ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

オストロベツへの旅 4

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これもやはり学校の記念室に展示してあったゴシケービッチが自分の人生の中で移動した航路などを地図で示したものです。
 地名の表記がベラルーシ語になっていますが、日本人でも理解できると思います。
 生誕地ははっきりしていませんが、ミンスクの父親がロシア正教の神父であったため、ミンスクの神学校に入学。成績優秀であったため、卒業生のうち2名しか枠がなかったロシア、サンクトペテルブルグの神学校への入学ができました。
 その後ロシア宣教師団の一員に指名され、陸路で北京へ。北京滞在中は中国語を勉強しましたが、このほかのアジア各国の言葉もかじっていたそうです。
 中国でのミッション終了後、ペテルブルグ(当時はロシア帝国の首都)に戻り、中国語ができる、ということでロシア外務省アジア局に入り、次は日本派遣使節団に中国語通訳として日本へ。
 アフリカの喜望峰を回るルートだったので、出発してから10ヶ月後にやっと日本へ到着したそうです。
 しかもゴシケーヴィチは船酔いになり、長期間の船旅にも関わらず、船の揺れに体が慣れることはなかったそうです。
 つまり船に乗るたびずっと船酔いに苦しんでいたということです。

 このときの日本への航海のようすは同乗していた作家のイワン・ゴンチャロフが紀行文『フリゲート艦パルラダ号』に記録しています。(日本語訳では『ゴンチャローフ日本渡航記』)
 そこにゴシケーヴィチも登場しますが、ゴンチャロフとゴシケーヴィチでは身分に差があったためか、ゴシケーヴィチが船酔いでいつも気分が悪かったせいか、この2人は10ヶ月の長旅にもかかわらず、あまり会話をしていません。
 しかもゴンチャロフはゴシケーヴィチのことをウクライナ人と誤解しており、紀行文『フリゲート艦パルラダ号』ではゴシケーヴィチの名前をヨシフではなく「オシプ」としています。
 オシプというのはヨシフのウクライナ表記です。
 そのため、オシプ・ゴシケーヴィチと思っている人もいるのですが、これはゴンチャロフの勘違いです。

 やっと日本に着いたと思ったら、地震による津波で載っていた船が大破したり、苦労続きの日本派遣使節団・・・。
 (詳しくはこちらをご覧ください。「戸田村(静岡県)」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E6%9D%91_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)


 戸田村の人は本当にすばらしい! 地震の被災者であったにも関わらず、沈没しかかったロシア船から乗組員を救助。さらには協力し合って船を建造するのだから、感動です。)

 この後もゴシケーヴィチはロシアへの帰路、イギリス船に拿捕され、9ヶ月も橘耕斎と船中に抑留されます。
 これはゴシケーヴィチが犯罪を犯した、ということではなく、当時、クリミア戦争が進行しており、イギリスはロシアと敵対関係にあったため、海上でロシア人を発見すると、イギリス船が捕虜にしていました。
 橘耕斎はロシア人ではなく日本人だったのですが、密航者だったので、怪しいということでイギリス船に乗せられたのです。
 しかし転んでもただでは起きないこの2人。
 ゴシケーヴィチと橘は言葉を教え合い、さらには和露事典までいっしょに作ってしまうのです。

 イギリスのせいで大変な目に合いましたが、やっとロシアに戻ってくると、今度は初代日本領事に任命されます。今回はシベリア経由で函館へ。
 任務終了後もシベリア経由でペテルブルグへ戻ります。

 しばらくペテルブルグで働いていましたが、慢性肺炎となり、気温が低く日照時間も短いペテルブルグでの生活が健康によくないから、という理由で退官。
 故郷のベラルーシへ戻ります。しかし生まれ故郷ではなく、なぜか(縁もゆかりもなさそうな)現在のオストロベツのマリ村で土地を購入し、家を建てて余生を過ごすことになります。
 どうしてゴシケーヴィチがマリ村を人生最後の場所に選んだのかはよく分かっていませんが、ゴシケーヴィチの妻がこの村の出身だったようです。
 ちなみにゴシケーヴィチの最初の妻、エリザベータは函館で亡くなっており、その墓が今でも残っています。
 マリ出身の妻というのは2番目の妻、エカテリーナです。
 
 とにかく60年の人生の中でどれだけの距離を移動しているのか・・・この地図を見ていると目が回りそうです。
 この行程を全部つなぐと、地球3周の距離になるそうです。
 
 静かなマリ村でゴシケーヴィチは「日本語の起源」という本を執筆しています。(しかし出版されたのは1899年になってから。死後24年も経っています。しかも出版されたの場所はロシアでもベラルーシでもなくリトアニア。この本はベラルーシ国立図書館で大切に保存されています。)

 それにしてもすごい人だと思います。私もゴシケーヴィチみたいな人になりたいよ・・・。(でも無理・・・。だいたい脳みそがちがうし、私にはこれだけの旅をする気力も体力もない・・・。)

 

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