算がないので、博物館側にデジタル画像があれば貸してほしいという依頼を日本語に翻訳するよう頼まれたのです。
 そこで調べたところ、この博物館は現在、静岡県沼津市にある戸田造船郷土資料博物館であることが分かり、この件についてメールで私から連絡することにしました。

 しばらくして学芸員の方から丁寧な返信が届きました。
 それによると「ゴシケーヴィチの木箱」というものはないけれど、その写真に写っているのは通称「プチャーチンのトランク」と言われている展示品です、ということでした。

私は「ああ、やっぱり。」と思いました。この文献のために、ベラルーシやロシアでは「日本にゴシケーヴィチが残していった木箱が保存されている。」という認識が広まってしまっており、ゴシケーヴィチ関連のロシア語文献など読んでいると、たびたびそのような記述にお目にかかっていたのです。
 しかし日本発の文献や情報でそのような木箱が存在するという情報を見たことがなく、私自身は本当にこのような木箱があるとしても本当にゴシケーヴィチの所有物なのかなあと疑問に思っていたのです。

 学芸員の方のお話によると、これは「中国製のトランク」として台帳に記録されている展示品で、以前はヘダ号の設計を行った太田家にて「プチャーチン愛用のトランク」として保存されていたものだそうです。かつての太田家当主から博物館に寄贈されたそうですが、その方もすでに亡くなっており、詳細をたずねることができません。

 「プチャーチンって誰?」「ヘダ号って何?」と思われた方はぜひとも、この日露交流史の1ページであるこの史実についてお読みください。感動的です。

プチャーチンについてはこちら。

ヘダ号についてはこちら。

戸田造船郷土資料博物館のサイトはこちらです。


 さて、問題なのは「プチャーチン愛用のトランク」として太田家に代々保存されてきたこの中国製のトランクですが、本当にプチャーチンの所有物だったのかどうかというと、確たる証拠がありません。
 トランクの表面に「プチャーチン」と書かれているわけでもありません。
 しかも立派な錠前がついていますが、寄贈した太田家当主の話によると「鍵のほうは紛失した。」ということで、開けることができないのです。
 トランクを振ってみても、音はしないので、中身は空と推測されます。
 開けることができたら、もしかすると内部に「プチャーチン」とかかれているかもしれません。
 しかしどうやら100年ぐらいこのトランクは開けられていないようなのです。

 博物館に展示品を寄贈するとき、ふつうその大きさを測定したり、中を開けたり、材質や形状などを記録してカードにし、目録を作成します。
 しかしこの博物館では、「鍵がないから開けられない。」ということで、中身を確認をしたことがないらしいです。少なくとも目録に「中を開けたら、空だった。」「内容物はなし。しかし底部分にこのようなサインが残されていた。」といった記述や写真がありません。

 つまり本当にプチャーチンの所有物だったという証拠がありません。
 説明としては「伝 プチャーチン愛用のトランク。中国製」というのがより正しいです。

 ということは、もしかするとやっぱりゴシケーヴィチの所有物だった可能性もあります。
 なぜならヘダ号を設計した太田家には当時、プチャーチンだけではなくゴシケーヴィチもたびたび訪問しており(通訳ですから当然ですね。)太田家の人々と交流していたのです。

 トランクが中国製というのも、中国に10年近く暮らしていたゴシケーヴィチが持っていたとしてもおかしくありません。
 ただプチャーチンもロシア海軍の軍人ですから世界の海を航海していますので、中国製のトランクを入手していても不思議はないです。

 つまり分からないんですよね。せっかくなので、これを機会に錠を開けてみてはいかがでしょうか? と博物館側に提案してみました。でも昔の錠前なので、簡単に開けられないかもしれませんね。
 レントゲン写真を撮影する方法もあるけど、大変ですよね。所有者の氏名が判明するかどうかの確証もないし・・・。

 というわけで、結局なぞのままなのですが、つまりロシアやベラルーシでは信じられている「ゴシケーヴィチの木箱が日本に存在する」という事実もなくなってしまいました。
 
それにしてもゴシケーヴィチの木箱の存在について自分の著作で堂々と記述しているグザノフは、どうしてそんなことをしたのでしょうか?
 何らかの確証があったのでしょうか? それとも単なる勘違い?

 グザノフ氏も亡くなりましたので、質問することもできません。
 どちらにせよ、「日本にゴシケーヴィチの木箱が存在する」と言い切れなくなってしまったのが現状です。

 今年1年間はゴシケーヴィチ生誕200年の年で研究も進むし、その発表も盛んに行われていますが、木箱の存在については明確ではない、と言える機会がありましたら、私から発表します。